番外編 フリッツの独白 三年後
ここ数日、ロッティの顔色がずっと優れていない。
朝食の席で、彼女は好物の木苺のジャムを添えたスコーンに手をつけなかった。
午後になると、気づかれないように椅子の背へ身体を預けている。
昨日は、廊下で一瞬ふらついていた。
本人は「少し寝不足なだけです」と笑ったが、私はその笑顔が、いつもより薄いことに気づいていた。
胸の奥が、ざわついて仕方がなかった。
「侍医を呼べ。今すぐ妃の私室へ」
執務を中断してそう命じると、近侍が目を丸くした。
周りの目など構わなかった。
ロッティの私室を訪ねると、彼女は窓辺の長椅子に座って、刺繍の針を持っていた。
「フリッツ? こんな時間に、どうなさったんですか」
「侍医を呼んだ。診てもらいなさい」
「え、でも……私、本当に大丈夫で」
「大丈夫かどうかは、ロッティが決めることではない。医者が判断することだ」
自分でも、強い口調になっていると分かった。
ロッティは、驚いたように私を見て、それから少しだけ眉を下げた。
「……はい。分かりました」
素直に頷いた彼女の手から、私はそっと針を取り上げた。
侍医が到着し、ロッティは、奥の寝室で診察を受けることになった。
私は私室の長椅子に座って待った。座ってはいたが、落ち着かなかった。
立ち上がって窓辺を往復しまた座る。壁の時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。
何も、悪いものでなければいい。
ただの疲れであってくれ。季節の変わり目の風邪であってくれ。
それ以外の可能性を、私は考えないようにした。
どれほど経っただろうか。寝室の扉が開いて侍医が出てきた。
「殿下」
その顔を見て、私は立ち上がった。
「どうだった」
「ご安心ください。ご病気では、ございません」
息が、ようやく吐けた。
膝から力が抜けそうになる。
「では、なぜ顔色が」
侍医は、少しだけ口元を緩めた。
「妃殿下は、ご懐妊でいらっしゃいます」
意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
「……何と言った」
「ご懐妊でございます。おそらく、三か月位かと。春の終わりには、お生まれになられるかと思います」
懐妊。
その言葉が、頭の中でゆっくりとなぞられていく。
寝室の扉の前に、ロッティが立っていた。
上着を羽織り、少し頬を赤くして、両手を胸の前で組んでいる。
「……フリッツ」
彼女が、小さく息を吸った。
「あの、私も、まだ確信がなくて。もう少しはっきりしてから、お話ししようと思っていたんです」
だから、あんなに「大丈夫」と言い張っていたのか。
「赤ちゃんが、できました」
時間が、止まった。
窓の外で、鳥が鳴いていた。
机の上の刺繍糸が、午後の光を受けて、きらきらと光っていた。
そういう細かいことばかりが、妙にはっきりと目に入ってくる。
最初に来たのは、嬉しさだった。
胸の底から、熱いものが一気にせり上がってきて、気づけば私は彼女に歩み寄って、抱きしめていた。
「ロッティ」
「はい」
「嬉しい。……嬉しい」
それしか言えなかった。
ロッティが私の背中に腕を回して、くすくすと笑った。
「フリッツ、苦しいです」
「すまない」
慌てて腕を緩め、それから彼女の肩を掴んだまま、はっと気づいた。
「立っていて大丈夫なのか。座りなさい。いや、横になったほうがいい。何か、飲み物を。それから」
「フリッツ。まだ、お腹もぺたんこですから」
笑いながら言われて、ようやく手を離した。
背後で、侍医が咳払いをひとつして、静かに退室していった。
喜びは、嘘ではなかった。
けれどその喜びの底に、冷たい水のようなものが、じわじわと染み出してくるのも、その時すでに、感じていた。
♦
その夜、私は眠れなかった。
寝室の暖炉の前で、ロッティと並んで座っていた。
彼女は私の肩に頭を預けて、うとうとしている。
まだ何も変わらないはずの腹に、私の視線は何度も落ちた。
「……ロッティ」
「ん……はい」
「起こしてしまったか」
「いえ。起きてます」
嘘だと分かっていたが、彼女は目を開けて、私の顔を見上げた。
「フリッツは、何か考えていらっしゃいますね」
隠しても、すぐ見抜かれる。
三年経っても、彼女には何ひとつ隠せない。
「……嬉しいんだ。本当に」
「はい」
「それなのに、怖い」
声に出してみると、思っていたよりも、ずっと情けない響きがした。
「私の母は、私を産んですぐに、亡くなった。伯父上から、そう聞いている。それ以上のことは、誰も詳しくは語らなかった」
ロッティは何も言わず、私の手を両手で包んだ。
「物心ついた時から、母は肖像画の中の人だった。私と同じ瞳の色をしている。その瞳に、一度も見つめてもらえなかったことが、ずっと、胸のどこかに残っていた」
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。
「君が、母と同じ目に遭うかもしれない。そう思うと、息ができなくなる。……子どもがいなくても、構わない。君と二人のままでいい。君を失うくらいなら、私は、他に何もいらないし、望まない」
言ってしまってから、それが、どれほど身勝手な言葉かに気づいた。
子が出来て喜んでいる彼女の前で、口にしていいことではなかった。
「すまない……こんなことを言うつもりでは」
「フリッツ」
ロッティは、私の手を握ったまま、まっすぐに私を見た。
「怖いって、言ってくださって、ありがとうございます」
怒っていなかった。悲しんでもいなかった。
ただ、こちらを静かに見つめている。
「フリッツの気持ち、少しだけ分かります。大切なものを失うのが怖くて、失う位なら手に入れる前に、手放そうとしてしまうこと」
彼女が、小さく息を吸う。
「でもフリッツ、今までのフリッツは、ずっと、寂しかったでしょう。誰も見てくれなくて、誰にも甘えられなくて、ひとりで頑張ってきて」
「……」
「その分、これからは、幸せになれるんです」
力強い声だった。
「家族が増えるんですよ。フリッツに『おかえりなさい』って言う人が、ひとり増えるんですよ。私だけじゃなくて、もうひとり。ふたりになるんです」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれた。
「私絶対に死にません、なんて軽々しくは約束できません。でも頑張ります。フリッツのお母様が、命がけで残してくださったフリッツを、今度は私が、絶対に幸せにするって、ずっと前から決めてますから」
彼女は、少し泣きそうな顔で笑った。
「だから、一緒に幸せになりましょう、ね?」
返事を、すぐにはできなかった。
喉の奥が詰まって、ただ、彼女の手を握り返した。
恐れが消えたわけではない。それでも、彼女の「一緒に」という言葉の隣でなら、立っていられる気がした。
「……ああ」
やっとの思いで、それだけ答えた。
「一緒に、幸せになろう」
ほんの少しだけ、前を向けた夜だった。
♦
その翌日から、私は控えめに言って、少し過保護になった。
「フリッツ様。階段くらい、ひとりで降りられます」
「私が抱えて降りよう」
「それは、さすがにやりすぎです」
「では、せめて手を」
結局、階段の全段に私が付き添うことになった。
段差のある廊下には、すべて緩やかな傾斜をつけさせた。
庭の散歩道からは、小石をひとつ残らず取り除かせた。
乗馬は、当然禁止にした。
「殿下。妹は、病人ではありません」
見かねたアルブレヒトが、真顔で言った。
「分かっている。だが、万が一ということがある」
「その万が一のために、侍医をすでに三人、待機させておられる」
「少ないか」
「多すぎます」
食事の毒見係は、倍に増やした。
夜中に何度か目を覚まし、ロッティの寝息を確かめた。
確かめて、安心して、また目を閉じる。
それを繰り返していたら、ある夜、彼女の目がぱちりと開いた。
「……フリッツ。寝てください」
「眠れないんだ」
「私は大丈夫ですから」
「分かっている。分かっているが、確かめないと眠れない」
「もう……」
呆れた声だった。
けれど、彼女は私の手を取って、自分の頬に当ててくれた。
「ほら、温かいでしょう。ちゃんと、生きてます」
その温もりに、胸の力が抜けた。
伯父上にも、一度、やんわりと釘を刺された。
「殿下。……ほどほどになさってください」
「善処しています」
「その言葉を、以前も聞きました」
「ええ。ですから、善処した結果がこれです」
伯父上は、ひどく複雑な顔をして黙った。
私にも、分かってはいたのだ。やりすぎていることは。
それでも、止められなかった。
何か一つでもできることがあるなら、全部やっておかなければ、気が済まなかった。
ロッティは、そんな私を呆れながらも咎めはしなかった。
「フリッツ。これを見てください」
ある午後、彼女は膝の上に小さな布を広げて見せた。
生まれてくる子のための産着だ。
白い絹地の縁に、青灰色の糸で、小さな麦穂が刺繍してある。
「麦穂と、バイオリン、どっちがいいでしょう。迷っていて」
「……どちらも、君が好きなものだろう」
「はい。でも、私の好きなものばかり並べると、この子が、困るかもしれませんね」
彼女は、お腹にそっと手を当てた。
「お父様はね、世界で一番、優しい人なのよ。ちょっと心配性で、すごく不器用だけど」
廊下の入口で、私は足を止めていた。
ロッティが、まだ形にもならない我が子に、私の話をしている。
「でもね。誰よりも、あなたを大切にしてくれる人だから、安心して生まれてきていいのよ」
視界が、少しだけ滲んだ。
私は静かに踵を返して、廊下の角で、しばらく立ち尽くした。
♦
陣痛が始まったのは、春の終わりの雨の夜だった。
「フリッツ……あの、たぶん……」
夜中、ロッティが、私の袖をぎゅっと握った。
普段は何があっても落ち着いている彼女の声が、わずかに震えていた。
「始まったかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥がすうっと冷えた。
私は、すぐに動いた。侍医を呼べ。産婆を。侯爵夫人にも使いを。
命じた声が、自分のものではないように遠く聞こえた。
産室に移されたロッティは、寝台の上で、何度も大きく息をしていた。
額に汗が浮かび、唇を噛んでいる。
「……っ、ふ、う……」
波が来るたびに、彼女の指がシーツを強く握りしめた。
「ロッティ」
「大丈夫……です。フリッツ……顔が、真っ青……ですよ」
痛みに耐えながら、彼女は私の心配をしていた。
「大丈夫だ。私のことはいい」
「だって、すごい顔、してます」
「いいから、自分のことだけ考えなさい」
私は枕元に膝をついて、彼女の手を握った。
握った手が、驚くほど熱い。
そして、驚くほど強く、私の指を握り返してくる。骨が軋むほどの力だった。
こんなに華奢な身体で、こんなに強い力を出せるのか。
そして、気づいた。
私の母も、こうだったのだ。
こうして痛みに耐えて、全身の力を振り絞って、私を産んだのだ。
誰にも手を握ってもらえなかったのかもしれない。
それでも、あの人は私をこの世に送り出してくれた。
自分の命と、引き換えにしてでも。
視界が、ぐらりと揺れた。
母上。
私は今まで、母を「失った」ことばかり、数えてきた。
会えなかったこと。抱いてもらえなかったこと。声を聞けなかったこと。
けれど母は、それだけの痛みを引き受けて、私を残してくれたのだ。
「ありがとうございます」
小さな声が、勝手にこぼれた。
隣で、ロッティが、苦しい息の合間に、目を見開いた。
「フリッツ……?」
「違う。君にではない。……いや、君にも、だ」
うまく説明できなかった。
ただ、母に向けた言葉が、止まらなかった。
産婆が、厳しい声で言った。
「殿下。これより先は、どうか、お控えを」
産室は、男の入る場所ではない。
それが、習わしだった。
「……分かった」
私はロッティの手を、ゆっくりと離した。
離すのが、これほど辛いとは思わなかった。
「ロッティ。外にいる。ここにいる。すぐそこに」
「はい。……いってきます、フリッツ」
彼女は、痛みの中で、私に微笑んでみせた。
扉が、閉まった。
♦
廊下は、静かだった。
雨音が、窓を叩いている。
私は、扉の前に立ったまま、動けなかった。
座ることもできず、ただ閉じた扉を睨んでいた。
扉の向こうから、くぐもった声が漏れてくる。
ロッティの声だ。
堪えるような、押し殺した声。時折、高くなる。
そのたびに、私の心臓が、握り潰されそうになった。
「殿下」
背後から、低い声がした。
振り返ると、伯父上が立っていた。
夜着の上に外套を羽織り、髪が乱れている。
その後ろには、アルブレヒトの姿もあった。
「……お二人とも、こんな時間に」
「娘が子を産むというのに、眠れるはずがありません」
伯父上は、私の隣に立って、同じように、閉じた扉を見つめた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「殿下」
やがて伯父上が、静かに口を開いた。
「妹の時、私は何もできなかった」
私は、息を止めた。
「あの子が苦しんでいる時、私は、遠く離れた領地にいた。知らせを聞いて駆けつけた時には、もう、全てが終わっていた」
伯父上の声は、淡々としていた。
けれど握りしめた拳が、小さく震えている。
「だから、今夜はここにいます。……何もできなくても、ここにいます」
「……伯父上」
「殿下。大丈夫ですよ」
伯父上は、私の肩にそっと手を置いた。
「あの子は、強い。私の娘だからではない。殿下の隣で、あれだけのことをやってのけた子だ。……信じてあげてください」
肩の上の手が、温かかった。
「はい」
私は、扉に向き直った。
何時間が経ったのか、分からない。
祈ったのかもしれない。何を祈ったのかも、覚えていない。
ただ、ロッティの声が聞こえるたびに、彼女が生きていることを確かめて、そして、また怖くなった。
東の窓が、少しずつ、白んできた。
雨が、いつの間にか、上がっていた。
そして
高く、澄んだ声が、扉の向こうで響いた。
泣き声だった。
小さな、けれど力強い産声が聞こえた。
膝から力が抜けていく、壁に手をついて、ようやく身体を支えた。
その直後、扉が開いて産婆が顔を出した。
「殿下、おめでとうございます。男のお子様です」
「……ロッティは」
絞り出した声が、掠れていた。
「母子ともに、ご無事でございます」
その言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
母子ともに、ご無事。
背後で、アルブレヒトが長く息を吐く音がした。
伯父上が、顔を覆って肩を震わせていた。
私は、ふらつく足で産室に入った。
♦
寝台の上のロッティは、ひどく疲れた顔をしていた。
髪が汗で額に張りつき、唇は乾いて、頬には赤みがない。
けれどその腕の中には、白い布に包まれた小さな塊があった。
彼女が私に気づき、顔を上げる。
「……フリッツ」
疲れ果てた、けれど、これ以上ないほど柔らかい笑顔だった。
「生まれました。男の子、ですって」
私は、寝台の脇に膝をついた。
何かを言わなければと思った。
感謝の言葉を。労いの言葉を。
何度も心の中で繰り返してきた言葉が、いくつもあったはずだった。
「ロッティ」
名前を呼んだ。
そこから先は、続かなかった。
「ありがとう」を言おうとした。
それなのに、喉が詰まって声にならなかった。
代わりに、目の奥から熱いものが溢れ出した。
私は、泣いていた。
物心がついてから、人前で泣いたことなど一度もなかった。
泣くことも許されていないと思っていたからだ。
それが、今止まらない。
「……フリッツ」
ロッティの手が、そっと私の頬に触れた。
「泣いてる」
「すまない。……君に、言いたいことが、たくさんあるのに」
「うん」
「言葉に……ならない」
「えぇ、分かってます」
彼女は、私の涙を親指で拭った。
「大丈夫です。ちゃんと、伝わってますから」
その優しさに、またひとつ涙がこぼれた。
「ほら、見てあげてください」
ロッティが、腕の中の布を私の方へ傾けた。
小さな顔があった。
赤くて、皺くちゃで、まだ目も開かない。
けれど、紛れもなく、生きている。
私の指を恐る恐る差し出すと、小さな、小さな手が、ぎゅっと、握り返してきた。
あまりの強さに、息が止まった。
こんなに小さいのに、こんなに、力強い。
「……私の、子だ」
「はい。私たちの、子です」
この子が、君と私の間に生まれた子だと思うと、言葉にできない何かが、胸に満ちた。
♦
その夜、私はほとんど眠れなかった。
ロッティは、産後の疲れで泥のように深く眠っている。
その隣の揺りかごで、小さな息子が、すうすうと寝息を立てている。
私は、寝台と揺りかごの間の椅子に腰掛けて、ただ二人を見ていた。
胸の中が、ぐちゃぐちゃだった。
何ひとつ、綺麗に整理がついていかない。
まず、安堵がある。ロッティが、無事に産み終えてくれた。
それだけで、世界のすべてが許されるような気がした。
母と同じことには、ならなかった。そのことに、心の底から救われていた。
けれど、その安堵の隣に小さな寂しさが、顔を出していた。
ロッティが、息子を抱いた時の顔。
あれは、私に向けられるものとは、違う種類の顔だった。
柔らかくて、揺るぎなくて、何もかもを包み込むような。
彼女は、もう私だけのロッティではない。
そんなことを思う自分が、情けなかった。
生まれたばかりの我が子に、嫉妬のようなものを感じるなど。
けれど感じてしまったものは、仕方がなかった。
そして、その寂しさのさらに隣に、
どうしようもないほどの、愛しさがあった。
この小さな命が、愛おしい。
ロッティとの子どもに、こんな感情を抱く日が来るとは、想像していなかった。
守りたいという気持ちとも違う。
ただ、そこに在ってくれることが、ありがたい。
それだけで、満たされる。
そして、その子を産んでくれたロッティが、昨日までよりも、さらに愛おしかった。命懸けで、この子をこの世に連れてきてくれた人。
その人を、私は一生をかけて大切にする。
改めて、そう思った。
愛しさが、幾重にも重なって、胸の中で膨らんでいく。
――それなのに。
ふいに、冷たい疑問が、胸の底から浮かび上がってきた。
父は、どうして……。
こんなにも苦労して、こんなにも妻の命を削って、生まれてくる子どもを。
父は、なぜ私を、あのように扱えたのだろうか。
幼い頃の私は、父の前で何度も背筋を伸ばした。
一度でいいから、目を向けてほしくて。
一度でいいから、名前を呼んでほしくて。
けれど父の目には、一度も私が映らなかった。
今、腕の中に収まるほどのこの小さな命を見つめていると、分からなくなる。
こんなに小さな存在を、どうして見ないふりができるのか。
血の繋がる我が子をなぜ愛してくれなかったのか。
今更、恨むつもりはない。父は今も、病を得て王宮の奥で療養を続けている。
報せを送ったら、侍従を通じて、短い祝いの言葉が返ってきただけだった。
それでいいと思っていた。思おうとしていた。
けれど「なぜ」という問いだけは、消えてくれなかった。
そして、その問いの先に、もうひとつ、もっと恐ろしい疑問が待っている。
――そんな環境で育って愛を知らないた私が、この子を、きちんと愛し育むことができるのか。
私は親に愛された記憶がない。
抱きしめられた感触も、頭を撫でられた温もりも……知らない。
親というものが、何をするものなのか。
分からない人間が、親になってしまった。
揺りかごの中で、息子が小さく身じろぎしている。
「……」
私は声を出さずに、息子を見つめた。
この子に、私と同じ思いをさせることになったら……
その想像だけで、背中が冷たくなった。
窓の外が、白み始めていた。
♦
ロッティが落ち着いたのは、出産から数日経った後だった。
彼女は、少しずつ顔色を取り戻していった。寝台の上で上体を起こし、息子に乳を含ませながら、窓の外の新緑を眺めている。
私はその傍らの椅子に座って、何をするでもなく、二人を見ていた。
「フリッツ」
「ん」
「何か、ありましたか?」
息子を抱いたまま、彼女は私の方を向いた。
「ずっと、何か言いたそうな顔をしています」
また、見抜かれた――
私は、しばらく黙っていた。
それから、膝の上で手を組み替えた。
「……ロッティ」
「はい」
「聞いてくれるか。うまく、まとまらないのだが」
「はい。最後まで、ちゃんと聞きます」
その言葉が、背中を押した。
私は、ぽつり、ぽつりと話した。
君が無事で、ほっとしたこと。
君が、息子の母になって、少しだけ、寂しく感じてしまったこと。
こんなことを思う自分が、情けないこと。
息子が思っていた以上に、愛おしいこと。
君のことが、前よりもっと愛おしいこと。
そして言葉が途切れ、また続けた。
「父のことを、考えていた」
ロッティは何も言わず、息子を抱いたまま聞いていた。
「母が命がけで産んだ私という存在を、なぜ父は蔑ろにできたのか。今更、恨むつもりはない。ただ、なぜという気持ちが消えない」
声が、わずかに震えていた。
「それから、怖いんだ。親に愛された記憶のない私が、この子をちゃんと育てられるのか。親が、何をするものなのかも、分からない。同じように、この子を傷つけてしまったら、と」
話し終えると、部屋に静寂が落ちた。
息子の小さな寝息だけが、聞こえている。
ロッティは、しばらく何も言わなかった。
それから、静かに私の手を取った。
「フリッツ」
「ああ」
「話してくださって、ありがとうございます」
彼女の声は、穏やかだった。
「過去は、戻ることも、変えることも、できません。お父様が、どうしてフリッツにそうなさったのか、私にも、分かりません。でも分からないままでいいんだと、思います」
私は、黙って頷いた。
「でも、未来は変えられます」
彼女は、私の目をまっすぐに見た。
「私たち、完璧な親には、なれないと思います。たくさん、間違えると思います。それでいいんです。『この子にとって、良い父と母かどうか』なんて、考えなくていい」
「……」
「私たちに、できること。それを、精一杯してあげましょう。たくさん抱っこして、たくさん名前を呼んで、ちゃんと、この子自身を見てあげましょう」
見てあげましょう。
その一言が、胸の一番奥にすとんと落ちた。
誰も、私を見てくれなかった。
だから私は、この子を見る。この子の目が、どこを向いているのか。
何を楽しんでいて、何を怖がっているのか。毎日、ちゃんと見る。
それなら、私にもできる。
いや、それこそ私にしか、できないことかもしれない。
「私ひとりで、頑張るんじゃありませんよ」
ロッティが、悪戯っぽく笑った。
「二人でですよ。分からなくなったら、一緒に悩みましょう。父にも、母にも、アルブレヒト兄様にも頼りましょう。みんな、この子のことが、大好きですから」
「……ああ」
「ね?」
「そうだな」
ようやく、息を深く吸えた気がした。
胸につかえていたものが、少しずつ、解けていく。
恐れが消えたわけではなかった。
それでも、一緒に立ってくれる人が隣にいる。
「……やってみよう」
私は、はっきりとロッティに告げた。
「できることを精一杯。この子のために、そして君のために」
「はい」
ロッティの目が、潤んだ。
「フリッツ」
「ん」
「抱っこ、してみますか?」
差し出された小さな身体を、私はおずおずと受け取った。
驚くほど、軽かった。
軽いのに、ずしりと、重かった。
それが命の重さだった。
息子は眠ったまま、私の腕の中で、小さく口を動かしている。
何かを、夢に見ているのかもしれない。
その寝顔を見ているうちに、胸の奥に、ゆっくりと温かいものが満ちていった。
♦
カーテンが、柔らかく揺れる。
私の腕の中には眠る息子。隣には微笑むロッティ。
二人の姿が、朝の光の中で、柔らかく滲んでいた。
私はずっと孤独だった。
誰にも見られず、誰にも期待されず、誰にも心を許さずに生きていくのだと思っていた。その私が、今こうして、愛する人と、愛する子に、囲まれている。
私は身を屈めて、腕の中の息子の頬に、そっと唇を寄せた。
柔らかくて、温かくて、乳の匂いがした。
それから顔を上げて、隣のロッティの頬にも口付けた。
「ありがとう、ロッティ」
今度は、きちんと言葉で伝えることができた。
ロッティは、くすぐったそうに笑う。
「どういたしまして、フリッツ」
窓の外で、鳥が鳴いている。
この温もりを、私は一生忘れない。
孤独だった少年は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、愛する人と、愛する子を持った、ひとりの幸せな男だった。
私はその幸せを、ゆっくりと噛み締めた。
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