過去からの使者
目を見開いたまま固まっていると、椅子から立ち上がった凱斗が暗い眼差しで見下ろしてきた。
「おまえへの不手際をした親父を、タクミは断固として許さなかった。だから、Gプロを退職ぜざるを得なくなったんだ。そして職を転々としながら、段々酒や薬に溺れ、自分の過失を他人になすりつけちゃあ、俺や江莉華やおふくろを殴ったり蹴ったりして憂さを晴らしたんだ。江莉華がおかしくなったのはそのせいなのさ」
「――!」
僕の中で重なる江莉華と拓巳くんの無表情――親からの虐待。壊れた心。
「おまけに、借金のカタに自分の息子を売り飛ばした。俺は二年間、契約書を盾に夜、働かされたぜ」
「えっ……!」
「そのくせ、俺がドラムで注目されるようになったら、こんどは口を挟むようになったんだ。俺のいたバンドのメンバーに手を出してバラバラにして……っ」
凱斗の顔が歪んだ。
「『自分が選んだ人だから』って、必死に家計を支えていたおふくろも、俺のメンバーに暴力を振るった親父を見て、完全に縁を切る決心をしたんだ」
遅すぎたけどな、と凱斗はため息を漏らし、へたり込んだように座る僕に「立て」と手で合図した。
「これが、おまえの存在によって起こったことだ。俺も親父よりデカくなってからは反撃したし、おふくろが頑張ってくれたお陰で今は生活にも苦労はしてねえ」
でもよ、江莉華を見てると切ねえよな、と凱斗はこぼした。
「取り返しがつかない傷ってあるからさ……別にワビ入れろとか思うわけじゃねぇけど、なんにも知らないでいられるのはあんまりだろ?」
「………」
僕は、目尻から雫をこぼしながら彼の顔を見上げた。
「おまえに渡した写真は、親父の部屋に貼ってあったやつなんだ。親父はおまえの親たちを恨みながらも、あの凄いバンドを手がけたのが自分だと誇らずにはいられなかった」
凱斗の切なげな目が宙をさ迷って揺れる。
「おまえの親たちだって、悲惨な過去を背負ってるだろ?」
それもまだ知らねえか、と凱斗は嘆息した。
「俺は昔、親父に折檻されるたびに、親父を狂わせたあの写真のメンバーを恨んだ。でもある時、彼らの過去の生き様を知って、恨みながら憧れた」
その目が僕に向けられた。
「酔った親父は上機嫌になると、よくその写真の戸部若砂を指差して、短い間だけど一緒にマネージャーをしてたんだ、と話していた。だから、彼に生き写しのおまえがタクミの息子と聞いたときは驚いた。まさか戸部若砂から『生まれた』とは思わなかったから」
初めて会ったとき、凱斗は僕が拓巳くんの子どもと聞くと『そんなはずはねえだろ』と声を上げたのだった。
「おまえに会ったあと、改めて親父から色々聞き出して、今の話を知ったんだ」
――まさしく命と引き替えにして生まれてきた僕のことを。
「俺は前から、親父が唯一、その仕事ぶりを誉めて惜しんだ戸部若砂に会ってみたかった。会って、まともな頃の親父の話を聞いてみたかったんだ」
それは、わかる気がした。
よく注意して見れば、大柄な骨格や顔の造作など、凱斗の姿は佐藤と共通していた。もはや語り合うすべを持たない、けれども紛れもなく血の繋がった父親を前にして、きっと凱斗もなぜ自分が生まれたのか、自分のルーツがなんだったのかを知りたくて足掻いていたのだ。
「だから、死んじまってたのは残念だったし、息子であるはずのおまえが、戸部若砂や親父のことを何も背負わずに生きてることに、腹が立ったのさ」
凱斗は言葉を切り、「行くぜ」と身振りで示してから踵を返そうとした。すると。
「ダメだよ凱斗。和巳君には、まだ用事があるんだ」
後ろから佐藤の声が響いた。振り返ると、彼は歪んだ笑みを浮かべていた。
凱斗が顔を戻した。
「今日はよせよ。遅くなると俺が困る。こいつの親たちは厄介だろうが」
「それこそ僕だって困るよ。だってもう約束してしまったんだ」
佐藤はチラッと壁の時計を見やると、テーブルに身を乗り出して僕の腕をつかみ、強い力で引っ張った。
「ちょっと待ってくださ……っ」
僕は咄嗟に空いてる手でテーブルの縁をつかみ、足を踏ん張ろうとして――腰が抜けたように床に崩れてしまった。
「え……?」
体に力が入らない。
すかさず佐藤が僕の体を抱き上げ、自分が座っていた椅子に座らせた。
「親父、何してんだよ」
凱斗が訝しげに声を上げた。僕は痺れたような手足を見つめ、思い至った。
……コーヒー?
頭上の佐藤が凱斗に向かって説明した。
「大丈夫だよ、危険な薬じゃないから」
薬……?
事もなげに言われ、背筋に怖気が走った。
何か、おかしくないか?
佐藤が歪んだ笑みを浮かべた。
「だっておまえたちは僕を捨てていっちゃっただろう? だから、拾ってくれた人の頼みは聞かないとね」
「拾ってくれた……?」
凱斗がつぶやいたそのとき、まるで聞いていたかのように店の奥のドアが開き、一人の男が姿を現した。
その男を見た瞬間、凱斗の目が驚愕に見開かれた。
「オーナー……!」
「久しぶりだな、凱斗。ずいぶん大きくなった」
彼はゆっくりと僕たちのほうへ歩み寄ると、二歩ほど手前で足を止めた。
「もう、私と殆ど変わらないのか」
そういう男のほうもかなり上背があった。
四十代半ばくらいだろうか。上質なグレーのスーツを着こなした立ち姿はすらりと引き締まり、整えられたオールバックがこれ以上ないほど決まっている。鋭角的で男らしい容貌は迫力を帯び、ノーブルな雰囲気を漂わせている。喫茶店オーナーというよりは事業者、それもかなり力のある立場の人であろうことが、その硬質な容貌から読み取れた。とてもじゃないが、高校生ごときと親交を結ぶタイプには見えない。
男は凱斗のほうに歩を詰めると、ごく自然な動作で顎に手を添えた。
「残念だな。私の店ではもう活躍はできなさそうだ。だが、おまえが望むなら特別に席を設けることはできるぞ」
凱斗は金縛りに遇ったように動かず、完全に圧倒されている。その様子から、彼と凱斗の間に、はっきりとした上下関係が築かれていることを悟った。
この人は一体……?
彼は凱斗から手を離すと、今度は佐藤の椅子に座る僕に向き直った。薄い色の眼差しが射るように突き刺さる。
「ようやく会えたな、和巳。予想したとおりの成長ぶりだ」
「えっ……?」
鋭い目元が僅かにほころんでいる。僕は思わず質問した。
「あなたは……僕を知っているんですか?」
男は笑って答えた。
「もちろん知っているとも。一緒に過ごしたことだってある。もっとも、覚えてはいないだろうがな」
「和巳、おまえはこの人を知らないのか!」
凱斗が驚きの声を上げた。けれども僕には覚えがなかった。ただ、彼の薄い目の色が気になった。あまり他所では見かけない、珍しい色……。
「では佐藤君。確かに和巳は受け取った。報酬はいつもの口座だ。――運んでくれ」
運ぶって、どこに⁉
呼びかけた先には、やはり奥の裏口のドアから入ってきたのだろう、黒いスーツ姿の、これまた体格のよさそうな男が一人、音もなく控えていた。
まさか、薬で動けなくして、僕を。
部下と思われるその男は無言で歩み寄ると、僕の体を持ち上げようとした。
「やっ、やめっ……!」
僕は咄嗟に身をよじり、床に体を投げ出すようにして手を逃れた。凱斗がすばやく僕の体を受け止め、カウンターの脇に寄せる。
「こいつをどうする気だ」
「それは、おまえならわかるだろう?」
彼の答えに凱斗の背中が震えた。この凱斗を震えだたせるからには、尋常な人ではないのだ。本気で僕を連れ出すつもりでいる。
――どうしよう。これは予想外すぎる。
(おい、シャレにならねえ展開で悪いな。六時にタクミがここへ来るのか?)
凱斗のささやきに僕は首を横に振った。健吾と交わした学校の廊下でのやり取りが脳裏に浮かぶ。
『――わかったよ。じゃあ……時間を決めとこう。俺は駅からおまえの跡を尾けて場所を確認する。迎えに来るから話は一時間だぞ。それを過ぎても出てこなかったら、拓巳さんのいる事務所に連絡するからな』
健吾の戒めを、僕は受け入れたのだ。けれどもそれはあくまでも、凱斗とのやり取りが暴力じみたことにならないかを警戒してのことで、こんな事態を想定していたわけじゃない。
(来るのは健吾です。六時を過ぎたら父に連絡がいくことにしてあって……)
(おまえ、動けるか)
(……無理そうです)
手足が痺れたように動かないと告げると凱斗は苦い顔をした。六時にはまだ二十分ほどある。
「凱斗。和巳をこちらに寄こせ」
男が一歩近づいて言った。
「今ならまだ大目に見てやろう」
黒スーツの部下が凱斗に迫る。凱斗は額に汗を浮かせながら僕をグレーのスーツの男から隠すように後ろに押しやった。
「こいつにはちゃんと帰すと約束しちまった。そのうち迎えも来るぜ。あんたが困るんじゃないのか?」
「拓巳が、ここへ来るのか?」
拓巳くん絡みなのか。
僕はいよいよ切羽詰まった。
こうなってくるともはや事態を楽観できない。彼らは最初から僕を誘拐する気でいたのだ。
仕事関係上のトラブルか。それとも別の目的があるのか。
男は前に身を乗りだして凱斗の首に手をかけた。たったそれだけで、凱斗は動けなくなったようだった。その隙に、とうとう僕は部下の男に胴を捕らえられ、カウンターから引き離された。逃れようにも、手足の感覚が鈍すぎて話にならない。
「それは嬉しい情報だ。……と言いたいところだが、ここはまだ私の城ではない。早々に退散するとしようか」
言葉を受け、部下の男が僕の体を裏口のドアに向けようとしたそのとき。
バンッッ!
突然、裏口のドアが音をたてて開け放たれた!
「――おまちっ!」
叫びと同時に飛び込んだ何かが部下の男にぶつかった。
「うぉっっ」
呻きとともに男の腕が胴から外れ、後ろに倒れていく。
僕の体もつられて後ろに傾く。
「わっ」
すると手が伸びて僕の腕をつかみ、グイッと逆方向に引っ張った。
痛っっ!
肩の付け根に一瞬、負荷がかかり、痛みに息が詰まる。
そのまま引っ張られた方向、すなわちカウンター脇の壁と床の境目に背中から激突し、衝撃に目が回った。
それをこらえて頭を床から持ち上げたとき、バササッと衣擦れのハデな音がして、白い布に包まれた二本の足が目の前の床に着地した。見ると、足先を包んでいるのは白い足袋だ。その足袋の上に、黒くて襞の多い布がバサリと落ちかかる。驚いて見上げた先には――。
「稜先輩っ!」
稜先輩がなぜ――?
長い髪をうなじでひとつに縛り、稽古着の黒袴姿もりりしい稜先輩が、六角棒を構えて立っている。
「乱暴はご容赦を」
先輩は振り向くことなく声をかけると、目の前で体勢を戻した部下の男に襲いかかった。
――ガッ!
鋭い突きを部下の男が腕で払う。弾かれた棒は弧を描いて男の頭を襲い、男はよけながら足蹴りを繰り出した。先輩はくるりと体を返すと、目にも止まらぬ早さで棒を右に左に突きだし、それを払われた瞬間、腕を引くようにして棒を横に薙いだ。
「うぁっ!」
もろに胴にヒットし、部下の男は床に手を突いた。そこに容赦なく棒が振り下ろされる。
ガッッ!
首の付け根を打たれた部下の男は床にくずおれた。時間にして僅か数分。相変わらずスゴ過ぎる。
稜先輩は構えを解かず、今度は奥に立つグレーのスーツの男に対峙した。
「和巳君を攫おうとはいい度胸ですね。どちら様ですか?」
「これはまた……なんとも勇ましいお嬢さんだな」
彼は感心したように声を漏らした。
「君は? ガールフレンドにしては、和巳の反応に違和感を覚えるが」
「未だ求愛中の身ですので。あなたこそ彼を見る眼差しが尋常ではないですね。何者です?」
「私は権利者だ。佐藤君から話を聞いて、彼をもらい受けにきたのだよ」
「権利者?」
稜先輩が佐藤のいるフロアに目を向けると、彼は中央のテーブルを離れ、ニヤニヤと笑いながら近づいてきた。そんな父親を牽制するように、凱斗が稜先輩との間に立った。
「いやあ、お見事だねぇ。僕がGプロにいたならアクション女優にしたいくらいだ」
彼女は鼻白んだ。
「結構です。それ以上近づかないでくださいな」
稜先輩の意識が僅かに佐藤へと向いた瞬間、それまでゆったりと立っていた男が素早く動いて彼女に腕を突き出した。手に持ったものが胸に押し付けられる。
「あっっ!」
先輩の体が痙攣した。
僕と、振り向いた凱斗が同時に叫んだ。
「稜さん!」
「稜っ!」
目の前で稜先輩の体が崩れ落ちた。男はすかさず僕のそばに移動し、片腕を胴に回して軽々と持ち上げた。
「離してくださいっ」
「そうはいかない」
咄嗟に動こうとした凱斗も飛びついた父親に両腕をつかまれる。
「離せよ、このっ」
「ダメだよ。邪魔しないでくれないかい?」
焦点もロクに定まらない様子なのに、異様な力の強さで凱斗を拘束しているのが見て取れる。
彼が父親の腕を外そうとした隙に、男は僕の胴を抱えて半開きの裏口のドアへと向かった。目の端に、稜先輩が上体を起こそうともがいている姿が見える。
「稜さっ……」
ドアの前まで引きずられたとき、父親を蹴り離した凱斗が稜先輩に腕を伸ばしたのが目に映った。すると。
――ドンッッ!
突然、入り口のドアがもの凄い勢いで開いた!
「和巳っ!」
飛び込んできたのは――。
「俊くん!」
薄手のカーディガンを羽織り、栗色のウェーブを乱した俊くんが息を切らせてそこにいた。
なぜ、俊くんが今ここに?
床に尻餅をついていた佐藤が俊くんを見て声を上げた。
「雅俊君!」
すると頭上で男の感慨深げな声がした。
「雅俊か」
俊くんは一瞬で僕を視界に捉えると、まっすぐに向かってきた。すると男が声を上げた。
「雅俊! これを見ろ」
僕の首に何かが押しつけられた。さっきの、稜先輩がやられた何かだ。
「スタンガン!」
叫んだ俊くんは、僕にあと二歩のところで立ち止まった。
「和巳に危害を加える気か」
「加えたくはない。大切な身だからな。だがおまえが邪魔をするなら私はためらわんぞ」
男の指が首のそばで何かをカチッと動かした。
「出力最大だ。これを押されたらどうなるかな……」
押しつけられた箇所にじんわりと汗が滲む。
「雅俊。両手を上げてここへ来なさい」
「………」
「来ないと、和巳で試すことになるな」
首への圧迫感が増す。
「よせっ!」
俊くんの顔色が変わった。
「行くからよせ」
俊くんが両手を上げ、ゆっくりと近づいてくる。嬉しそうな声が頭上で響いた。
「相変わらず魅力的だな、雅俊。おまえも一緒に連れていこうか。――もう少し寄りなさい」
さらに俊くんが近づく。手を伸ばせば届きそうだ。
「和巳を離すなら行ってやってもいいぜ」
「またとない機会だ。どうせなら二人とも欲しい」
俊くんの目が僕を見つめたまま緊張を増した。すると頭上の声がいっそう弾んだ。
「なんという目で和巳を見るのだ、おまえは。ますます楽しくなりそうだ」
笑うと同時に僕の首からスタンガンが離れ、俊くんに突き出された!
「ぅあっっ!」
俊くんの体が跳ねた。
「俊くんっ!」
一瞬、宙に浮いた体が床に崩れ落ちる。
それを見た瞬間、僕の中で閃光が炸裂した。
「俊くん! 俊くんっ!」
ありったけの力を振り絞り、男の腕から逃れようともがく。
「このっ、離せよ! 離せぇ――っ!」
けれども薬に冒された体は少しもいうことをきかず、彼はやすやすと僕を腕の中に抱き込むと耳元でささやいた。
「心配か?」
「ふざけるなっ!」
「あまり暴れると、同じ目に遭わせてしまうぞ……?」
再び首に硬いものが押し当てられる。
その声に宿る狂気にも似た響きに、僕の怒りが水を浴びせられたとき、横からの衝撃が体にぶつかってきた!
「ぅわっ!」
「なに⁉」
折り重なったまま体が揺れ、スタンガンが首から離れる。男の腕を別の腕が押さえ、まっすぐな髪が僕の頬をよぎった。
「貴様に押してやる!」
聞き慣れた声が頭上から響き、同時に脇に回された別の手が僕の体を男から引き離した。横抱きにされながら上を振り仰ぐと、そこには馴染んだ人の顔があった。
「祐さん!」
「無事か」
祐さんは一瞬、目の端で笑うと、僕を立たせて片腕に抱き直し、倒れた俊くんの脇に下がって庇うように身構えた。正面に目を向けると、そこには薄手のジャケットを羽織った拓巳くんが、刺すような眼差しで立っていた。僅かに息を切らせ、手にはスタンガンが握られている。
対峙して立つ格好になった男は、ゆっくりとした動作で自分のスーツの裾を払い、姿勢を改めて拓巳くんに向き直った。
「久しぶりだな拓巳。相変わらず魔物のように美しい」
拓巳くんの顔が怒りに染まった。
「あんたも相変わらずだな、要。俺を揺さぶるのがそんなに面白いか」
北極のブリザードより冷たそうな声に、僕の背筋まで凍りついた。
「おまえが私から逃げるからだろう」
一歩迫った男に拓巳くんの目線が上がった。
「貴様がまともじゃないからだろうがっ。俺と和巳にこれ以上構うな!」
「つれないことを。それが久しぶりに会う父親に向かって言うセリフか?」
瞬間、脳内がスパークした。
――父親っ⁉
この男が拓巳くんの父親!
今も拓巳くんを苦しめるフラッシュバックの元凶。少年を売り物にした違法ホストクラブのオーナー!
(おまえはこの人を知らないのか!)
ふと脳裏を掠める凱斗のセリフ。そうだ、あの緑がかった薄茶色、ヘイゼルの瞳!
これが拓巳くんの親――僕の祖父の姿!
拓巳くんは氷の眼差しに怒りを浮かべて言い放った。
「黙れ! 俺に父親はいない。親は芳弘だけだ」
「真嶋芳弘か。楡坂の薬であれほどの目に遭わされても、まだおまえのそばにいるのだな」
男が口の端を吊り上げて嗤う。そこには息子への情愛など一辺の欠片も窺えなかった。
目の前の事実に心が凍りつきそうだ。
拓巳くんは少し顎を引き、すぐにまた傲然と胸を張った。
「そうだ。芳弘は強いんだ。楡坂のような男に負けたりはしない。ここが貴様の持ち物だと気づいたのも彼だ。今頃、得意技を駆使して貴様の新しい店を調べ上げているぞ。摘発は時間の問題だな」
「――何だと?」
「前は俺の親権や和巳の身柄がかっていたが、今回は芳弘を縛るものは何もない。今までにない情熱で貴様を追い詰めるだろう。わかったらそこの黒い奴を連れてさっさと失せろ!」
拓巳くんが言ったと同時に祐さんの体がグッと開き、黒いジーンズに包まれた片足が反転した。すると、いつの間に起き上がっていたのか、祐さんの後ろに迫っていた部下の男が、後ろ蹴りを食らって裏口のドアに激突した。男の体が再び床を這う。
「甘いな」
僕を支える腕を小揺るぎもさせず、祐さんは片足を戻した。あまりに圧倒的な脚力に、凱斗と稜先輩の感嘆の声が背後から聞こえてきた。
「凄げぇ……」
「まあ……」
祐さんが口を開いた。
「なんなら今すぐに警察を呼ぶか。罪状は芳兄さんがたくさん用意してくれるぞ」
男は少しだけ苦味の混じった表情で祐さんを見た。
「君も健在か。警察は遠慮しておこう。君たちこそ、早く雅俊を病院に連れていってやりたまえ」
そして余裕ある笑みを拓巳くんに向けたあと、部下の男を促して裏口の向こうへと姿を消した。
「俊くん!」
僕は祐さんの手をもがいて離れ、痺れる手足を叱咤して、倒れ伏したままの俊くんにいざり寄った。背中に耳をつけると、心臓の音はちゃんと聞こえた。けれども意識はまったくない。
「俊くん! 俊くんっ……!」
横に伏せた顔を覗き込むと、凄まじい苦痛を受けた様子が気を失った面にありありと窺え、胸の奥が引き攣れて息苦しくなった。目尻が徐々に熱くなってくる。
「命には係わらないと思うが、雅俊のかかりつけの病院へ連絡する」
屈み込んだ祐さんが顔を上げて言った。つられて上を向くと、青ざめた彫像のような拓巳くんがいた。
「拓巳くん……」
彼は祐さんに頷き、次に僕の顔を一瞥してからフロアのほうを向いた。そこでは、凱斗が稜先輩を抱いて立たせていた。
「私はもう大丈夫」
稜先輩は自分の足で立つと、僕に目線を合わせた。
「………」
こちらに向けて足を踏み出した彼女の前に、拓巳くんが立った。
「申し訳ない」
彼が頭を下げると先輩は軽く目を見張った。
「うちのバカ息子のせいで迷惑をかけた。後日、改めてお詫びする。体は大丈夫か」
「はい。驚きましたけど、咄嗟に少しよけたので威力を減らせました。でも、あれは私の不覚です」
拓巳くんの肩越しに僕を見下ろしてくる先輩の眼差しは、複雑な心中を物語っていた。
「稜先輩……」
僕が謝ろうとすると、察した彼女は手で制した。
「今はよしましょう、和巳君。体調が万全になったら改めて会いましょう。……いいわね?」
薄茶色の瞳が潤んでいる。それに胸が締めつけられながら、僕は頷いて返した。
そのとき、入り口のほうからドアの開く音が響いた。振り向いた僕の目に、健吾の心配げな顔と、もう一人の姿が映った。すると、フロアにいた凱斗が声を上げた。
「智紀さん!」
「凱斗君……!」
悲しそうに顔を歪めたのは、マネージャーの沖田さんだった――。




