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ルーツ~魂のすむところ  作者: 木柚 智弥
それが僕の心の在りか
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12/14

見つけた心

「和巳君はもうじき薬が切れるでしょう」

 先生は診察台に寝かされた僕と、その隣に座る拓巳くん、途中で合流した真嶋さんに向かって言った。

「ただの痺れ薬のようだから心配はいりません」

 穏やかで落ち着いた声に、僕はホッとして体の力を抜いた。

 沖田さんが到着したのを受け、僕たちは彼に後を任せてすぐに病院に飛んだ。俊くんは救急扱いで受付をパスし、先に診てもらうことができた。今は個室で点滴を受けているのだという。

「ただ、雅俊君がちょっと……」

 先生は椅子の上で身じろぐと、少し渋い顔になった。

 渡辺(わたなべ)幸人(ゆきと)先生は、十代の頃から俊くんを診続けている、気さくでやさしい年配の先生だ。拓巳くんとの付き合いも長く、彼の美貌に耐えられる稀な人として信頼も厚い。

「雅俊が?」

 拓巳くん問いかけに、彼はため息をついた。

「体の中を火傷しているんだ。しばらくはかなり(うず)くと思うよ」

「体の中を……? 皮膚ではなく?」

 拓巳くんが何かを思い出すようにして尋ねると、渡辺先生が説明した。

「君の背中は、直接肌に押し当てられたためにできた外傷なんだ。スタンガンは本来、微弱電流を流してショックを与えるものでしょう? 君の時の電力は普通だったと思うよ」

 あの背中のひどい傷痕は、スタンガンを押し付けられてできたのか……!

 僕は苦い顔で先生と向き合う拓巳くんを見上げた。

 だから俊くんは、すぐにあの男の言葉に従ったのだ。彼らのような人種は脅しでなくやると知ってたから……。

「雅俊君は、一瞬とはいえ最大値でしょう? つまり、小さな雷に打たれたのと同じだ」

「雷……!」

 思わず声を漏らすと、先生がこちらに顔を向けた。

「……診たところ、体の中のあちこちが少しづつ火傷してると思う。でも、内側なので点滴や投薬くらいしか手が打てないんです」

 だから、入院が憚られるなら自宅療養も選択できます、と先生は言った。それは、俊くんの特異な体を気遣っての言葉だと知れた。

 手足の痺れが治まったあと、僕は拓巳くんと真嶋さんに伴われて俊くんの入った個室に行った。付き添っていた祐さんが、枕元の丸椅子に僕を座らせてくれた。

 意識を回復した俊くんは、病室を訪れた渡辺先生に希望を聞かれると、自宅療養を選んだ。

「誰か、世話を任せられる人はいるのかい?」

 僕はすぐに答えた。

「僕が、僕がお世話します」

「君が?」

 彼は少し目を見張って枕元に座る僕を見、次に俊くんを見た。俊くんが気だるげな掠れ声で言った。

「おれのアトリエを預けた弟子なので。おれを知ってます」

 先生は驚いたようにまた僕を見ると、今度は後ろに立つ拓巳くんと真嶋さんに目を向けた。無言でいた拓巳くんが口を開いた。

「うちに連れていきます。俺と、和巳で世話します」

 真嶋さんが「僕も手伝いますし」と言葉を添えると、先生はそれ以上は聞かずに頷いた。それから点滴が終わるのを待ち、ようやく帰途につくことができた。



「ここに立て和巳!」

 鋭い刃物で切りつけるような声がした。

 見慣れたリビングも色がないように寒々として見える。真嶋さんがソファーから立ち上がろうとするのを、手前の祐さんが手で止めている。それを目の端に捉えながら、僕はリビングの中央に立つ拓巳くんの前に進み出た。すると次の瞬間、頬に灼熱の痛みが走った。

「……っ」

 僕は体を横に揺らがせながら、足を踏ん張ってこらえた。

 もう一度、今度は反対側の腕が振り上げられる。

 僕は目をつむり、黙ってそれが下ろされるのを待った。すると「もうよせ」と声がして目の前が陰った。

「おまえが痛そうだ。よせ」

 目を開けると、祐さんが振り下ろす寸前の拓巳くんの腕をつかんでいた。

「止めるな祐司!」

 拓巳くんが腕を外そうともがくと、祐さんは背中から抱え込むようにして動きを封じた。

「和巳には一回で十分だ。それより雅俊が呼んでいる。行かせてやれ」

 俊くんは今、僕の部屋で休んでいる。

 それには答えず、拓巳くんはヘイゼルの瞳を怒らせて僕を睨みつけた。

「あれほど近づくなと言ったにもかかわらず……! 俺たちの言葉を無視したおまえの行動の代償を雅俊が支払った。わかってるのか!」

「はい……すみませんでした」

「健吾の機転がなかったら、今ごろおまえはあの要のところに……!」

 拓巳くんは呻くように言うと、祐さんの腕の中で顔を覆ってしまった。それを目の当たりにして、俯いた僕の目の縁にもジワッと熱が生まれた。

 僕が助かったのは、沖田さんや真嶋さんの働きに運が味方したこともあるけれど、やはり一番は健吾のお陰だった。

 自分で宣言したとおり、江莉華と合流した僕の跡を()けた健吾は、はじめは予定通り場所を確認してから一旦、その場を離れ、約束の時間になったら戻って来るつもりでいたという。が、ビルや喫茶店の様子に漠然とした不安を覚え、それを(くつがえ)して留まることにしたのだ。

 ただし、健吾が恐れたのは凱斗の父親ではなく、他のバンド仲間がいた場合だった。凱斗自身は大人の行動をしてくれても、他のメンバーはどうなのか。中には曽根原のような存在もいるかも知れない――そう思い、取りあえず裏口を探ってみることにしたのだそうだ。

「大抵、そういう場合は裏から入るからさ」

 とは、病院に来る途中まで付き添ってくれていた健吾の言葉だ。

 一通り調べたものの、たいした手がかりを得られなかった健吾は、非常階段から少し離れたところで店から出てきた江莉華を目撃した。物陰から目にした彼女の、暗く、陰りを帯びた表情が気にかかった彼は、やがて稜先輩を頼ることを思いつく。

 学園の男子が束になっても敵わない彼女なら――そう考え、携帯で稜先輩に連絡を取った。しかし個人アドレスを知らなかったので、まずは道場に電話を入れた。そこに、運よく先輩がいたのだ。

「なんですってっ!」

 僕が一人で凱斗の父親に話を聞きに行ったと聞かされた稜先輩は、稽古着を脱ぐ手間も惜しんで現場に駆けつけてきたという。自宅から一駅だったことも幸いした。彼女が到着したまさにそのとき、裏家業専用車にしか見えない、スモーク貼りの黒い高級車がビルに横付けされたのだ。

 そこから出てきた黒スーツの男を見た瞬間、稜先輩は武道に携わる者として、男がその道の玄人(プロ)であることを看破した。さらに洗練されたグレーのスーツ姿の男、すなわち高橋要が姿を現し、健吾が調べた非常階段に吸い込まれたことを確認すると、彼女は血相を変えて拓巳くんたちに状況を知らせるよう、健吾に迫ったという。

「早く! 直接本人に知らせるすべはないのっ?」

 問い詰められた健吾は、優花から預かった真嶋さんの携帯番号を思い出した。

「優花のお父さんなら!」

 かくしてまず真嶋さんに連絡がいった。時間はその時点で五時三十分。

 一方で、用事があるから六時を過ぎる、と僕から連絡を受けた沖田さんは、以前、拓巳くんたちに頼まれた〈クラッシュゲート〉の浜田凱斗を調べるべく、Gプロの事務所に届いたロックコンテストの資料を眺めていたという。そのとき資料に載っていた写真の中に凱斗の姿を見いだし、それが、かつて自分を指導してくれた佐藤マネージャーの息子、佐藤凱斗であることに気がついたのだそうだ。

 ――沖田さんは、佐藤マネージャーの転落を知っていた。

 当時、酒に溺れ、危ない薬に手を出し始めたとの噂を耳にした沖田さんは、何度か家を訪ねてはかつての上司を見舞い、凱斗や母親を励ましたりした。が、Gプロで活躍する沖田さんを佐藤が次第に妬むようになると、やむなく訪ねることを控え、やがて彼が裏家業の人と繋がったと聞き、その後の接触を断念したのだという。

 そうして雑誌のインタビューの合間に部屋から出てきた俊くんに、凱斗が佐藤元マネージャーの息子であることを知らせた。

「あの佐藤の息子……っ!」

 十年前に起きた、札幌コンサートの誘拐暴行未遂事件のあと、責任を取らされた佐藤マネージャーが自分たちを恨んでいたことを俊くんは知っていた。

「そりゃあ昔のことに詳しくても無理はない。父親が教えたんだ。何かある前にわかってよかった」

 沖田さんと話していたちょうどその時、真嶋さんからの緊急メールが俊くんにいったのだ。

「なんだって⁉ よりによって佐藤と!」

 俊くんからの電話で、沖田さんの話を聞いた真嶋さんは、裏社会との繋がりや薬物の話を聞くうちに、恐ろしい可能性に思い至った。

「待って。その桜木町のビルが何番地だって?」

 数分後、健吾に番地やビルの名称を調べてもらった真嶋さんは俊くんに電話でこう告げることになった。

「大変だ! 今、和巳が佐藤さんと話をしているビルは、あの高橋要の持ち物だ!」

 かつて拓巳くんや幼い僕を巡り、高橋要と二度に渡って争い、彼から親権を剥奪するために司法知識の限りを尽くして戦った経緯(いきさつ)から、真嶋さんは彼の持つ土地や建物などはすべて把握していたのだった。

「なんだと――っ⁉」

 こうして状況を悟った俊くんがインタビューを捨て、なりふり構わずに飛び出した。時間は五時三十五分。目黒にあるGプロ事務所からは早くて約三十分。そして約十分後、沖田さんから状況説明された拓巳くんと祐さんがあとに続くことになったのだという――。

「須藤稜が踏み込んでくれたから、雅俊が先に着いてくれたから、運よくおまえは助かったんだ」

 拓巳くんは祐さんの肩に頭をつくと、声を絞るようにして嘆いた。

「二人の犠牲がなかったら、おまえは……」

 うなだれたまま、僕は拓巳くんの慟哭(どうこく)を受け止めた。

 そんな様子を見かねたのか、真嶋さんが立ち上がり、祐さんから拓巳くんを抱き取とると、抱えるようにして一緒にソファーに腰を下ろした。

 そのまま背中をゆっくりとなでながら、彼は僕に目を向けた。

「和巳。もういいから雅俊のところへ行きなさい。心して看病するようにね」

 僕はもう一度頭を下げ、リビングをあとにした。



「俊――」

 改めてその姿を見たとき、背中に震えが走った。

 こんなに線の細い人だっただろうか――。

 熱が出てきたのか、なめらかな額には汗が浮き、栗色のウェーブが何本かまとわりついている。痛くて辛いのだろう、形のいい眉は僅かに寄せられ、アーモンド型の瞳は伏せられて濃い睫毛が目元に影を落としている。息苦しいのか、唇は喘ぐように薄く開かれていた。

 僕は絞ったタオルで顔や首回り、胸元の汗を拭いた。上気した首筋が手に触れると、その熱さに目尻から涙が溢れた。するとタオルを動かす手をふいにつかまれだ。

「俊くん……」

 気だるげな表情ながら、はっきりと目が開かれている。

「顔を……よく見せてくれ」

 床に膝をついて顔を近づけると、首の後ろに片手が添えられた。僕は導かれるままに頭を傾け、唇を重ねた。

 それはやさしく、労わるような口づけ――。

 やがて離れた唇の下、彼の口から吐息とともに言葉が漏れた。

「おまえが無事で、よかった……」

「俊くん」

「何を……飲まされたんだ。体は、大丈夫なのか?」

「とし……」

「佐藤は、さぞかし恨みの言葉をおまえにぶつけたろうな……?」

「――っ」

 目の奥からまた涙が込み上がり、溢れて滑り落ちていった。

 こんな目に遭っても、その口が紡ぐのは僕を気遣う言葉ばかり。眼差しに宿るのは心配に揺れる淡い光だけ……!

「雅俊さん」

 改めて呼びかけると、俊くんは目を見開いた。

「雅俊さん……僕はまだそう呼べない。未熟で、相応しくないから」

 涙がまた頬を滑った。

「でも、わかってしまった。そう呼ぶに相応しい者になりたい。今のように、庇われて守られているだけでなく」

 僕は首に添えられていた俊くんの手を外し、両手で包んだ。そして気づいた。自分の手のほうが大きくなっていることに。

「僕は、自分の立ち位置がつかめなくて苦しかった。……拓巳くんに、稜先輩に、そして俊くんに愛情をもらってばかりだったから、自分がそれに値する者なのかがわからなくて不安だった」

 だから、凱斗の父親に会わずにはいられなかった。

「でも、目の前で俊くんが倒れたとき、ひとつだけはっきりしたんです。他の何よりも、あなたが傷つくことに僕は耐えられそうにない……!」

 過去の事実よりも、稜先輩の心よりも、拓巳くんの嘆きよりも――。

「未熟で愚かな僕は、もうそばにはいられない。あなたは僕のために、自分をなげうってしまうから」

 それはもう怖くて受け取れない。僕は守る者になりたいのだ。

「アトリエにも当分は行きません。でも、必ず相応しい者になってみせます。だから、少しだけ待っていてください」

 熱に潤んだ瞳が見つめ返してきた。僕は想いのすべてを込め、なめらかな手の甲に唇を落とした。すると――。

「却下」

 彼は一言のもとに切り捨てた!

 ――――うそっ! 精一杯、告白したのにっ!

 弾かれたように顔を上げると、不機嫌そうな眼差しとぶつかった。

「いい調子で始めといて……怪我人に向かってなんてヒドい締め(くく)り方をするんだ。……ショックで死んじまうぞ」

「えー……っと」

 戸惑っていると、俊くんはこう続けた。

「おれが……一体いつからおまえを望むようになったと思ってるんだ」

 い、いつからなんだろ……?

 おそるおそる尋ねると、怒ったような声が返ってきた。

「少なくとも、鍵を渡した頃にはもう望んでいた、くらいはおまえにだってわかるだろう」

 実際はもっと前だ、とのセリフに僕は赤面してしまった。

「なのに……今さらそーんなゴタク並べて離れていかれたあげく『雅俊さん』とか呼ばれても、ちっとも嬉しくない」

「でも……」

「無理しなくていい。……おれは、おまえのすべてをそばで見ていたい……未熟でも、子どもでも」

「………」

「自然に呼べる時がくる。そんなことより……」

 少し息を継いだ俊くんは、僕の手を握りながら黒目勝ちの瞳を向けてきた。

「おれを、受け入れてくれるのか」

 僕は両手で握り返した。

「はい」

「おまえを受け取らせてくれるのか」

「はい……相応しくなったら」

 俊くんは、それを聞くと柔らかい微笑みを浮かべてこう言った。

「だったらおれのそばでそれをしてくれ。急がなくていい。――おれは待ってる」



 次の日の夕暮れ、僕は稜先輩の自宅近くに赴き、初めて自分から彼女を呼び出した。

 来てもらった自宅そばの公園は、時間のせいなのか人影はなかった。

「蒼雅先生の容態はどうなの?」

 ベンチに座った稜先輩が聞いてきた。僕は隣に腰かけて説明した。

「威力が強かったので、体の内側に火傷を負いました。当分は……」

 口に出すとなんて恐ろしいのだろう。なのに、俊くんは自分の体のことは一言も僕に謝らせなかった。込み上げてくるものを押さえ、先を続けた。

「安静が必要とのことです」

 顔を上げると、茶色の眼差しが目の前にあった。

「先輩にも……すみませんでした。体は大丈夫ですか」

 彼女は表情を和らげて答えた。

「私は大丈夫よ。……ね、和巳君」

「はい」

「あなたはもう、私を『稜さん』とは呼んでくれないのね……?」

 僕は目を閉じると、痛みとともにその言葉を胸に取り込んだ。

 ――もう、わかっていた。間違いなく僕はこの人に惹かれていた。

 自分の姿勢を貫く強い魂に。

 輝きを放つ代わりにまといつく孤独――それを淡々と受け入れる姿に。

 理由もわかっていた。その魂のあり方は、僕を取り巻く大切な人たち――特に俊くんに共通していたのだ。

 人の上に立つ器量と、棒術師範として責任ある立場を背負う稜先輩は、周囲の生徒たちの中にはもはや仲間を見いだせなかったに違いない。だからこそ、やはり特殊な環境に育ち、平凡とは言い難い人たちと馴染む僕の中に受信機を見出したのだ。

 そして、それを感じ取ったからこそ僕は――。

「あなたを受け入れたかった」

 目の前にある稜先輩の眼差しが揺れる。

「あなたを『稜さん』と呼びたかった。寂しさを取り除いてあげたかった。僕にはそれができるとわかっていたから」

 熱くなりそうな目頭を、(うつむ)いて押さえる。

「あなたをこれ以上悲しませたくなかったから、自分がそれをしなければならないのが納得できなかった」

 だから、返事ができませんでした――。

 僕がそう伝えると、稜先輩は口を開いた。

「今はもう、納得できたのね?」

「はい」

 あのとき、同じように害された二人を前にして、僕の心は露骨なまでに差をつけた。

 探り当ててしまった心の()りか。僕の魂の住むところ。

 何を踏みにじっても、誰を傷つけようとも……!

「あの人を失ったら……僕は立てそうにありません」

 そう言い切ったとき、稜先輩の手が僕の肩に触れた。

「顔を上げてちょうだい」

 顎に添えられたしなやかな指先に逆らわず、僕は上を向いた。そこにはうっすらと微笑む稜先輩の顔があった。

「……今朝早くに、あなたのお父様が見えられたの」

「え……?」

「私と父の前で、頭を下げられて。私の父は今回の経緯(いきさつ)を知っていたから、娘が好いた者のためにしたのだから遠慮はいらない、いつでも使ってやってくれ、と言ったの。そうしたら」

 そこで、稜先輩の微笑みに複雑そうな色が混じった。

「申し訳ないがそれも合わせてお詫びしたい、と」

「え……っ」

 僕が驚いて聞き入る中、先輩は続けた。

「父が促すと、息子はすでに心に住まわせている人がいたのに、お嬢さんが魅力的だったので見失いそうになっていた。だがどうやら目を覚ましたようだ、と」

 そして頭を下げていかれたわ、と締め(くく)った先輩は、少し悲しげな顔になった。

「お別れね」

「……はい」

「今、この時を過ぎたら、私たちはただの先輩と後輩よ。だから、私に惹かれたと言ってくれるなら、最後に私に」

 そこで先輩の声が震えた。

「思い出をちょうだい。――私が次へ進めるように」

 僕はベンチを離れ、座ったままの稜先輩の前に立ち、その頭を自分の胸に抱きしめた。背に回された彼女の指先がそこをつかむの感じたとき、顔に片手を添え、口づけを落とした。彼女への感謝を込めて――。

 やがてそっと離すと、もう一度抱きしめ、最後に顔を覗いて伝えた。

「ありがとう、稜さん。行ってください。先へ」

 先輩はゆっくりと立ち上がり、

「ええ、あなたも」

 と笑みを残すと、振り返らずに去っていった――。


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