第10話 北棟の幽霊王子
「シャルロッテ、このレモンのケーキもぜひ食べてちょうだい。料理長にリクエストして作らせた自慢のケーキなの!」
「ありがとうございます、お義姉様」
窓を開け放った客間に、夏の風が吹き込んでくる。お義姉様主催の、保守派の若い夫人と令嬢たちのお茶会だ。
(お義姉様、ほんと癒し……。アルブレヒト兄様、いいお嫁さんもらったよね)
「そういえば、例の男爵家のご令嬢、妃教育がなかなか進まないそうよ」
「語学の先生が、とうとうお辞めになったとか」
(……マリー嬢、大変なんだろうな)
ちくりと胸が痛んだ、その時。
「妃教育といえば――」
よく通る声が、テーブルの向こうから割り込んだ。王宮の古参の侍女を務める、ヴェルナー伯爵夫人だ。
「第二王子殿下の方は、相変わらずなのかしら。ほら、北棟の幽霊王子」
くすくすと、笑いが広がった。
「まあ、幽霊だなんて」
「だって、いらっしゃるのかいらっしゃらないのか、誰も気づかないでしょう? 北棟の奥に籠もって、何をなさっているのやら」
伯爵夫人は、扇の陰から私に視線を流した。
「でも、婚約者の方もずいぶん影が薄くていらっしゃるから、お似合いなのかもしれないわね」
(…………は?)
隣で、お義姉様の手がぴたりと止まったのがわかった。
(幽霊? 何をなさっているのやら?)
(――知らないなら、教えてあげます。推しの布教は、オタクの本分ですから)
私は、紅茶のカップをそっとソーサーに戻した。完璧な侯爵令嬢の微笑みを浮かべて。
「北棟の幽霊、でございますか。でしたら、とても働き者の幽霊ですわね」
「……え?」
「殿下は、王家の直轄領の帳簿を、何年分もお一人で確かめていらっしゃいます。役人が見落とした計算違いを一つずつ正して、不作で税が減った村には、天候の記録まで照らし合わせて、不正がないかを確かめて」
客間が、しんと静まった。
「伯爵が管轄されている、領地の麦の値が今年も落ち着いているのでしたら――もしかすると、その幽霊様のおかげかもしれませんわ」
(嘘は言ってない。数字が正しいから、税も値も荒れないんだもの)
(……殿下が話していた井戸のことは、言わない。あれは殿下が「誰にも話したことがない」って教えてくれた、大切な話だから)
「それに」
少しだけ、声を和らげる。
「幽霊は、夜会の帰りに、震えている婚約者に外套を貸してくださったりは、いたしませんもの」
――一瞬の間のあと、若い令嬢たちの間から「まあ……!」と小さな声が上がった。
「外套を……?」
「あの婚約破棄の夜に?」
「素敵……」
伯爵夫人が、扇の陰で口元を引きつらせた。
「……ま、まあ。それは、存じませんでしたわ」
「ええ。殿下は、ご自分のことをお話しにならない方ですから」
にこりと笑って、私はレモンケーキを一口いただいた。
(言いすぎた……? いや、一個も盛ってない。事実しか言ってない。……でも心臓はバクバク)
「シャルロッテ様。殿下は、どんなご本をお読みになるのですか?」
おずおずと聞いてきたのは、まだ社交界に出たばかりの若い令嬢だった。
(来た……! 布教の手応え……!)
「詩人ですと、少し皮肉の効いた方がお好きみたいです。それから――」
気づけば、テーブルの半分が、私の話に耳を傾けていた。
お茶会がお開きになった後。玄関で客人を見送りながら、お義姉様がそっと私の腕に手を添えた。
「……驚いたわ、シャルロッテ。あなた、あんなふうに言い返せたのね」
「申し訳ございません、お義姉様のお茶会で、出過ぎた真似を」
「いいえ。とても素敵だったわ」
お義姉様は、ふふっと笑った。
「それに、最近のあなた、なんだか楽しそう。……特に、殿下のお話をする時」
(ば、バレてる……!? 推し活、バレてる……!?)
(……でも、お父様に「目立たず、劣らず、控えめに」って言われてきたのに。今日の私、ちょっと目立ちすぎたかも)
――その数日後の夕暮れ。北棟から帰ってきた兄様が、居間で私を呼び止めた。
「ロッティ。お前ヘンリエッテの茶会で、殿下を庇ったそうだな」
「ど、どうしてそれを……」
「社交界の噂は、半日で王宮に届く。――殿下の耳にもな」
(殿下に、知られた……!? 出しゃばりな婚約者だって思われたらどうしよう……!)
青ざめた私を見て、兄様は、なぜか楽しそうに口の端を上げた。
「殿下は、しばらく黙っておられた。それから、俺にこう聞いてきた」
「……どのような質問ですか」
「『シャルロッテが今いちばん欲しいものは、何だろう』とな」
(…………え?)
「な、何とお答えになったんですか、兄様!」
「さあな」
兄様は、ひらひらと手を振って居間を出ていった。
「九月の誕生日まで、楽しみにしておけ」
(私の誕生日……!? 兄様、絶対何か知ってる……!)
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