破られた夢
秋の気配を感じながら十日ほどが過ぎた放課後、それは最初、小さなトラブルの姿で現れた。
「あっ、すみません」
中庭の通路を美術室へと向かう途中、すれ違いにぶつかった大柄な生徒に謝ると、頭上から不穏な声が響いた。
「おまえ高橋じゃん。ちょうどいいや、ワビの代わりに顔貸せや」
荒々しく腕をつかんだのは、軽音部部長の曽根原武だった。彼はすぐ、後ろにいる部員らしき二人の男子を振り返った。
「ちょっと寄り道するぜ」
顎で指し示しながら移動した先は、物置小屋が幾つか立ち並ぶ一角だった。僕が去年、二人の男子生徒に連れ込まれた場所だ。我知らず、背中に緊張が走る。
「おまえ、バイトでタクミの付き人やってんだってな」
曽根原が聞いてきた。
「週末のロックコンテスト、〈T-ショック〉がゲストで出るんだよな?」
威圧的な声に、僕は無言で頷いた。
「審査の傾向と対策を聞いてこいよ」
きっと副部長の佐伯祥――〈クラッシュゲート〉のためだ。
僕は首を横に振った。
「それを聞ける立場にはありません」
「審査にはゲストも加わるんだろ? タクミに教えてもらえよ」
僕は誤解を解きたくなった。拓巳くんが審査なんてメンドーなことをやるはずもない。
「父はそういった類いのことには関わらないので、知らないと思います」
「なんだよ。関係者以外は内緒ってか?」
彼は苛立ったように顔を歪め、その巨体をぐいと突き出した。
「出し惜しみしてんじゃねーよ。先輩のためだろ?」
「そうじゃありません。本当に知らないんです」
それに、と僕は続けた。理不尽に威圧され、柄にもなく好戦的な気分になったのかもしれない。
「実力があれば、そんなこと事前に探らなくてもちゃんと評価されると思います」
「んだと、このヤロウ……」
いきり立った曽根原が僕のブレザーの襟をつかんだ。すると背後から突然、笑い声が上がった。
「凱斗さん」
曽根原が振り向いた先、銀杏の大木の陰から浜田凱斗の長身がゆっくりと姿を現した。すかさず二人の部員が脇によける。
「ムリムリ。タクミは面倒なことは嫌いなんだ。〈T-ショック〉では、対外的なことはみんなマースがやるのさ」
なぁ、とこちらに顔を向けた凱斗は意味ありげに笑った。
「そうじゃなきゃマネージャーか。今のマネージャーは細かいこと得意だよな?」
「……ずいぶん詳しいんですね」
「テメェ、凱斗さんに生意気な口きくんじゃねえよ」
つかんだ襟をさらに上げようとする曽根原を凱斗の手が止めた。
「くだらねぇことで熱くなるなよ。俺の顔が潰れちまうぜ」
彼は曽根原の太い腕をこともなげに外し、間に割り込んで立った。
「おまえら先に行けよ。俺はコイツに用がある」
曽根原はまだ物言いたげな素振りを見せたものの、凱斗に目を向けられるとそれ以上食い下がることはなく、部員二人を促して去っていった。
「さぁて、和巳。そろそろ好奇心を押さえるのも限界きてんだろ? 痩せ我慢してるのが文化祭前から見え見えだったぜ? タクミに聞くわけにはいかないしなぁ」
「………」
「過去の出来事を思い出すとタクミはショックでいかれちまう。だから絶対口にするな――Gプロの音楽系担当者に申し合わされた鉄則だよな」
「……浜田さんはGプロの関係者なんですか? 僕に何が言いたいんです」
僕の問いかけに、しかし彼は別の答えで返してきた。
「戸部若砂は、マネージャーだったのさ」
「えっ?」
「有能だったらしいぜ……あのタクミを手のひらに乗せて転がせたほどにな」
彼の落とす火種が胸に刺さったままの杭を白日のもとに晒し、じわじわと責め立ててくる。たまらずに僕は言ってしまった。
「どうしてあなたがそんなことを知っているんですか!」
「知りたいか?」
地獄からささやかれる誘惑の声だ。僕は一歩、後退った。
「……いえ、結構です。父が近いうちに必ず教えると約束してくれましたから」
身を守るように絞り出した言葉の砦は、しかしあっさりと撃破された。
「タクミが? おまえが戸部若砂の命を縮めた、って説明すんのか? ずいぶん惨いことさせるんだな。今度こそホントにおかしくなっちまうぜ?」
その瞬間、僕の中で何かが音を立てて崩れた。
足もとがぐらつき、全身に震えが走る。凱斗はさらに畳みかけてきた。
「まあ、タクミが無理なところでマースやユージに交替ってのもありか。でも二人だっておまえを可愛いがってんだろ? 真相なんて言わないぜ、多分」
物置小屋の取っ手にすがりついた僕は、彼から吹きつけてくるものに対しての疑問を口にした。
「あなたは……僕があの人たちに大切にされていることが許せないんですね……?」
そうとしか思えない、この一連のやり取り……。
凱斗は陰りのある眼差しを僕に向けた。
「……そうだな。自分のためにどれだけの犠牲が払われたかも知らないで、幸せそうにしているおまえを見てると無性に腹が立つな」
「犠牲……」
「そのうちの一人がうちの親父だな」
「えっ⁉」
「そしてその転落に巻き込まれたのが俺たち家族だ」
凱斗はそこでフッと気配を変え、俯いてポツリとこぼした。
「まあ、もう終わっちまったことだけどな」
肩を揺らし、踵を返そうとした彼の腕を反射的につかむ。
「お父さんが、Gプロの人だったんですか?」
凱斗はちらりとこちらを見、目を眇めた。
「……おまえに少しでもプライドってものがあるなら、自分で調べてみろよ。今まで、自分がいかに目隠しされてたかわかるぜ」
「………」
「その気概があるなら、親父に会う段取りつけてやるよ。タクミたちには言うなよ? おまえ一人で会うんだ。そこで何でも聞けばいい。そして、おまえがもたらしたものの結果を受け止めるがいいさ」
別に聞かなくたっていいぜ、と彼は僕の腕を軽く払った。
「それで目を塞がれたまま、ずっと暮していけるんならな」
「……!」
瞬間、胸の奥底に刺さっていた杭がそこを破り、突き抜けていった。
凱斗は僕を一瞥すると、再び踵を返して歩み去ろうとした。ついに僕はその一言を彼の背中に向かって発した。
「行きます。会わせてください――」
「明日の五時、JR桜木町駅の改札のところに来てください」
連絡を待て、と言われてから二日目の放課後。鞄を手に廊下を歩いていた僕のもとに、凱斗の妹が伝言を持ってきた。
「私が案内します」
相変わらず表情は動かず、陰りを帯びていて暗い。
「君が? お兄さんは?」
「先に行っているそうです」
僕は思案した。
明日の五時なら、拓巳くんたちはGプロの会議室でロック専門誌の取材を受けているはずだ。沖田さんに連絡しておけば、僕がいなくてもすぐにはバレないだろう。
「わかった。じゃあよろしく」
軽く頭を下げると、彼女はやはり無言で体を返し、振り返らずに去っていった。
再び歩き出そうとすると後ろから突然、声がかかった。
「和巳」
振り返ると壁際に健吾が佇んでいた。
彼は足早に近寄ってくると、突っ込むように聞いてきた。
「あれは江莉華とかいう凱斗さんの妹だよな? 彼女と明日、どこへ行く気なんだ」
「あ……っと、まあ、デートってとこかな」
努めて軽く返すと、健吾は僕の腕をつかんで廊下の隅へと引っ張った。顔つきが変わっている。
「俺に嘘はやめろよ。おまえ、ここ二日おかしいぞ。なんかあったろ」
僕は彼に目を向け――誤魔化すのをやめた。
「ごめん。実はこの前……」
二日前の凱斗とのやり取りを話し、さっきの会話を説明すると、健吾は衝撃を受けたように唸った。
「凱斗さんが、おまえにそんなことを……」
「いいんだ。これで、あの人が僕に突っかかるのにはちゃんと理由があるんだ、ってわかったから。ある意味、楽になったよ」
「和巳……」
「何があったのか、僕は知りたいんだ」
「でも、拓巳さんたちからは近づくなって言われてるんだろ?」
僕は頷いた。
「内緒で行くのが条件だから」
「それってヤバくないのか?」
「あの人は嫌がらせとか、危害を加えるとかの小細工をする人じゃないと思うんだ」
そんなことには一片の興味もなさそうな、あの冷めた瞳。
「でも……」
「拓巳くんは僕に教えてくれるって言ってくれたよ。でもそれは片側の話なんだ。そしてあの人はその反対側を見ている」
それを知るためには自分で行動しなくてはならない。
「僕は、僕によってもたらされたという『家族の転落』を知ることから逃げたと思われたくない」
だから、と僕は健吾に願った。
「もし僕を友達だと思ってくれるなら、止めないで欲しいんだ」
「……わかったよ。じゃあ……」
健吾は、それ以上は引き止める言葉を探し出せないようだった――。
「こっちです」
「どうも」
翌日の放課後。緊張に強張りながら、僕は凱斗の妹――江莉華のあとに続き、喫茶店へと続く階段に足を踏み入れた。
桜木町駅から歩くこと約五分、やや古いテナントビルの二階にあるその店――浜田兄妹の父親が友人から借り受けているという店は、あまり明るい雰囲気には見えない。が、すでにその父親は来ているのだそうで、話をするためなのか、階段の先に見える店のドアの前にはクローズの看板が出されていた。
「よう、本当に一人だな」
江莉華が店の扉を開けると、奥のほうから声がかかった。
カウンターに据えられた丸椅子からゆらりと立ち上がったのは、黒のタンクトップにジャンパーを引っかけた浜田凱斗だった。
黒のジーンズが引き締まった足をさらに細長く見せ、ハードで大人びた印象が増している。江莉華もカーディガンにブラウスとミニスカート、といった私服に着替えていたものの、本人の印象はいたって平凡だ。それに比べ、この兄のインパクトの強さときたらどうだろう……!
そんなことに心を奪われていると、硬質な容貌に薄く笑みを浮かべた凱斗が目の前に立った。
「見かけによらず、胆力があるじゃねえか。見直したぜ」
僕は気圧されまいと顔を上げた。
「時間は六時までしかありません。親が心配症ですので」
「……いいだろう。その度胸に免じて、きっちり帰してやる」
彼は横に立つ江莉華を見下ろした。少し目元が和らぐ。
「悪かったな、江莉華。もう帰っていいぞ」
それは、初めて耳にする凱斗の優しげな声音だった。
それに対し、彼女はニコリとするでもなく兄を見上げると、僅かに頷いてからくるりと体を返し、ドアの向こうへと姿を消した。
「……あいつ、おかしいだろ?」
ふいに凱斗がつぶやいた。僕が見上げると、彼は江莉華の消えた入り口のドアに目を止めたまま続けた。
「あれでも昔はお喋りで、よく笑う子だったんだぜ」
「そう……なんですか?」
ちょっと想像できない。
「心を病んで、笑えなくなったんだ」
「え……?」
凱斗は再び陰りのある眼差しになって僕を見た。
「言葉も、必要最低限しか使わなくなった」
「それが、病気のせいだというんですか?」
「らしいぜ。おふくろが言うには。元はあそこにいるやつのせいだがな」
凱斗が指を差した先に、一人の男の人が座っていた。
フロアのテーブル席に座るその大柄な男こそ、凱斗と江莉華の父親に違いない。それは白髪混じりの、五十代半ばから六十あたりに見える、荒んだ印象の男だった。
凱斗に連れられてそばに近づくと、洗いざらしのコットンシャツを着た男は濁った目を僕に向け、ニヤリと笑みを浮かべた。
「本物だ。本当に和巳君だ。なんて若砂君に似てるんだろう。凱斗から聞いたときは驚いたよ」
凱斗が目を少し見開いた。
「親父、珍しく素面なのか」
「そりゃあ和巳君と会うならねぇ。こんな偶然があるとはね。拓巳君も思いもよらなかったろうよ。さ、そこにかけなさい。僕に聞きたいことがあるんだろう?」
僕は彼の正面に腰かけた。
本当に、この覇気のなさそうな人がGプロに勤めていたのだろうか。
「君は覚えてないだろうが、僕は懐かしいんだよ」
彼はたるんだ口もとに笑みを浮かべながら、あらかじめ用意しておいたらしいコーヒーポットをホットプレートから取り上げ、二つあるカップに注ぐと、僕の前にひとつ置き、もうひとつは自分の前に置いた。凱斗がそばにある椅子を引き出して座る。
「さあ、飲んでよ。うちの店のはちょっと美味しいんだから」
彼はおぼつかない手つきで自分のものを口に運んだ。僕は失礼にならないよう、一口飲んだ。苦味が強い気がする。
「それで、僕に何を聞きたいんだい?」
僕は慎重に切り出した。
「浜田さんは……」
「僕は佐藤だ」
その言葉で、凱斗が親の離婚でこちらに引っ越してきた、と聞いたことを思い出した。
「すみません佐藤さん。あなたが昔、Gプロで働いていたと伺ったのですが、本当ですか?」
佐藤はそれを聞くと、もったいつけるように答えた。
「そうさ。前の社長の代からいたんだよ」
「あなたが、僕の両親のことをご存じだと教えられたのですが」
すると彼は椅子の上で少し身じろいだ。
「よく知っているよ。なにしろ極秘結婚を知る当事者の一人だからね」
「………」
本当にこの人が、あの拓巳くんたちが事情を明かした数少ない人のうちの一人なのだろうか――?
確信の持てない僕はさらに質問を続けた。
「じゃあ、僕の母のこともご存じなんですね?」
すると、疑いもなく当時の事情を知る者の答えが返ってきた。
「ああ、そうか。そりゃ君にとっては、若砂君は『母親』になるんだ」
「……!」
佐藤は感慨深そうに頷いている。僕はこれ以上の探りは必要ないことを悟った。この一見、堕落したような人は、間違いなく僕が生まれた当時、Gプロで拓巳くんたちのそばにいたのだ。
「どんな……どんな人だったのですか、その、若砂さんは」
佐藤は何かを思い出すような遠い目をして笑みを浮かべた。
「いやぁ、実に気配りのうまい、人の心を察するのが上手ないい青年だったよ」
――青年。
彼はごく普通にその表現を使った。僕は腹に力を込めた。
しっかりしろ。まだ話は始まったばかりだ。
「あの気難しい拓巳君ですら、若砂君の前では笑顔だからね、笑顔」
どうやら拓巳くんは、本当に昔から笑わなかったようだ。
「まあ、それも無理なかったんだねぇ。一緒になりたいと思ったくらいなんだから。いきなり若砂君と結婚すると言い出したときはビックリしたもんだ」
「父が言い出したんですか?」
「君も思うかい? あのタクミが結婚したがるなんて、ってねぇ」
佐藤の目が鈍い光を放った気がした。
「でもそうなんだ。しかも若砂君とでしょ? そっちの趣味の人だったのかと驚いちゃったよ。そうしたら真嶋君と、若砂君のお母さんまで連れてきて、押し切られて。拓巳君はやるとなったら徹底してるんだよね……」
彼は少し苦虫を潰したような表情になり、ぶつぶつ言い始めた。凱斗がため息混じりに言った。
「こいつはもうずっとアル中だか薬中だかになっててね。始終、頭の中がこんがらがってやがるんだ」
薬物中毒……?
驚く僕の目線を浴びながら、凱斗は父親に向かって声をかけた。
「親父、余計な話はいいからよ。どうしてその戸部若砂が死んじまったか、俺がこの前聞いた話をこいつにもしてやってくれよ」
「若砂君……? ああ、かわいそうだよねぇ。彼はどう考えたって妊娠なんかできるような体じゃなかったんだよ、きっと」
核心に迫るその言葉に僕は震えだった。佐藤は嘆かわしげに続けた。
「せっかく拓巳君が若砂君の影響でいい歌を歌うようになって、雅俊君もそれを喜んで曲をたくさん作ってくれて。社長や僕はそれがあったから二人を認めたんだ。なのに裏目に出ちゃって。両性を持った人に子どもができるだなんて聞いたこともないよ」
やはり、そうなのか――!
衝撃のあまり言葉がでない。
「若砂君は雅俊君と同じタイプの人だ、って聞いてたんだよ? 体つきだって似てたし。彼のお母さんに、それは第二次成長期に入る前までの話で、今は内性の形質が違うんだ、って説明されても、誰もピンとこなかったよ。子どもができて一番驚いたのは、若砂君本人と拓巳君だったと思うよ」
「――!」
本人が一番驚いた……!
「あの時は苦労したんだ。若砂君は体調崩すし、拓巳君は不安定になっていくし。ちゃんと女性化する前に妊娠しちゃったから、体が急激な変化に追いつかなかったんだ」
彼はまるで子どもが拗ねるような表情で言うと、コーヒーを口に含んで一息ついた。喉が干上がった僕もつられたように半分ほど飲んだ。
「それでとうとう早産しそうになって。それもよりによってコンサートの前日に。拓巳くんがパニックして、危うくコンサートがダメになるとこだったよ」
佐藤は口を尖らせてぼやいた。僕は絞り出すようにして言葉を継いだ。
「それで僕が生まれて、母は亡くなったんですね……」
しかし彼は首を横に振った。
「その時点ではまだ。そこでは取り止めたんだ。でも結局は時間の問題だった。若砂君はその時、癌が見つかったのに、君の命を優先して治療を断念したから、命を落としたんだよ」
「……!」
「だから、拓巳君は半年もおかしくなっちゃった」
ああ――。
僕は今こそ納得した。個展の日、稜先輩から告げられた時の、拓巳くんのあの表情……!
「そうまで苦労して君が生まれて……だから僕だって、できる限り協力して面倒見てあげたのに、ひどいもんじゃないか」
佐藤の話は続いていた。
「たった一回、手落ちがあった、それだけで、拓巳君は僕を拒絶したんだ。いったい誰のお陰で〈T-ショック〉があんなに早くヒットできたと思ってるんだ!」
いきなり彼は身を乗り出して声を荒らげた。けれどもすぐにまた、虚ろな眼差しに戻った。
「みんな、僕のお陰じゃないか。僕が彼らを最初に手がけてあげたからじゃないか。それなのに、たった一回、保育士の手配を忘れただけで……」
「――えっ⁉」
僕は稲妻に撃たれたように佐藤を見た。その、濁った眼差しを向けてくる顔を。
「あなたが、あの時のマネージャー‼」
僕を苦しめる夢の元凶。未だ犯人も見つからない幼児誘拐、暴行未遂事件。そのきっかけを作った人――!




