番外編 勝利の女神
side:ヴァルデン王国王太子 レオンハルト
「……また、宝石の話か」
「は、伯爵家のご令嬢で、舞踊と刺繍に優れ、お声は鈴のようだと」
副官が恐る恐る言う。
俺は地図の上に広げた補給表へ視線を戻した。
「戦場にいる王太子に、鈴の声が何の役に立つ」
「殿下。妃は国の顔にございますれば」
「その国は今、戦のただ中だ」
副官は黙った。反論できないのではない。
この数年、同じやり取りを何十回と繰り返してきたからだ。
♦
ヴァルデンの国境では、もう何年も小競り合いが絶えない。
収まったと思えば、数か月後にまた火がつく。砦を守り、押し返し、睨み合い、また守る。その繰り返しの中で、俺は王太子でありながら、宮廷より天幕で過ごす夜のほうが多くなった。
その戦を、我が国は隣国アドラークローンの剣で支えてきた。国内には鉄を鍛える職人が足りず、剣も槍も、隣国のアイゼンベルク公爵家からの輸入に頼ってきたのだ。剣が届く限り、国境は持つ。届かなければ持たない。そういう綱渡りが続いていた。
妃選びなど、考える余裕があるはずもなかった。
だが、宮廷はそう思わない。
ヴァルデンでは、王妃は王太子が自分で選ぶ。
父王がそう決めた。戦のさなかの国に、家柄だけで選んだ飾りを置く余裕はない、というのが父の言い分だ。それでも推薦は途切れなかった。名門の令嬢、美しい姫、教養ある才女。釣書は、補給表よりも速く俺の天幕に届いた。
誰ひとり、考えていない。戦中の国の妃に、何が求められるのかを。
俺が前線に出ている間、王宮の執務は誰が回す。陳情を捌き、物資の割り当てを決め、貴族どもの揉め事を収め、時には黙らせる者が要る。
いずれ俺が王になれば、その者は国母になる。
そして、考えたくもないが、最悪の場合もある。
戦に負ければ、妃は人質になる。敵の手に落ち、国を明け渡す書状に署名させられるかもしれない。それを理解した上で、なお背筋を伸ばして立てる者でなければ、務まらない。
令嬢との茶会で、試しに尋ねたことがある。
「もし我が国が戦に負けたら、あなたはどうなると思う」
令嬢は、みるみる青ざめた。
「そのような不吉なこと、おっしゃらないでくださいまし……殿下は、お勝ちになりますわ」
別の令嬢は、微笑んでこう言った。
「わたくし、毎日、殿下の勝利をお祈りしておりますの」
祈りで国は守れない。
俺は礼を言って席を立ち、その夜、副官に言った。
「国内に、俺の求める者はいないのかもしれん」
♦
その知らせが届いたのは、秋の終わりだった。
「アイゼンベルク公爵家が、剣の輸出を止めると」
伝令の声を聞いた瞬間、天幕の空気が凍りついた。
剣が来なければ、国境は冬を越せない。
俺は地図を睨み、それから立ち上がった。
「アドラークローンへ行く」
「殿下御自らですか。使者を立てれば済むのでは……」
「使者では、この話はまとめられん。あの国が何を考えているのか、この目で見て判断する」
父王は短く言った。
「行け。あの国が何をしようとしているのか、その目で確かめ、我が国に何が利するのかを見極めてこい」
怒りがなかったと言えば、嘘になる。
国の命綱を、あちらの都合ひとつで切られたのだ。
けれど同時に、頭の片隅で冷えた声がしていた。
――剣に頼り切っていた我が国にも、非はある。
♦
アドラークローンの王宮で、俺を迎えたのは宰相と第二王子だった。
第二王子の隣には、栗色の髪の令嬢が控えている。婚約者だと聞いた。
「ヴァルデン王国王太子、レオンハルトだ」
あえて、ヴァルデンの言葉で名乗った。
俺は、この国の言葉を話せる。幼い頃から、取引のために仕込まれた。
だが今日は、知らぬふりをすると決めていた。通訳が俺の言葉をどう運ぶか。
そして、剣を止めた国が、我が国の事情をどこまで理解しているか。
それを見るためだ。
通訳官が慌てて前に出ようとした。
その前に、宰相の隣から、すっと別の影が進み出た。
「通訳には、私がお役に立てるかと」
若い令嬢だった。
「娘のヴィクトリアです。ヴァルデンの言葉には、通じておりますので」
宰相の紹介に、俺は彼女を見た。
背筋がまっすぐ伸びていて、目をそらさない。
飾り立てた笑みはなく、必要なことだけを聞き取ろうとする顔をしている。
宰相の娘。第一王子に、夜会の場で婚約を破棄された令嬢。
噂は国境の天幕まで届いていた。副官は「愚かな王子ですな」と呆れていたが、その王子が捨てたものの価値を、俺はまだ知らなかった。
「単刀直入に言おう。剣の輸出を止められては、我が国は国境を守れぬ。アイゼンベルク家との取引の再開を求めに来た」
言葉は、わざと硬く選んだ。
脅しに近い。彼女がどう言葉を選んで伝えるかを見たかった。
彼女の声が、淀みなく訳していく。
驚いた。
意味は、一語も削られていない。
それなのに、相手が反発しない順序と言い回しに、きれいに置き換えられている。
通訳を何人も見てきたが、中身を少しも薄めずに、角だけを落として運べる者は初めてだった。
(上手い)
「剣の輸出は、再開いたしません」
第二王子が、静かにけれどはっきりと答えた。
「ですが、ヴァルデンとの取引をやめたいわけではない。剣ではなく、別のものを売りたいのです」
「別のもの?」
「麦と、鉄の道具です。国境の戦で、貴国の畑は荒れていると聞きます。兵を養う麦も、畑を耕し直す鋤も、足りていないはずだ」
痛いところを突かれた。
事実だった。だからこそ、腹が立つ。
「腹を満たす麦で、敵は退かぬ」
「ですが、腹を空かせた兵では、国境は守れません」
正論だ。分かっている。
だが、正論で剣は届かないし、戦が止まることはない。
俺は、早口のヴァルデン語で畳みかけた。
通訳を挟む暇を与えず、切りつけるように。
麦で敵が退くなら、我が国の兵はとうに家へ帰っている。
机の上の商談で、前線の何が分かる――
そこで、彼女が訳すのをやめた。
そして、まっすぐに俺を見て、ヴァルデンの言葉で話し始めた。
「殿下。畑を耕して戦に勝てるとは、私も申しません」
澄んだ声だった。
彼女は、数字を挙げた。我が国が剣と引き換えに、毎年どれほどの麦を買い付けてきたか。その量が、戦が長引くにつれて、年ごとにどう変わったか。冬が来るたびに、国境の砦が何を食べて持ちこたえているか。
どれも、俺の天幕の補給表に載っている数字だった。
どこでそれを知り、いつ読み込んでいたのか。
「剣は、使えば消えます。けれど道は、使うほど太くなる」
彼女は、俺から目を離さない。
「我が国が今、王都と地方を鉄道で結ぼうとしているように、いずれ、その道を国境まで延ばせば、貴国は剣を買う代わりに、毎年、麦と鉄の道具を手に入れられる。冬を越すたびに、貴国の民は、剣ではなく、隣国の麦で命を繋ぐことになる。――それは、どんな剣よりも強い国境の守りではありませんか」
麦。冬。民。そして、橋。
足元の地面が、ひっくり返った気がした。
俺は、剣の数でしか国境を数えてこなかった。
彼女は、冬を越せる民の数で数えていた。
視界の端で、第二王子の隣の令嬢が、目を輝かせているのが見えた。
顔に全部出る娘だ。彼女の手元には、数字の並んだ計算書の写しがあった。
誰が作ったものかは知らないが、無駄のない数字だった。
長い沈黙のあと、俺はこの国の言葉で、ゆっくりと口を開いた。
「……失礼をした」
少し訛りはあるが、通じる。
部屋にいた全員が、目を見開いた。
「こちらの国の者が、我が国の事情を、どこまで理解しているか、試させてもらった」
そして、彼女に向き直った。
「ヴィクトリア嬢。あなたは、我が国の冬をご存じなのか」
「書物で少しだけ学びました。それと、殿下の国の帳簿の数字で」
彼女が、扇子をぱちんと閉じた。
「数字は、嘘をつきませんもの」
笑っていた。気づけば、口の端が上がっていた。
「鉄道の話は持ち帰って、父王に伝えよう。剣の件は、一度白紙に戻す」
♦
会談のあと、回廊で、俺は彼女を呼び止めた。
「ヴィクトリア嬢。……あなたのような方が、我が国にいてくれたらと、思わずにはいられない」
口にしてから、自分が何を言ったかに気づいた。
外交の世辞にしては、あまりに本音だった。
彼女は一瞬だけ目を見開き、それから、凛とした微笑みで優雅に一礼した。
背筋は少しも崩れない。けれど、耳がほんのりと赤く染まった。
その夜、客室の寝台で俺は天井を見ていた。
美しい、というのとは少し違う。彼女を好ましいと感じていたのだ。
彼女は、自国の利益を語りながら、我が国の冬の話をした。
どちらか一方の側に立つのではなく、両方の側から橋の話をした。
そんな人間を、俺は初めて見た。
翌日、荷の底から、ヴァルデンの古い詩集を一冊取り出した。
「殿下、それは」
副官が目を丸くした。
「求婚の品では」
「違う。試すような真似をした詫びだ」
「では、その手紙は」
「庭を案内してほしいと書いた」
「……それが、求婚の入り口です」
「うるさい」
手紙は、ヴァルデンの言葉で書いた。
彼女が読めると知っているからだ。
そして、読めることを、もう隠す必要がなかったからでもある。
返事は、了承だった。
冬の庭は、寒々としていた。
並んで歩きながら、俺は、ずっと胸につかえていたことを口にした。
「あなたが、この国の第一王子の婚約者だったと聞いた。……あの夜会のことも」
「……」
「それで、あなたは、その王子を恨んでいるのか」
「いいえ」
迷いのない声だった。
「殿下は、ご自分の心に正直だっただけですわ。私は、私の務めを果たすだけです」
嘘ではない、と分かる声だ。
恨みを飲み込んだ者の声ではなく、すでに整理を終えた者の声だった。
「……あなたを手放した男は、愚かだと思っていた。だが、違うな。あなたは、誰かに手放されるような人ではない。――自分の足で、立っている人だ」
彼女の扇子が、開くのが一拍遅れていた。
寒さのせいだ、ということにしておいた。
♦
それからも滞在の間に、何度も顔を合わせた。
宰相を交えた実務の席で、彼女は必要なことを、必要な順で話した。
遠慮はなかった。
「殿下。国境まで延ばした道が、敵の手に落ちた場合の対処は、すでにお決めですか」
「道は、まだ一寸も敷かれていない」
「だからこそ、今、お決めになるのです。敷いてから考えると、必ず手遅れになりますわ」
負けた後の話を、最初に尋ねる人だった。
怯えるのでも、目を逸らすのでもなく、備えとして語る人だった。
「それと、殿下が前線にお出になる間、補給の決裁は、どなたが担われますの。承認の経路が一本ですと、殿下がお戻りになるまで、荷が止まってしまいます」
胸の奥を、掴まれた気がした。
それは今まさに、俺の国で詰まっている問題だった。
誰も指摘しなかった。令嬢たちは祈るばかりで、そんな話は一度も出なかった。
彼女は手元の紙に、簡潔な図を描いた。
決裁の経路、担当、代行者、権限の範囲。無駄がなく、実際に回せる図だった。
俺は、声を出して笑っていた。何か月ぶりか分からない。
「あなたは、遠慮というものを知らないのか」
「申し訳ございません。必要なことは、先に申し上げる質ですの」
「いや。ありがたい」
本心からの言葉が出た。
そして、部屋に戻ってから気がついた。
俺がずっと探していた条件を、彼女はひとつ残らず満たしている。
国を預けられる頭と、実行する力。最悪の事態を直視する覚悟。揺らがない背筋。
国内には、ひとりもいなかった。
それが怒りに任せて乗り込んだ、他国の応接の間で、何の前触れもなく目の前に現れたのだ。
♦
帰国の前日、彼女のほうから切り出された。
「レオンハルト殿下。失礼を承知で、お伺いしてもよろしいかしら」
「何だ」
「殿下には、婚約者がいらっしゃるのではなくて? あまり他国の令嬢に親しくなさるのは、お国の婚約者の方に失礼ですわ」
予想外の角度から斬られた。
そうか、彼女は俺の熱をそう受け取っていたのか。
それでも彼女は、俺の立場を案じて、先に筋を通そうとした。
更に好ましく感じる。
「いない」
「……え?」
「ヴァルデンでは、王妃は王太子が自分で選んでよいことになっている。父王がそう決めた。だから、俺はまだ誰とも婚約していない」
彼女の足が、止まった。
俺はその前に回り込み、まっすぐに見下ろした。
回りくどいのは好かない。
「ヴィクトリア嬢。単刀直入に言う。――俺と、結婚してくれ」
「……お、お待ちくださいませ。私たちは、まだ、出会って半月も――」
「半月あれば十分だ。会談であなたの外交力を見た。言葉を聞いた。この国の帳簿の数字まで読み込んで、俺の国の冬を説いた。……あなたなら、俺を支えられる」
我ながら、色気のない口説き文句だった。
後で知った副官に泣かれることになるだろう。
「俺が妃に求めるのは、若さや美しさではない。能力だ。俺は、いずれヴァルデンの王になる。その隣に立つのは、国母となる女だ。――阿呆は、いらない」
「……ずいぶん、はっきりと仰るのね」
「回りくどいのは嫌いでな」
嘘ではない。だが、それだけでもなかった。
庭で見た、扇子を開くのが遅れた手や、耳の赤さのことまで言えば、卑怯になる気がして、口を閉じた。
「その代わり、俺は一生、その妃を大切にすると決めている。浮気もしない。他の女に目移りもしない。どんな時も、妃の言葉を最後まで聞く。だから妃は、尊敬できる女にすると決めている」
彼女の目が、わずかに揺れた。
「……私は、可愛げのない女ですわよ。口うるさいとも、冷たいとも言われてきました」
「知っている。会談で俺に向かって堂々と説教したからな」
笑いが込み上げた。
「口うるさい妃で結構だ。俺が間違えた時に、黙っている妃の方が困る」
彼女が、扇子をぱちんと閉じた。
「……一つだけ、条件がございます」
「言ってみろ」
「私に難しいことを望まれるなら、殿下も、ご自分の言葉を守ってくださいませ。一生と仰いましたね」
「ああ、一生だ」
「でしたら――」
彼女は、背筋を伸ばし、顎を心持ち上げた。
「謹んで、お受けいたします」
一瞬、息が止まる。
それから、声を立てて笑った。
「――やはり、あなたは面白い」
十日後、ヴァルデン王家の紋章を押した書状が、オイレンブルク家に届けた。
『鉄道を、両国の懸け橋に。そのために、あなたの力を貸してほしい』
「殿下。求婚の書状ですよ。せめて、もう少し」
副官は最後まで抵抗していた。
「回りくどいのは嫌いだ。それに、事実だ」
「……事実ですが」
「彼女なら、分かってくれる」
♦
春の終わり、オイレンブルク家の門の前で、俺は馬車の扉を押さえて待っていた。
弟が、彼女のドレスの裾にしがみついて泣いている。
母君は、象牙の骨の扇子を娘の手に握らせていた。
宰相は、片眼鏡を押し上げて「行ってきなさい」とそれだけ言った。そして娘の肩を一度、とんと叩いていた。
あの無口な父親の、精一杯だと伝わってきた。
栗色の髪の王太子妃が、泣き笑いで何か言っている。
膝が浅くなりませんようにとか。彼女は目を丸くして、それから声を立てて笑った。
俺は、手を差し出した。
「行くぞ、ヴィクトリア」
「……ええ、レオン」
初めて、名を呼ばれた。
思わず、彼女の方を見ると、彼女は少しだけ頬を染めて、すぐに前を向いた。
馬車が動き出すと、窓の外に手を振る家族が小さくなっていく。
彼女は母君の扇子を開いて、そっと振った。その横顔を、俺は黙って見ていた。
預かったのだ、と思った。
あの国が育てた人を、俺は預かったのだ。
♦
ヴァルデンの冬は、彼女の国より厳しい。
それに気づいたのは、嫁いできた最初の冬だった。
天幕暮らしの長かった俺は、暖炉の火のことなど考えたこともなかった。
今は毎朝、彼女が起きる前に自分で火を確かめている。
彼女は、そのことを知っているのか、いないのか。
彼女が最初にしたことは、俺の書状に赤を入れることだった。
「南の辺境伯閣下は、言い回しに煩い方ですもの。あの書き方では、また臍を曲げられますわよ」
「……あいつは、いつも細かいんだ」
「細かい方の扱い方を、私は存じておりますの」
彼女の赤は、いつも正しい。
決裁の経路も、彼女が描いた図のとおりに整えた。
俺が前線にいる間も、荷が止まらなくなった。国内の貴族どもが、「あの妃殿下には逆らえん」と噂しているらしい。
宮廷の者たちが、彼女を侮れなくなるまで、半年もかからなかった。
「わかった。君の言う通りに直そう」
いつの間にか、俺は彼女を「君」と呼んでいた。
羊皮紙を受け取った後、ふとその額に口づけた。
「……何ですの、急に」
「口うるさい妃を持って、俺は幸せだと思っただけだ」
彼女は、扇子を開くのが、一拍遅れた。
何度見ても、飽きない。
♦
そして、その年の秋。
アドラークローンから国境の町まで、鉄道が延びた。
麦と鉄の道具の取引が始まってから、国境は少しずつ静かになっていた。
腹を満たした兵は、無駄な小競り合いを好まなくなる。
冬を越せるという見通しは、剣よりも人を落ち着かせる。
戦の終わりが、見えていた。
その国境の新しい駅に、アドラークローンの車が着いた。
「ヴィクトリア様ー!」
車の上から、栗色の髪の王太子妃が、ちぎれそうなほど手を振っている。
「シャルロッテ!」
降りるなり、彼女は妃に飛びついた。
ヴィクトリアが、笑いながら受け止める。その様子を、俺は少し離れて眺めていた。
あの娘が、計算書の作り手なのだという。俺が初めて会った日、ヴィクトリアの手元にあった、無駄のない数字の写しを書いた人間だ。
後から降りてきたフリードリヒ王太子は、当然のように妃の腰に手を添えた。
「アドラークローンの王太子は、ずいぶん妃を大切にしているな」
隣のヴィクトリアに言うと、彼女は涼しい顔で返した。
「レオン。あなたも、人のことは言えませんわよ」
「俺は、あそこまで露骨ではない」
その瞬間、フリードリヒ殿下が、ちらりと俺を見た。
穏やかな微笑み。けれどその目が一瞬だけ、ひやりと冷たく光った。
――なるほど。剣を止めた男は、伊達ではないらしい。
「安心しろ、アドラークローンの王太子殿。俺は、自分の妃しか見ていない」
そう言って、見せつけるように、ヴィクトリアの肩を抱き寄せた。
「レ、レオン……!」
腕の中で、彼女が慌てている。
その向こうで、王太子妃が両手で口を押さえて、目をきらきらと輝かせていた。
顔に全部出る娘だ。
夕食は、国境の町の小さな館で、四人でとった。
フリードリヒ殿下と俺は、最初こそ牽制し合っていたが、話してみれば、二人とも、数字と民の暮らしの話が好きな、似た者同士だった。
「蒸気の車の研究は、どこまで進んでいる」
「技術者が言うには、あと二年だそうです」
「ほう。ヴァルデンにも、その技術者を貸してもらえないか」
「……妃が許せば」
「なぜ、妃の許可が要る」
「研究の取りまとめと計算書を作っているのが、妃なので」
目を丸くして、王太子妃を見た。
彼女は照れくさそうに、こくりと頷いていた。
世界を動かしているのは剣ではない。
こういう人間の、数字と、粘り強さだ。
あの冬の日、俺が応接の間で足元をひっくり返された理由が、ようやく腑に落ちた。
食後、女たちは露台に出た。
「……ヴァルデンの王太子殿」
残った部屋で、フリードリヒ殿下が、静かに口を開く。
「ヴィクトリア殿は、妃にとって、姉のような方です。それを、ご承知おきください」
「承知している。……むしろ、礼を言わねばならん」
俺は、杯を傾けた。
「貴殿が剣を止めなければ、俺は彼女に会えなかった。腹立たしくて乗り込んだ先に、あの人がいた」
殿下は、少し困ったように微笑んだ。
「礼なら、妃に。鉄道の計算書を書いたのは、彼女ですから」
「ならば、あとで彼女にも言おう。……ところで、殿下」
「何でしょう」
「貴殿の妃が他国の男と二曲続けて踊ったら、貴殿はどうする」
「三度、名簿を確認させます」
即答だった。
俺は、声を立てて笑った。
やはり、この男とは話が合う。
「冷えてきたな」
どちらからともなく、そう言って立ち上がった。
露台の扉を開けると、夜空には、星がたくさん瞬いていた。
ヴィクトリアと王太子妃が、並んで立っている。
聞こえてきた笑い声に、俺は足を止めた。
肩の力が抜けた、少女のような笑い声だった。
宰相の娘として、未来の王妃として、六年間、完璧であり続けた人が、友人の隣で、あんなふうに笑っている。
「ヴィクトリア」
声をかけると、彼女が振り返った。
「冷える。中に入れ」
手に持った上着を、その肩に掛ける。
隣では、フリードリヒ殿下も、ほとんど同時に、自分の妃の肩に上着を掛けていた。
目が合ったが、互いに何も言わなかった。
彼女が、俺の上着の温もりの中で、母君の扇子をゆっくりと開いていく。
口元に浮かんだ笑みを、もう隠そうとはしていなかった。
♦
俺は、祈りというものを、信じたことがなかった。
勝利の女神、などという言葉も、天幕で笑い飛ばしてきた。
国を守るのは、剣と、兵と、補給だ。それが、俺の知っていた全てだった。
けれど、もし、勝利の女神というものが、本当にいるのなら。
そう言えば彼女は、扇子をぱちんと閉じて、きっとこう言うだろう。
「勝利は、仕組みの結果ですわ」と。
それでいい。
彼女が来てから、俺の国の冬は、確かに変わった。
決裁の経路が整い、荷が止まらなくなり、国境が静かになり、兵が家へ帰れるようになった。
怒りに任せて乗り込んだ、あの日の俺に、言ってやりたい。
お前は、剣を取り戻しに行くのではない。
もっと大きなものを、受け取りに行くのだと。
剣では手に入らなかったものを、麦と鉄道が運んできた。
その一番大切なものが、今、俺の上着の中で、笑っている。
――一生、と言った。
その約束は、まだほんの序の口でしかない。
残りの日々も、俺は守る。彼女の言葉を、最後まで聞く。
暖炉の火を、毎朝、自分で確かめる。
星空の下で、彼女がこちらを振り向いた。
「レオン。何を、ぼんやりしていますの」
「……いや」
俺は、笑った。
「君を得られて、本当に良かったと、思っていただけだ」
私だけの勝利の女神を。
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