番外編 妹の忘れ形見
side:コルンフェルト侯爵
初めてフリードリヒ殿下をこの腕に抱いたとき、私は息を呑んだ。
青灰色の瞳だった。早世した妹と、寸分違わぬ瞳をしている。
妹は王の側妃として嫁ぎ、殿下を産んで間もなく亡くなった。
残されたのは、母の面影を宿した幼い王子と、王宮という名の冷たい場所だった。
母はなく、後ろ盾もない。
私が侯爵家の名で支えようにも、亡くなった側妃の実家が前に出れば、いらぬ疑いを招くだけだ。この子を守るには、あまりに慎重にならざるを得なかった。
それが歯がゆく、不憫でならなかった。
陛下の関心は、第一王子に向いていた。当然貴族たちもそれに倣う。第一王子の母方の家門は力が強く、そちらにつかなければ、コルンフェルト侯爵家は社交でも領地の取引でも不利になる。当主として、私はそれを理解していた。
だから表立って、殿下の味方をすることはできなかった。
けれど、見捨てることもできなかった。
「剣の師と、学問の師を手配しなさい。名は伏せ、侯爵家の者とは分からぬように」
家令にそう命じたのは、殿下が六つのときだ。費用は私の私財から出した。後見を名乗らず、贈り物も添えず、ただ「必要なものが届く」ようにした。それが、私にできる精一杯だった。
♦
殿下が六つ、息子のアルブレヒトが七つの年、私は息子を呼んだ。
「アルブレヒト。殿下の遊び相手になって差し上げなさい」
息子は理由を問わず、「はい、父上」とだけ答えて北棟へ向かった。
数日後に息子へ話を聞いたら、しばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「殿下は、遊び方をご存じありませんでした」
私は、息子の頭に手を置いた。それ以上、何も言えなかった。
♦
殿下が八つになった年の、王宮の祝宴を覚えている。
噴水のそばで本を読んでいた殿下は、私に気づくと立ち上がり、小さな背筋を伸ばして礼をした。着ている青い服は、袖が短かった。
「伯父上」
殿下は私をそう呼んだ。人目のないところでだけ、そう呼ぶことを許していた。
「どうしましたか、殿下」
「……なぜか、誰も私を見てくれないのです」
殿下は、泣いたり悲しんだりはしていない。ただ不思議そうに、首を傾げていた。
「私は、何か悪いことをしたのでしょうか。ご挨拶も、勉強も、剣も、できる限りやっているつもりなのですが」
喉の奥が焼けつくようだった。
悪いことなど、何ひとつしていない。
この子はただ、愛されるはずだった人を失い、守られるはずの場所を持てなかっただけだ。
私は膝をつき、殿下の肩に手を置いた。
「あなたは何も悪くない。それだけは、覚えておいてください」
周囲の目があり、大きな声では言えなかった。
それでも、殿下は小さく頷き、あの妹と同じ瞳でまっすぐに私を見て頷いた。
「はい、伯父上」
その場で抱きしめてやれなかったことを、私は今でも悔いている。
殿下が九つになった頃、剣の師と学問の師が、揃って私の前に膝をついた。
「コルンフェルト侯爵。お耳に入れておきたいことがございます」
剣の師が、慎重に言葉を選んだ。
「殿下は、あまりにも優秀でございます。剣は、私が教えられることをほとんど吸収なさいました。学問も、同じことが言えます」
「喜ばしいことではないか」
「喜ばしいことです。しかし、侯爵」
学問の師が、声を落とした。
「殿下には、後ろ盾がほとんどございません。力のない王子が、第一王子殿下を凌ぐ才を見せれば、それは派閥の均衡を乱します。望まぬ者たちの目に留まれば、殿下の命そのものが危うくなるやもしれません」
私は、すぐには答えられなかった。
才能は、守られている者にとっては輝きだ。
だが守りの薄い者にとっては、刃になる。
「……分かった。殿下には、私から伝えよう」
妹の命日、私は墓参を口実に殿下をお連れした。
側妃の兄が、母を亡くした甥の供をする。これを咎める者はいない。墓前であれば、人の耳も遠かった。
「殿下、あなたの力は本物だ。だが、見せる場所と相手を選んでください。」
ただの墓参りだと思って着いてきた殿下が目を丸くする。そして、真剣な表情に変わった。
「殿下。あまり目立ちすぎませぬよう。……殿下をお守りする後ろ盾は、まだ多くはございません。誰かの目に留まりすぎることは、あなたの立場を危うくする可能性があります」
殿下は、少し考えてから静かに答えた。
「分かります、伯父上。目立たぬように、しておきます」
恐らく剣の稽古も学問も、周囲に認められようとずっと頑張ってきたのだろうに、その結果がこれだ。そして、殿下のそつのない言葉。
あまりに物分かりが良すぎて、私は胸が痛んだ。
九つの子どもが、自分の才を隠すことを、こんなにも容易く受け入れてしまう。
守るつもりで、私は、この子に何を強いているのだろうか。
(妹が生きて、後ろ盾がしっかりしていれば、きっとこの才を存分に活かすことができただろうに……)
♦
それから六年が過ぎ、殿下が十五になった春のことだ。
その頃の私は、ひとつの決断を迫られていた。
陰ながらの支援にも限界がある。殿下の周りには、背中を預けられる者が、まだ息子しかいなかった。その息子も、これまでは「遊び相手」という名目で、殿下の傍にいたに過ぎない。
私は、アルブレヒトを書斎に呼んだ。
十六になった息子は、背が伸び物言いも落ち着いていた。
「アルブレヒト。今日から、正式に殿下の側近として仕えなさい」
息子は驚かなかった。ただ、少しの間の後に、こう答えた。
「承知しました。……ですが父上、ひとつお伺いしてもよろしいですか」
「言ってみなさい」
「派閥を考えれば、マクシミリアン王子殿下につく方が、コルンフェルト家のためではありませんか」
当然の疑問だ。息子は愚かではない。
私はすぐには答えなかった。
椅子の背に身を預け、顎をゆっくりと撫でた。
「得にならない方へ賭けるのが、コルンフェルト家の流儀だ」
息子は一瞬目を瞬かせた。
それから、静かに笑った。
「……父上らしい」
「不満か」
「いいえ。むしろ、安心しました」
息子は、私の机の前に立ったまま、まっすぐに私を見た。
「命じられずとも、そのつもりでした。九年もお傍におりましたので」
「……そうか」
「殿下は、剣も学問も、私よりずっとお出来になります。ですが、それを決して人前では見せない。十の時に、本人から聞きました。父上に、目立ちすぎるなと言われたからだと」
その返事に、少し驚いた。
殿下は息子にあの話をしたのか。誰にも心を開かず、人前では何も語らない子が。
「責めているのではありません。父上のお考えも、理解しているつもりです」
息子の声は、静かだった。
「ただ、殿下は自分のためだけでなく、我が侯爵家まで守るために、半歩引いておられた。それを知って、思ったのです。あの人の隣で支えるのは、私の役目だと」
「……」
「何でもおできになるのに、誰にも知られないまま、ご自分を押し殺して終わるのかと思うと、腹の底が熱くなりました。ですから、私が支えますよ。殿下は不器用な方ですからね。誰かが傍でちゃんと見ていなければ」
その言葉に、私は、胸の奥を突かれた気がした。
見ているだけで、何もしなかった私とは違う。
この息子は、隣に立つと自分で決めていた。
「……分かった。アルブレヒト、お前を、殿下の側近とする」
「ありがとうございます、父上」
息子は、深く一礼した。
顔を上げた時、ほんの少しだけ、口の端が緩んでいた。
「殿下の隣は、私が守ります。父上は、もうひとつの方を、お考えください」
「もうひとつ?」
「側近だけでは、足りないのでしょう。顔に出ておりますよ」
息子は、それだけ言い残して、出ていった。
息子が退室したあとも、私は机の前を動かなかった。
息子の言うとおりだ。
側近ひとりでは、足りない。第二王子側につくと示すなら、もう一歩、踏み込まなければならない。殿下と侯爵家を、揺るがぬ形で結びつける何かが要る。
その答えは分かっていた。とうに分かっていた。
分かっていて、ずっと、口にできずにいた。
娘のシャルロッテは、まだ十二になったばかりだ。
第一王子の婚約者には、宰相の娘が内定しており、彼女はまもなく妃教育に入る。
その席に、もう一人、第二王子の婚約者として娘を並べる。
娘の幸せだけを思うなら、分の悪い第二王子に嫁がせるなど得策ではない。
だが、侯爵家が殿下の後ろ盾として立つと正式に表明するのなら、その証として娘を差し出すほかなかった。公爵家当主としての覚悟は、すでに決めていた。
あとは、シャルロッテにどう告げるかだけを悩んでいた。
翌日、私は娘を書斎に呼んだ。
本好きで小柄な、物静かな子だ。人前に出ると俯いて、自分から意見を言うことが少ない。父の前でも、いつも半歩、下がったところに立つ。
「お呼びでしょうか、お父様」
「シャルロッテ。大切な話がある。座りなさい」
娘は膝を揃えて、浅く椅子に腰かけた。
「お前を、フリードリヒ殿下の婚約者にする。侯爵家の当主として、そう決めた」
娘の顔から、すっと血の気が引いた。
「……私が、ですか」
「そうだ」
「殿下は、第二王子で……あの、お後ろ盾が、お薄いと……」
娘は、聡い子だ。屋敷の中で交わされる大人の会話を、黙って、よく聞いている。
その子が、この婚約が何を意味するかを、正しく察していた。
「そうだ。だから、お前に頼むのだ」
私は、ごまかさなかった。
十二の子どもにも、嘘は言いたくなかった。
「殿下は、味方を必要としている。侯爵家が表立って支えるには、お前が殿下の隣に立つのが、最も確かな形だ。……だが、これは、侯爵家の都合でお前に背負わせることだ。お前が望んだことではない」
「お父様は……それで、よいのですか」
娘が、小さな声で静かに尋ねた。
その質問に、私は喉の奥が焼けつくように感じた。
「……よくは、ない」
正直に答えた。
「娘に、このような賭けを負わせて、よいはずがない。だが、私は決めた。当主として、父として、お前に頼む」
娘は、膝の上で、両手をぎゅっと握りしめた。
指先が、白くなっていた。
長い沈黙が続く。
やがて、娘は顔を上げた。
怯えていた。それでも、逃げなかった。
「それと、もうひとつ、約束してほしい」
私は、できるだけ穏やかに続けた。
「お前は、決して前に出すぎてはいけない。殿下の隣では、一歩引いて、控えめにしていなさい。侯爵家の娘が目立てば、殿下の立場を、かえって危うくする」
「……はい」
「辛い役目を、頼む」
娘は、少し俯いてから、小さく頷いた。
「……はい、お父様」
細い、けれど、はっきりした声だった。
「殿下の婚約者になります」
私は、深く頭を下げたかった。けれど、当主としてそれを許されず、ただ、娘の肩に手を置いた。
「すまない」
「謝らないでください、お父様」
娘は、小さく首を振った。
「お父様が、お決めになったことですから。私、頑張ります」
あの日、私は、侯爵家の当主として大きな賭けに出た。
そして父親として、十二の娘に、あまりにも重いものを預けた。
♦
それから、数年が過ぎた。
娘は、与えられた務めを、黙って果たし続けた。
不満を口にすることも、泣き言を言うこともなく、妃教育に通い、殿下の隣では一歩引いて、控えめに微笑んでいた。
その背中を見るたびに、私は胸が痛んだ。あの日、「頑張ります」と言わせてしまったのは、私だ。
そして、ある時から娘が変わった。
目が、輝くようになった。自分から殿下のもとへ積極的に足を運び、侍女たちを巻き込み、意味の分からない言葉を並べて、毎日楽しそうに走り回るようになった。
何が、あの子を変えたのかは、私には分からない。
けれど、殿下の周辺は少しずつ変わっていった。
誰も見ていなかったはずの殿下を、気づけば、多くの者が見るようになっていた。
♦
あれから二年が経った。
今、私の目の前で、フリッツ殿下が書類に署名している。
王太子の肩書きにふさわしい背筋で、迷いなく筆を走らせる姿に、あの庭で本を読んでいた子どもの面影は薄い。
けれど、署名を終えて顔を上げたとき、青灰色の瞳は昔と同じ静けさで私を見た。
「伯父上。何か、私の顔についておりますか」
「いいえ。少し、昔を思い出していただけです」
殿下は少し困ったように微笑んだ。
「私は、伯父上に感謝しているのです」
「……私は、何もしていませんよ」
「いいえ」
殿下は、静かに首を振った。
「あの頃、誰も私のことを見ていないと思っていました。けれど、剣の師も、学問の師も、必要なものがいつも不思議と届いていたことも、大きくなってから気づきました。私は、ずっとあなたに助けられていたのですね」
目の奥が熱くなり、私は窓の外へ視線を逸らした。
「それに」
殿下の声が、少しだけ弾んだ。
「アルブレヒトと、シャルロッテを、私のもとに遣わしてくださったことにも」
「……遣わした、などと言える話ではありません。私が、十二歳の娘に、家の賭けを背負わせたのです」
「それでも、決断してくださったのは伯父上です。……そのおかげで、私は彼女に会えました」
殿下は、まっすぐに私を見た。
「彼女を大切にします。生涯をかけて」
その言葉に、私は素直に頷いた。
殿下が娘を大切にしてくれていることは、日々の様子から痛いほど分かっている。
娘が笑うたび、殿下の目が柔らかくなる。
娘が疲れた顔を見せれば、どんな政務の最中でも手を止める。
親として、これ以上の幸せはない。
……ただ。
「殿下」
「はい」
「その、少々、気になっていることがあるのですが」
「何ですか?」
「先日の夜会で、シャルロッテが他家の令息と二曲続けて踊ったとき、殿下は三度、その令息の名簿を確認させたと聞きました」
殿下は、まったく動じなかった。
「確認しただけです。何もしていませんよ」
「あと、アルブレヒトが彼女の隣に立っていただけで、殿下の機嫌が三日悪かったと」
「兄妹であっても、距離は適切であるべきかと」
「殿下。あれは実の兄ですよ」
「勿論知っています」
殿下は、少しも悪びれずに微笑んだ。
「彼女は、私の孤独を終わらせてくれた人です。私にとっては、世界でただ一人のかけがえのない人だ。ほんの少しも、他の誰かに譲りたくないのです」
その青灰色の瞳には、あの頃の静けさとは違う、燃えるような熱が宿っていた。
私は思わず一歩、後ろに下がる。
昔、噴水のそばで首を傾げていた小さな子どもは、こんなふうに、重たい愛を向ける男に育ったのか。
「……ほどほどになさってください。あの子は、息が詰まらぬ質ではあるが」
「善処します」
殿下は、涼しい顔で答えた。
善処する気がないことは、はっきりと分かった。
窓の外では、庭で娘が侍女たちと何やら騒いでいる。
手に持っているのは、おそらく殿下の姿を刺繍した何かだ。
二年経っても、娘の「推し活」は終わっていない。
互いに互いを、全力で想っている。
重さの方向は違えど、あのふたりは、どこまでも釣り合っているのかもしれない。
「彼女は、相変わらずですね」
殿下が、窓の外を見ながら言った。
その声が、驚くほど柔らかい。
「不出来な娘で、申し訳ない」
「いいえ」
殿下は、娘を見つめたまま、静かに続けた。
「伯父上が守ってくださった私を、彼女が引き上げてくれました。私は、ふたりの手で、ここまで来られたのです」
私は何も言えず、深く頭を下げた。
娘が殿下に気づいて、庭から大きく手を振っている。
殿下は、先ほどまでの重たい熱を嘘のようにほどき、少年のような顔で手を振り返す。
ふたりの笑顔を見つめながら、私は心の中で妹に語りかけた。
妹よ。
お前の忘れ形見は、ちゃんと立派になったぞ。
守ってやれなかったことを、ずっと悔いていた。
けれど、あの子には、世界でいちばんあの子を想ってくれる人が、できたのだ。
少し愛が重いのが、玉に瑕ではあるが。
どうか、安心してくれ。
お前の息子は、今、幸せに笑っている。
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