揺るぎない自分で
綾瀬さんの姿がドアの向こうに消えると、拓巳くんは目線を壁に吊るされたスーツに目を向け、ゆっくりと近づいていった。
何かを思い出しているのか、足を止めてからもしばらくは動かなかった。
やがてハンガーから自分のロングジャケットを外し、それをじっと眺め――。
「若砂……」
ジャケットを抱く背中からつぶやきが漏れた。
どれたけの喪失だったのかが窺える、それは切ない声だった。
かける言葉もなく立ち尽くしていると、拓巳くんが僕のほうを見た。
「ごめん、和巳。俺には冷静に話をすることができない」
「そんな……」
僕は拓巳くんのそばに歩み寄った。
「綾瀬の言葉なら、おまえも納得すると思った。このスーツも……」
拓巳くんは腕の中のそれを見た。
「綾瀬に管理を頼んだまま、見ることができなかった。若砂が逝く、一週間前に仕上がったものだったから……」
「そんなギリギリの時に……」
「おまえには、焦らすようで悪かったな」
僕は首を横に振った。
「僕こそごめんなさい。……ちゃんとこれを用意して、それからにしたかったんでしょう?」
拓巳くんは頷くと、自分のジャケットをハンガーに戻し、もう片方のジャケットを取って僕の肩にかけた。
「ああ――似合うな……」
彼は一瞬眩しげに目を細めた。僕はふと不安になった。
「……似てると、思い出して辛い?」
拓巳くんは僕の肩に触れ、まじまじと見つめてきた。――そして笑った。
「いや。かえって目が覚めるな。こうして見ると、なまじ顔や背格好が似てるから違いがよくわかる。」
「そうなの?」
写真の中の若砂さんは、スーツ姿が多い。てっきり……
「ああ。おまえのほうが、明らかに男の骨格だ。若砂はもう少し線が細かった」
線が細い――。
つい、俊くんを思い出してしまった。いつの間にか抜いていた、手の大きさ……。
「それに、なにより向けてくる表情が違いすぎる」
「表情?」
「おまえがこの前から雅俊に向けている表情だ」
「――!」
「同じ顔、同じ感情でも、ずいぶん浮かべる表情が違うもんだな、と感心しちまった」
「拓巳くん!」
からかわないでよっ、と言おうとしたら、ふいに抱きしめられた。
「……雅俊は、十四で家を出てからはずっと一人だった」
切り込まれたように、一瞬、息が止まった。
「いつも、あいつには助けられてばかりで……若砂を喪った時も」
僕と拓巳くんの間で、この話題が出るのは初めてだ。
「とうとう……おまえが、あいつを受け止めるのか」
僕は真剣に答えた。
「はい」
「覚悟がついたのか」
「はい。――もう、迷いはないから」
「俺から、巣立つんだな」
「………」
言葉に詰まると、拓巳くんの肩が僅かに震えだした。
別に、これは心の問題で、今すぐ家を出るとかじゃない。まして拓巳くんが大好きなことに変わりはない。それでもやっぱり寂しいのかな……。
心配になって背中に手を回すと――。
「クックックッ」
怪しい、笑い声ともつかぬ音が拓巳くんの喉から漏れてきた!
「拓巳くん?」
「なのに、俺がいないと拒食症……雅俊の、あの悔しそうな顔! 須藤稜に煽られてコトを急ぐからだ。ザマーミロ」
「拓巳くん!」
「まだ当分、キサマに和巳はやれんわ。バーカ」
「バ……」
どこに向かって言ってるんだ、このヒト。
あまりのオトナゲなさに僕が絶句していると、拓巳くんが笑って付け足した。
「おまえもな。焦るとロクな目に遭わないってことだ。ヤツが気の毒なら、パーティーではしっかり食べろよ?」
まさか、その会話が聞こえたはずはあるまいに、少し遅れてパーティー会場に着いた僕たちが、セミフォーマルに身を固めた俊くんや祐さん、真嶋さんのいるテーブルの一角に合流すると、僕に手を差しのべた俊くんが拓巳くんの顔を見て眉間に縦ジワを寄せた。
「……おい、テメー。なんか今、おれに対して腹の底で笑ったろ」
「別に」
もちろん拓巳くんは無表情で対抗し、僕の肩をつかんで真嶋さんの隣に身を滑らした。
「拓巳、和巳。こっちを向いてごらん」
真嶋さんが一歩離れて僕たちを見た。すると祐さんも真嶋さんの後ろに立ち、同じく僕たちを眺めた。
「?」
隣に立つ俊くんに目を向けると、彼も改めて見るような眼差しになり、やがて目を細めて微笑んだ。
「よく似合ってる。そのスーツ」
僕はようやく気がついた。拓巳くんと対のスーツを着た僕に、みんなが何を見ているのかを。
それはきっと、失われた過去。その残像を感じているのだ。
「ようやく、それを着てあげられたんだね」
真嶋さんがやさしい眼差しを拓巳くんに向けた。
「――ああ」
「きっと喜んでくれているよ。若砂も」
「ああ、そうだな」
拓巳くんは真嶋さんに頷くと、僕にしばらく目を止め、それから俊くんに向き直った。
「頼んだものは?」
「ああ、できてる。祐司?」
俊くんは祐さんを呼び、祐さんは頷いて黒いジャケットの内ポケットに手を入れた。
「これでいいか」
「ありがとう」
祐さんから俊くんに手渡されたのは、一本のメモリースティックだった。
「これだ」
拓巳くんは、俊くんの手の中にあるスティックに少しだけ目を止めると、僕の背中に手のひらを当て、俊くんの前に押し出した。
「行ってこい」
「拓巳くん?」
首を巡らせると、拓巳くんは薄く微笑んでいた。
「今日は土曜日だ。アトリエに行く日だろ?」
「そうだけど……」
今日のような、拓巳くんのイベントがある日は帰ることのほうが多かった。
「これからは、金曜日の夜から土日はいつも行け。その代わり、日曜の夕方には帰ってこいよ?」
拓巳くんが言った途端、僕を腕に納めた俊くんが声を荒らげた。
「ふざけんな! 月曜日にアトリエから学校に出すって話だったろうが!」
そんな話、いつの間にしてたんだろ?
「取り下げだ。健康が心配だからな。栄養失調にでもなったら困る」
「あれはテメーが和巳を避けたからだろっ!」
「つまり、俺とコミュニケーションしてないとダメってことだろ? 俺、こんなに早くから週に三日も出て行かれたら、和巳に拗ねないでいる自信ない」
そしたら繰り返すよな、と拓巳くんは俊くんに迫った。二人が顔を突き合わせる。
「俺に無理させて強引に連れていっても、結局は和巳の負担になるぜ」
「このっ……万年ワガママ男がっ……!」
「しょーがないだろ。俺の息子を選んじまったキサマが悪い。おとなしく諦めな」
「んだと、このヤロウ。開き直りやがって……」
ああ、またはじまるのか――。
トホホな気分で手刀を構え、一刀両断しようと腕を持ち上げると、横合いから片手が伸びてきて、グイッと腕を引っ張られた。
「祐さん?」
「ほっとけ」
見上げる先で、祐さんがグラスを傾けている。隣の真嶋さんが、お皿に取り分けた料理にお箸を添えて渡してくれた。
「ほら、しっかり食べて。取り戻さないとね」
「でも……」
「いいの。アレはアレで一種のコミュニケーション。仕事中じゃないから大丈夫」
ホントにそうなのかな。
「昔ね。拓巳も綾瀬に同じこと言われて、若砂を取り上げられてたから、当分やめないと思うよ」
「ええっ?」
そ、それは困る。
「見てごらん。拓巳のあの優越感に染まった顔」
振り向いた先に、まだやり合っている二人の姿があった。
さすがに会場を意識して声小なので、ハタからは何かを訴える俊くんに対し、無表情に受け答える拓巳くんにしか見えないだろう。けれども見慣れている僕たちからすると、僅かに口角を上げたその様子から、彼の心情がありありと伝わってきた。
「……ホントだ」
「だからほら、今のうちにちゃんと食べて、備えておこうね」
備えるって……ナニに?
すると真嶋さんがニッコリと笑った。
「ウチに来るのは鬱憤を晴らした拓巳だからいいけど、和巳が相手をするのは雅俊だよ?」
僕は想像した。――そして震えた。
ヤダ、そんなとこ行くの!
すると祐さんが珍しく笑みを浮かべてこう言った。
「大丈夫だ、和巳。おまえは笑顔を向けるだけでいい。おまえには若砂譲りの武器がある。――そばにいる人を和ませる力がな」
案の定、僕を連れ、アトリエに帰った戻った俊くんは、しばらく目を吊り上げていた。
「くそっ、なんて往生際の悪いヤツなんだ!」
もちろんとばっちりは僕にもきた。
「オマエが父親離れしない限り、どーにもならん。早く成長しろ」
けれども、僕がじっと見つめていると段々ボルテージが下がり、ホッとして笑いかけると、俊くんも最後には苦笑して僕の手を取った。
「……無理か。普通はそうだよな。おれたちとは違うんだ」
おれたち――俊くんや拓巳くんは、僕の年にはもう親元にはいなかった。まして、俊くんはアトリエの鍵を分けあった大切な人を喪ったあとだ。
(十四で家を出てからはずっと一人だった)
「僕は、贅沢だったんだね」
俊くんが僕を見た。
その特長あるアーモンド型の瞳……。
無意識のうちに手が俊くんの腕を遡り、指先が頬に触れた。
「この世に生み出してもらった、それだけで十分だったのに。理由まで知りたがって、迷惑かけて。バカだった」
「和巳……」
「拓巳くんに育ててもらって、俊くんがそばにいて……それだけでよかったのに」
「そんなことはない」
俊くんの片手が僕の背中に添えられた。
「自分の根源を知りたくなるのも、人間が当たり前に持つ欲求だ」
彼はもう片方の手を上着のポケットに入れ、小さな金属片を取り出した。パーティー会場で祐さんから受け取ったメモリースティックだ。
「ここに、若砂の写真や動画のすべてが入っている。拓巳からの依頼で、おれが預かっていたものを祐司にまとめてもらったんだ。見せてやってくれ、とのことだった」
「拓巳くんが」
「あいつは『一緒に見ることは、自分にはもうできそうにないから』と」
「……そんな」
「過去を振り返って自分を知り、土台を築いてから先へ進む。これができないと人間は脆くなる。拓巳のように」
僕は俊くんの言葉に聞き入った。
「あいつにはもう、それを培うすべはない。過去を受け止めようにも、あまりにたくさんの傷を負いすぎていて体が持たない。この前のように」
この前――フラッシュバックのことだ。
「おまえは、だからしっかりと心に刻んで、揺るぎない土台を造るんだ。いいな」
拓巳の分まで、よく目を通してやってくれ――。
俊くんはそう言って、僕にスティックを握らせた。
その夜、僕たちは寝室のベッドの上にノートパソコンを持ち込み、寄り添ってその画像を見た。
それは、そんなにたくさんではなかったけれど、その分、二人の世界が凝縮されたような記録だった。
僕が見ても、何の感情も読み取れないような大人びた顔の拓巳くんが、日付を追うごとに、若砂さんのそばで表情を少しずつ増していく。そして最後のほう、真嶋さんが撮ったと思われる動画には、屈託のない笑顔で声を上げる若砂さんの隣で、困ったように笑う拓巳くんがいた。
年相応の、少年のような表情――ほんの一瞬だけ手に入れることができた、若い二人の幸せの時間。
「ああ――」
あれが僕を産んだ人。一人の、壊れそうだった魂を再生させていった人。その笑顔で、今の拓巳くんを残してくれた、僕の――。
「お母さん……っ」
久しく言い出せなかった言葉がついにこぼれ出た。
あの写真の意味するものに気づいて以来、口に出すことができなくなったその呼称。拓巳くんが避け続けた言い回し……。
膝を抱え、顔を伏せた僕を、隣に座っていた俊くんが背中から包んだ。
「お母さんでいいさ」
吐息が耳にかかる。僕が首を巡らせると、すぐそこにある唇がそっと頬をついばんだ。
「間違いなく、おまえだけはそう呼んでいいはずだ」
「でも――」
本人は喜ばないだろう。
「確かに、生きていれば別の呼び方をさせただろうよ。でもそれは親として身近にいて、母と呼ばせる必要がないからだ」
俊くんの指が僕の目尻をぬぐった。
「僅かな記録しか持てないおまえは、若砂を慕う心を〈母〉と表現したいんだ。おれの前で我慢は必要ない。好きなだけ呼べ」
僕は頷くと再び画像を操作し、その笑顔の姿に語りかけた。
「お母さん、僕を生んでくれてありがとう。僕の大事な人もね、お母さんと同じタイプの人なんだ。だから見守って、応援してね」
「なにしろ、アツい壁が立ちはだかってるからな」
俊くんがぼやくと、画面の中から、
(がんばれ)
と励まされた気がした――。
「そうかぁ……やっとお母さんのことを教えてもらえたのか」
よかったなと笑う健吾に、帰り支度を終えた僕はありがとうと返した。
「じゃ、帰ろうか」
僕たちは教室を出た。優花はすでにテニス部に直行だ。
あれから一ヶ月が経ち、季節は冬を迎えようとしている。
「そういえば、知ってるか? 稜先輩のこと」
「え?」
稜先輩とは、あれから顔を合わせてはいない。
あの最後の日、稜先輩と別れたその足で、僕はすぐに健吾に会いに行った。あまりに苦しくて会わずにはいられなかったのだ。
事件のことへのお礼も兼ね、すべて報告すると、聞き終わった健吾は納得したように頷いた。
「やっぱり、雅俊さんを選んだか」
「僕は……っ」
言葉を詰まらせると、「自分が二人欲しかったよな」と彼は肩を抱いて慰めてくれた。それ以来、優花とも申し合わせたようで、一切口にはしなかった。
それから約一ヶ月、そんな健吾の口から出た先輩の名に、少なからず緊張した。
「何か、あったとか?」
「うーん、あったというか」
健吾は肩に提げたギターバッグを揺すって位置をずらすと、鞄ごと腕を組んだ。
「凱斗さんがアタックしてんのは言ったよな」
「うん」
それは少し前に噂でも耳にしていた。
「稜先輩がOKするかも知れないって」
「ええっ?」
「ほら、凱斗さん、変わったから」
「ああ……」
浜田凱斗はロックコンテストのあとから少しずつ変化していった。
仲間に気を配るようになり、笑うようにもなったらしい。もともと人を惹きつける力があったこともあり、彼の参加するバンド〈クラッシュゲート〉は、自主ライブでも人気上昇中でメジャーデビューも近いと噂されている。そしてなんと、沖田さんの働きかけで社長が動き、そのバックアップにGプロが名乗りを上げているというのだ。
あの日、喫茶店で凱斗と再会した沖田さんは、薬に冒された佐藤元マネージャーの様子を社長にすべて報告し、相談した上で薬物中毒専門の病院に入院手続きをしたという。その上で浜田家を訪問し、母親に再会したのだそうだ。江莉華のことで悩んでいた母親の相談に乗り、病院を紹介するなど世話をした結果、江莉華にも良い変化が見え始めたらしい。明るくなるのも当然だろう。
「案外、凱斗さんとならエキスパート同士、価値観が合うかも知れないね……」
あの辛い過去を持つ人が立ち直ってくれたなら、稜先輩の孤独を包めるかも知れない――。
そう思ったら、胸の奥がチリッと痛くなった。すると健吾の手が肩に伸びた。
「そんな顔するな。前を向け。今日も行くんだろ? 奉公に」
今日は金曜日だぜ? と励まされ、僕は思わず呻いた。
「ああ、もう金曜日……」
「なんだよ。雅俊さんのところに行くんだろ? 嬉しくないの?」
「君のところの優花と違って」
最近の優花は、宮内家に行っては健吾のお母さんの手伝いなどをして可愛がられているようだ。
「僕の相手は、僕の親から目のカタキにされてるの」
「ああ、あははは」
健吾は乾いた笑いを響かせながら僕の肩を叩いた。
「大丈夫だ、和巳。俺が土日は責任を持って優花を連れだし、真嶋さんをフリーにしておいてやる」
健吾も時々真嶋家に呼ばれたりしている。土曜日の夜などは、そこで拓巳くんと会うこともあるらしい。
「拓巳さんは真嶋さんに甘えたい放題だ。日曜日の夕方には安心して帰ってこい」
「だからっ、金曜日が一番ネックになっちゃったんだよ! 仕事に差し支えてるのっ!」
「うっ、そこまではフォローできないゾ……っていうかマテ。もうすぐイベントなかったっけ?」
もちろん、ある。それもデカいのが。年末恒例三日間コンサートinヨコハマKホール……。
僕は勢い込んで健吾に迫った。
「確か、手伝いたいって言ってくれたよね」
「……言ったな。優花とともに」
「男に二言はないよね?」
「……言っちゃならんだろうな、きっと」
心なしか、顔が引き攣っているように見える。僕は健吾の両肩をしっかりとつかむと、心を込めて伝えた。
「それでこそ親友だ、健吾。末長くなると思うけど、これからもよろしくね」
一瞬、手の下で肩が震えた気がする。けど、この際、無視させてもらうことにした。
完読、ありがとうございます。
前作で保留にした事項がいよいよ無視できなくなった時、和巳はどうするのか。
それを知りたくてこの作品を書きました。話が進むまで先はわからず、作中の事件にさしかかってようやく「ああ、そうなのか」と答えを知った次第です。
この次のシリーズ三作目は拓巳が主人公の過去編です。これも同じく「どんな事情があったら、十七歳の拓巳が父親になるのか」を知りたくて書き始め、やはり思いがけない方向に飛んでいった記憶があります。ちょっと違う雰囲気ですが、また目を通していただけたら嬉しいです。
2018.9.21 管理編集し直しました。より楽しんで頂けたら幸いです。




