8-7.偽りの血
黒い獣と金の獣が並んで空を飛ぶ。追っ手はおらず、今までになく穏やかだった。城から東に向かい、眼下に岩場を見つけたところで下降する。一面が単なる岩場とは思えない灰白色なのは以前に建物があったからなのかもしれない。
「どうしていつも助けてくれるの?」
これに青の混血児はやはりなにも言わなかった。フォレストランドで何度尋ねても答えてくれなかったのだからルリが理由を知る日はもう来ないのだろう。彼の前でグリフォンにまたがるティーナはルリのほうをちらと見た。
着地した獣たちは背を低くして己の主人に降りるよう促す。骨でも積みあげられているのかと思うほど足場はよくなかったが隠れられる場所ならいくらでもあった。一歩踏み出すたびに足裏に感じる不吉な感触は気にしないことにして、岩か瓦礫の陰に身を潜めれば、上空からさっと見ただけならわからないはずだ。
まだ姿の見えない追っ手を警戒し、岩が崩れて洞窟のようにうまく空間のできたそこでルリたちは身を寄せあった。立てるほどの高さはなく、かといって横に広いわけでもない。トーリュウの従えるグリフォンが人の形を取ってやっと全員が隠れられる程度だ。
なぜ自分たちがそろって隠れなければならないのか。なぜ青の混血児はティーナをも連れ出したのか。各人言いたいことは山ほどあるだろうに、誰も口を開こうとしない。相手の顔色をうかがい、外の気配を探っている。
膝を抱えたルリは考えることを放棄した。ファイアーランド城を出て以来ちらちらと向けられるコクフウの目にも、ティーナが不快そうなとも嫉妬しているともいえない目でこちらを見てくるのにもうんざりだ。
コクフウはルリとは一線を引き、クロウとカロンに寄り添ってこちらを見ていた。誰が王女なのか、誰に頭を下げるべきなのかを見定めているようだった。
「さきほどの話は、いったいなんですの」
「……そんなことあたしが知りたい。急に、あんな」
ティーナの発した最初の言葉にルリは小さくため息をついた。考えないと決めたばかりなのに。
「認めませんわ、あんな話」
「あたしもそう思ってたところよ。娘を殺そうとする親なんてごめんだわ」
ティーナはルリが王女であるという話を認めない。ルリもそれを認めずティーナが王女だと思っている。ならばそれでいいではないか。話をややこしくする必要はない。周囲がうるさく言おうとそれで通してしまえば。
父はウィンドランド領主以外にありえない。彼女も同じように父は魔王だけと思っているに違いない。その気持ちはよくわかる。まさか思いを共有することになろうとは。
「偽者だ」
不毛な会話に耳を傾けていた青の混血児が加わった。するとティーナの表情がなくなり、ややこけた頬のせいで陰鬱に見える。
「今の魔王は偽者だ。そうだな、ヴェル?」
話を振られてグリフォンが身をやつした黒髪の女は目を伏せる。記憶をたどるように虚空を見つめ、なにから話せばいいのかとつぶやいて彼女は息を吸った。
「わたしは王城の厩舎にいました。けれども十何年か前、急になにもわからなくなって……気がついたら、厩舎はゴーストランドにあるという叫びの山のような状態でした」
叫びの山にはたくさんの死体が打ち捨てられ、我を失った獣がつながれて朽ちるのを待っているとこちらには伝わっている。とはいえ想像上のゴーストランドだ。代行の口からそのような山はないと聞いた。
ルリは身を乗り出して話を聞き、ティーナは聞きたくないとでも言うように縮こまった。
「他の仲間はまだ夢心地で、気がついたのはわたしだけのようでした。それからリューズエニアへ逃げてトーリュウに会い、グリフォンがここにいてはいけないという理由でわたしは城に戻ることになりました」
「ひどく怯えていたものだからおれも一緒に行った。厩舎から逃げ出したグリフォンを連れ戻したことに対して、魔王直々に礼の言葉があった。もしかしたらと思ったのはそのときだ」
「陛下のお顔を見たことがあるの?」
「いや。でも、白髪だった。陛下の御髪は太陽のように金色に輝いているという話は有名だ」
「光の加減でそう見えたとか」
「それはない。この重要な時期の七席盟約に欠席したのはどうしてだ? 隠しきれなくなったからじゃないのか?」
「陛下はきっとお疲れで」
魔王が偽者だと認めてしまったらなにもかもおしまいのような気がしてルリは王を庇ったが、言い争いに発展する直前、か細い声にルリとトーリュウは口を閉じた。顔色を悪くしたティーナが必死に言葉をつむいでいるのがやっと耳に入ってきた。
「お父様の……わたくしの、お父様の髪は、白かった……」
彼女の震える言葉は沈黙をもたらした。呼吸の音が妙に大きい。
言ったとおりだろう、という青い目がルリの心を乱す。ということは魔王は偽者で、彼を父に持つティーナは王女ではなくて。このままではファイアーランド領主の祖母の言っていてことが本当になってしまう。どうしてこのようなことに。
しかし、ルリの父は魔王ではなくウィンドランド領主のヴェリオンしかいない。それだけは譲れなかった。流れる血からわかるように母は人間だ。魔物の王が人間と結ばれることなどあってはならない。
「魔王は金髪だと知らなかったのか?」
「知るわけがありませんわ。わたくしにお父様を疑えと、そう言うつもりですの!?」
ティーナの髪は金色だ。王が姿を現さなくても、彼女が王女だと公表されれば誰もが信じただろう。その髪と同じ輝きをルリは持っている。
両手で顔を覆ってティーナはうつむいた。その手には薄い肉しかついていない。いつからファイアーランド城に捕らわれていたのだろうか。
「……わたくしは誰の娘なの? 本当の魔王はどこに行ったというの?」
声には己に対する自信が少しも感じられなかった。リューズエニアで出会ったときはもっと溌剌としていて、浮かぶ微笑は老若男女問わず彼らをひきつけていた。あれからどれだけの月日がたったのかはわからないが、一度暗くなると影が差すのに時間はかからなかったようだ。
慰めの言葉はかけられない。誰もその答えを知らなかった。
打ちひしがれていた様子のティーナはそのとき、どこに隠し持っていたのか短剣を取り出して鞘から抜いた。仮の洞窟の中でも光を鈍く反射しているそれを彼女は振りあげる。
腹いせに誰かを殺すつもりなのか、それとも自ら命を絶つつもりなのか。
「なにして……」
「やめろ!」
恐れていたことはしかし失敗に終わった。青の混血児に両手首をつかまれ、ティーナはそれ以上動けない。それでも刃を取り落とすことがなかったのは執念という他にない。
「はなして! 恥をさらして生きるくらいなら」
「ここで血が流れたら嗅ぎつけられる!」
「はなしなさい、混血がわたくしに触れるなど……」
ティーナは言葉を切った。膝立ちになって短剣を奪いあっていた二人は一切の動きをとめる。
カロンと黒い女は外に注意を向けていた。目は鋭く、なにもかも透かし見ているようだ。クロウは不快そうな顔をしていたし、人間であるがゆえにこの中ではもっとも感覚の鈍いコクフウもきょろきょろと主に外に目をやっていた。ルリは足元から微弱な振動を感じて腕をさする。
「なに?」
「地震ですわ。こちらに来てから、もう毎日」
弱い揺れはすぐに収まった。地震とはこの程度のものかと思っていると、ルリの背筋に悪寒が走る。
人語を解するといっても所詮は獣、カロンは真っ先にこの洞窟まがいの場所から逃げ出した。本性が獣の女は主人の手を引き、その主人はティーナの手首をつかんだまま外に出る。クロウはルリとコクフウを催促して、全員が光の当たる場所へ出た。
元々洞窟ではなく岩が崩れてうまく隠れる場所ができていただけのそこは、次の瞬間には盛大な音を立てて一気に崩壊した。
「短剣が……」
「まだそんなことを言うつもりか」
未練がましく崩れた岩を見つめるティーナに、トーリュウは思いどおりに事が進まずいらいらしているようだ。とはいえ目の前で死なれる心配がなくなりいくらかはほっとしている。
建物の残骸だろう石柱にルリは気の抜けた身体を預ける。
「ルリさん、これから……」
「ねえ、これからどうするの? 隠れてるだけじゃどうにもならないじゃない」
コクフウがすべて口にする前にルリはトーリュウに問いかけた。誰かに従うのは自分が先頭を走るより楽だ。
「状況が状況だ。ほとぼりが冷めるまで隠れて、それから」
青の混血児の背後にいるティーナを見て、ルリは息を呑んだ。凶器を失ったティーナはそこらに転がっている鋭く平たい石を手にし、ぐっと握りこんでいた。当然、石と手は血で汚れる。
「おまえ、また!」
もちろん手から出血しただけでは死なない。新しい血のにおいに誘われたカロンを傷のないほうの手で追い払い、彼女はよろよろとクロウに近づいた。
リューズエニアで会ったときからティーナはクロウに関心を寄せていた。いったいなにをするつもりだろう。危害を加える気でいるのなら容赦できない。ルリとクロウは血の契約でつながっているのだ。だというのにクロウはまったく警戒するそぶりも見せない。
ティーナはクロウの前で膝をつき、血塗れた手をクロウの額に押しあてた。傷つけられる心配は無用で、角張った石はすでに投げ捨てられていた。行動の理由がわからずルリとトーリュウは顔を見あわせてしまう。
「ごめんなさい」
額に他人の血をつけられたクロウは紫の瞳を大きくし、ティーナを見つめた。クロウが驚くとは珍しいこともあるものだ。
「ごめんなさい、わたくし、本当はわかって……」
言いかけたところで、前触れの微震なくまた地が震えた。
今度は立っていられなかった。まるで歩いていた絨毯を思い切り誰かに引っ張られたかのようにルリは体勢を崩した。青の混血児は隣で身体を伏せ、コクフウはカロンにすがりつき、黒髪の女は獣の姿で上空にある。ティーナはクロウを抱きしめて地面に伏せていた。
やっと揺れが小さくなり、とまる。それで終わりというわけにはいかなかった。ルリ自身は動いていないのに、足元に差していた影が揺らいだ。
「ルリさん!」
切迫した呼びかけに気づいたときにはルリはコクフウに突き飛ばされていた。コクフウの姿はない。かわりに目の前を白い岩のかたまりが落ちていった。ルリが寄りかかっていた石柱だ。同時に青空にいくつも騎影が浮かんでいるのが視界に入る。
「追っ手が来た! 逃げるぞ!」
「そんな、コクフウ君は」
ルリのよく知る手が瓦礫の下からのぞいている。どうやって助け出せばいい。
カロンがどうにかして瓦礫をどかそうとしているが一頭だけでは無理だ。舌打ちした青の混血児が獣の名を呼ぶとグリフォンも力を貸し、たくましい後ろ足で岩を蹴り上げた。
いとも簡単に岩が除けられ、コクフウの状態が明らかになる。途端、目を背けたくなった。白岩は赤く、衣服は血に染まっている。服の下がどうなっているのか想像したくもない。助け起こせば身体が真っ二つになるのではないかと危惧した。意識はなく、顔に血の気がなければ苦悶の表情すらない。呼吸の音もうまく聞き取れない。
「そんな死にかけた人間、助けようとしても無駄ですわ!」
「せめて治療を……そうだ、クロウなら」
自分の役目を感じ取っていたクロウはすでにルリのそばにいた。コクフウの横にしゃがみこみ、両手をかざす。癒しの術はクロウにしか使えない。
加減を間違えたのだろうか、今までになく強い光にルリは目を焼かれそうになった。まるで隣で太陽が輝いているようだ。だがきっと、コクフウにはそれくらいでちょうどいいはずだ。人間の命をつなぎとめるにはそれくらいでなければ。
「……よし」
光がやみ、安堵した表情でクロウはコクフウから離れた。強い光に一歩引いていたルリはコクフウの顔を覗き見る。息がやっと聞こえるようになった。岩に押しつぶされた彼の身なりは酷いものだったが、血を拭ってやる暇もない。
よかった、と息をついたのもつかの間だった。トーリュウがちらちらと空を見上げ、急かすように視線を投げかけている。彼ははとうにグリフォンの背にある。待っていてくれたのだ。
意識を失ったままのコクフウは背中の広いそちらに乗せ、コクフウにかわってティーナがカロンに騎乗する。二頭は再び空を駆けはじめた。とにかく今はここから去らなくてはならない。捕まればまた牢獄行きだ。