第9話 閑話・フリードリヒの独白
side:フリードリヒ
――とても大切で、根気のいるお仕事だと思いました。
燭台の炎が揺れる北棟の執務室で、私は帳簿を閉じた。
あのお茶会の一言から、シャルロッテは頻繁にこの部屋を訪れるようになった。帳簿の矛盾を見つけ、数字を整理し、時には私より先に、業者の不正に気づく。
膝の上で、指先をそっと握り込む。何かに心が動いた時、顔に出さない代わりに手に力を込める――昔からの癖だ。
(母は、私を産んだ日に亡くなった。肖像画でしか知らない、穏やかな目をした人だ)
(北棟で育った私に、表立って悪意を向けたり、害をなす者はいなかった。王妃陛下も、私を疎んじはしなかった。ただ――誰も、こちらを見なかった)
(廊下の侍従たちの目は兄上を追い、晩餐の話題は兄上の乗馬と笑顔ばかり。兄上は明るい人だ。羨んだことはある。でも、憎んだことはない)
『殿下。あまり目立ちすぎませぬよう。……殿下をお守りする後ろ盾は、まだ多くはございません』
十歳の頃、コルンフェルト侯爵に言われた言葉だ。
ゆっくりとした田舎訛りのような話し方だったが、目は少しも笑っていなかった。
(私が兄上を上回れば、兄上を推す者たちの目がこちらに向く。……そして、その矛先は、私を支えるコルンフェルト家にも)
(派閥を伸ばすなら、子どもは兄上の側につけた方が得策のはずだ。それなのにコルンフェルト侯爵は、跡取りのベルトルを私の側近に据え、たった一人の娘まで、私の婚約者に差し出した)
(侯爵家の子を、二人とも。得にならない方へ、迷いなく賭けてくれた)
(だから私は覚えた。何でもそつなくこなす。けれど一番にはならない。できることも、できないふりをする。――私が兄上の不興を買えば、その恩を仇で返すことになるから)
『殿下、先ほどの剣の稽古、また手を抜いてわざと負けましたね。』
誰も気づかないことに、ベルトルだけは気づいた。
気づいた上で、それ以上は何も言わなかった。
そして十四の年、ベルトルの妹が、私の婚約者になった。当時十二歳の、小柄で物静かな少女。
(最初のお茶会は、沈黙ばかりだった。……ある日、彼女の膝の上の本の題名に、目が留まるまでは)
『……その本、私も読んだ』
本の話になると、彼女は小さな声で、驚くほど深い感想を語った。女が学問をするのを良く思わない者は多いのに。
『君は物知りだね』
頬を赤くして、嬉しそうに俯いた顔を、今でも覚えている。
(彼女は、不満を一度も口にしなかった。後ろ盾も華やかさも、確かな将来すらない第二王子に嫁ぐことになったのに。「もっと頑張って」とも「兄上に負けないで」とも言わず、ただ静かに、私の立場を慮って隣にいてくれた)
(それだけで、十分すぎるほど好ましい人だと思っていた。――あの夜会よりも、ずっと前から)
(……もっとも、それを本人に告げたことは、一度もないけれど)
――それなのに、あの夜会から、何かが変わった。
兄上が婚約破棄を告げた時、彼女の手はひどく震えていた。外套を返しに北棟へ来た日、床に落ちた帳簿を拾い上げ、食い入るように見つめていた。
(あの目を、忘れられない。驚きと、感嘆と、燃えるような光。ずっと探していた宝物を見つけたみたいな目)
(水車の修繕費の水増しを、たった一枚の請求書から見抜いた時は、背筋が冷えた。数字の向こうに、人の嘘まで見通す目。……頼りない婚約者だと侮っていたわけじゃない。でも、ここまでとは思っていなかった)
握り込んでいた指を、ゆっくりとほどく。
(以前の彼女なら、あんなふうにまっすぐ目を見て、言葉を重ねたりしなかった。今の彼女は――こちらを、見ている。私という人間を、奥の奥まで)
(なぜなのかは、わからない)
(ただ一つ確かなのは。誰にも見られないことに、とっくに慣れていたはずなのに)
(――彼女に見られることは、少しも嫌ではなかった)
燭台の火を吹き消して、暗くなった執務室で、もう一度だけ彼女の笑顔を思い出す。
(この温かさに、私はもう、救われ始めているのかもしれない)
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