↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
前世で磨いた推し活×事務スキルで、孤独な冷遇殿下を王太子に押し上げたら、重すぎる溺愛と執着で囲い込まれました  作者: 秋乃銀杏


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
65/68

番外編 かつての王子様は、隣の花に気づく

side:マクシミリアン


 王太子フリードリヒ、二十三歳の誕生日を祝う夜会。

王宮の大広間は、二年前のあの夜と同じように、無数の燭台の光で満ちていた。


 (二年前までは、この大広間で祝われるのは、毎年、僕だった。)

 (……変われば変わるものだな)


 壁際のグラスを片手に、僕は広間の中央を眺めていた。


 そこには、人の輪ができていた。

宰相府の役人、商人組合の長、鉱山の公爵、地方の領主たち。その真ん中で、深い青の礼装を纏った弟が、穏やかに微笑んでいる。


 そして、その隣には――栗色の髪を柔らかく編み上げ、深いボルドーのドレスに身を包んだ、王太子妃シャルロッテ。


「王太子妃殿下、先日の麦穂線の延伸の件で、ぜひご意見を」

「まあ、ありがとうございます。でしたら、運賃の見直しの計算書を、明日お届けしますわね」


 にこやかに応じる義妹の周りにも、人が絶えない。


(二年前の夜会では、壁際で目立たないように立っていた令嬢だったのにな)


 ふと、義妹の肩から、薄い肩掛けが少しずり落ちた。

その瞬間、話し込んでいたはずのフリードリヒが、会話を途切れさせることもなく、すっと手を伸ばして、肩掛けを掛け直した。

ついでのように、義妹の髪の後れ毛を、指先で耳にかける。


 義妹が、ぱっと頬を染めて、弟を見上げる。

弟は、何でもないような顔をしているが、耳の先がわずかに赤い。


(……相変わらずだな、あいつら)


 思わず、口元が緩んだ。


 その時、若い伯爵家の子息が、義妹にダンスを申し込もうと近づいていくのが見えた。


 ――次の瞬間。


 弟が、ほんのわずかに顔を上げて、その子息を見た。

穏やかな微笑みは、そのまま。けれど、青灰色の瞳だけが、ひやりと冷たく光った。


 子息は、ぴたりと足を止め、慌てて向きを変えて人混みの中へ消えていった。


(……あいつ、あんな目をするのか)


 僕は、グラスの中の葡萄酒を揺らした。


 二十年間、何を考えているのかよくわからない弟だと思っていた。

北棟の奥で、いつも静かに本を読んでいる、影の薄い弟。

僕が何を手に入れても、何を言っても、ただ穏やかに笑っているだけの。


 その弟が、たった一人の女性のことになると、あんな顔をする。


(知らなかった。……いや、知ろうとも、しなかったんだ)


「マクシミリアン様」


 隣から、柔らかな声がした。


 振り返ると、淡いグリーン色のドレスに包まれたマリーが、果実水のグラスを二つ持って立っていた。


「喉、渇いていませんか? あちらで、美味しいワインをもらってきたんです」

「……ああ。ありがとう、マリー」


 受け取ったグラスは、ひんやりと冷たかった。

マリーは、僕の隣に並んで、同じように広間の中央を眺めた。


「フリードリヒ殿下とシャルロッテ様、今日も素敵ですね」

「ああ。……あいつら、二年経っても、少しも変わらないな」

「ふふ。シャルロッテ様、さっき殿下に後れ毛を直されて、真っ赤になってました」


 マリーは、くすくすと楽しそうに笑った。

その横顔を見ながら、僕は二年前のことを思い出していた。


♦


 僕は生まれた時から、未来の王だった。

アドラークローン王国の第一王子。王妃の唯一の子。

宰相を叔父に持ち、その娘が婚約者だ。後ろ盾も盤石で誰もが疑わない王太子候補。


「マクシミリアン殿下、本日の乗馬も見事でございました」

「殿下のお言葉で、場が華やぎますな」

「さすがは、未来の王太子殿下」


 物心ついた時から、僕の周りにはいつも人がいた。

自分が笑えば、皆が笑った。何か言えば、皆が感心した。

剣の稽古で少し上手く打てば、拍手が起きた。


 だから、僕は思っていた。

 ――僕は、皆に好かれているのだと。


 それが、僕という人間に向けられたものなのか、「第一王子」という肩書きに向けられたものなのか。そんなこと、考えたこともなかった。


 ヴィクトリアと婚約したのは、僕が十三の時だった。


 艶やかな黒髪に、紫がかった美しい瞳。

背筋をまっすぐに伸ばした、隙のない少女。


「マクシミリアン殿下。本日から、よろしくお願いいたします」


 完璧なお辞儀で完璧な言葉遣い、完璧な微笑み。

 ――そして、口うるさかった。


「殿下、本日の晩餐会には、東部の伯爵閣下がお見えになります。昨年、領地で水害があった方ですので、お見舞いの一言を」

「殿下、そのお言葉は、改革派の方々の前では控えられた方が」

「殿下、外国の使節の方のお名前は、こちらです。お国の言葉でのご挨拶も、一言だけ覚えていただければ」


 いつも、いつも、何か一言。


(うるさいな。そんなこと、わかっているよ)


 本当は、わかっていなかった。

わかっていなかったから、彼女が言ってくれていたのだ。

それなのに僕は、彼女の言葉を、ただの小言だと思っていた。


 彼女といると、息が詰まった。

何をしても「完璧」を求められている気がした。

僕は、そんなに出来の良い王子ではない。

それを、完璧な彼女の隣にいると、思い知らされるような気がした。


 ――だから、マリーに出会った時、僕は救われたと思った。


「マクシミリアン様って、すごいんですね!」


 男爵家の、小さな令嬢。作法も知らない、系譜も覚えていない、僕が何を言っても目を輝かせて聞いてくれる女の子。


「そのお話、もっと聞かせてください!」


 マリーの前では、僕は「完璧な王子」でいなくてよかった。

ただ笑って、ただ話して、ただ一緒にいるだけで、マリーは嬉しそうにしてくれた。


 僕は、彼女に惹かれた。


 ――婚約者がいる身でありながら。


(あの時、僕は何をしていたんだろう)


 ヴィクトリアに不満があるなら、彼女と向き合えばよかった。

父上に、叔父上に、正直に話せばよかった。婚約を解くにしても、もっと誠実なやり方があったはずだ。


 それなのに僕は、こそこそとマリーに会い、手紙を交わし、やがて――自分の成人を祝う夜会で、何百人もの貴族の前で、ヴィクトリアに婚約破棄を告げた。


「ヴィクトリア。君のように冷たい女性を、僕は妃に迎えることはできない」


 あの夜、ヴィクトリアは、真っ青な顔をしていた。


 それでも、背筋はまっすぐに伸ばしたまま、扇子をぱちんと閉じて言ったのだ。


「ですが今宵は、殿下の成人をお祝いする大切な席でございます。これ以上、皆様をお騒がせするわけにはまいりません」


 ――僕の、面子を守るために。

 あの時の僕は、それすら気づいていなかった。


 ♦


  気づいたのは、ずっと後になってからだ。

 あの夜会の後、僕は、自分の周りが少しずつ変わっていくのを感じていた。


 まず、人が自分の元に来なくなった。

筆頭が宰相のラインハルト・オイレンブルク。

母上の弟で、幼い頃は僕を膝に乗せて、菓子を分けてくれた人だ。

僕を王太子にと、誰よりも推してくれていた人。


 その叔父上が、あの夜会を境に僕のもとを訪れなくなった。

廊下ですれ違っても、丁寧に一礼するだけで、立ち止まって言葉を交わすことはなくなった。


『マクシミリアン殿下』


 以前は「マクシミリアン」と、名前だけで呼んでくれていたのに。


(叔父上の大切な娘を、あんなふうに傷つけたんだ。当然だ)


 頭ではわかっていた。

それでも、叔父上が宰相府で、弟と夜遅くまで話し込んでいるという噂を聞いた時、胸の奥が、ずきりと痛んだ。


 次に祭りで変わった。市政対決で、僕は王都で大きな祭りを開いた。

屋台を並べ、楽団を呼び、最後の夜には花火を上げた。

民は喜んでくれて、皆が「マクシミリアン殿下、万歳」と叫んだ。


 その資金が、アイゼンベルク公爵が隣国へ剣を売った儲けだったと知ったのは、すべてが終わってからだった。


『僕は、何も知らなかったんだ』


 宰相府で叔父上から報告書を見せられた時、僕はそう呟くことしかできなかった。


 叔父上は、片眼鏡を押し上げて、静かに言った。


『殿下は、民を喜ばせたいと願われた。それは、良いことです。……ですが、王は、その喜びがどこから来るのかまで、見なければなりません』


 その言葉が、どれほど重かったか。


 そして、結果発表の日。僕は負けた。


 議場の中央で、弟の肩を叩いて「おめでとう」と言った。

本心だった。弟はずっと先を見ていたんだ。村の井戸を、町の帳簿を、山の領地の民を。僕が見ていなかった全部を。


 けれどその日から、僕の周りから、人が消えていった。

 あれほど僕を囲んでいた貴族たちが、気づけば、弟の周りに集まっていた。


「王太子殿下、ぜひ一度、我が領地へ」

「王太子殿下のお考えは、実に素晴らしい」


 僕にかけていたのと、同じ言葉で。

祭りの頃に、いつも僕の隣にいたアイゼンベルク公爵の令嬢は、今では僕の前を素通りしていく。


(――ああ、そうか)


 その時、ようやく理解したのだ。

彼らが僕を引き立ててくれていたのは、僕自身ではなかった。

「第一王子」で、「未来の王太子」である「僕」だったのだ。


 僕が笑えば皆が笑ったのは、僕が面白かったからではない。

僕が何か言えば皆が感心したのは、僕の言葉が優れていたからではない。


 ――その肩書きに皆、頭を下げていただけだった。


♦


 そして、ヴィクトリア。


 彼女のことを本当に理解したのは、彼女がこの国を去ってからだった。

 昨年の春、ヴィクトリアは、隣国ヴァルデンの王太子のもとへ嫁いでいった。


 見送りには行かなかった。行けるはずもない。

あの夜会の後、一度だけ、彼女に頭を下げて謝った。

彼女は「もう、とうに」と微笑んで、「マリー様を大切に」と言った。


 ――それが、彼女と交わした、最後の言葉だった。


 彼女が去った後、僕はある日、自分の書斎の古い引き出しを整理していた。

 出てきたのは、何枚もの、小さな紙片だった。


 晩餐会の前に、ヴィクトリアがそっと僕に手渡してくれていたもの。


『東部の伯爵閣下:昨年水害。お見舞いを。ご長男が先月ご結婚』

『ヴァルデンの使節:お国の言葉で「ようこそ」は――』

『改革派の侯爵閣下:鉱山の事故でご家族を。ご領地の話題は避けて』


 細かく、丁寧な文字。

一枚一枚に、その日の客人の名前と、触れるべきこと、避けるべきことが、簡潔に書き記されていた。


(……これを、彼女は、毎回)


 僕はあの頃、これを受け取るたびに、内心で溜息をついていた。

 また小言かと。


 けれど、今こうして読み返すとわかる。

 これは決して小言などではなかった。


 僕が、どの席でも恥をかかないように。

僕が、相手の心に寄り添う言葉をかけられるように。

誰にも気づかれずに、僕を支えるための――彼女が、夜遅くまでかけて調べ上げた、僕のためだけの覚え書きだった。


 ある晩餐会で、僕が外国の使節の名前を間違えた時、すかさず彼女が自然な言い換えで取り繕ってくれたことがあった。僕はあの時、彼女が出しゃばったと思って、不機嫌になっていた。


(彼女は、僕をずっと見ていてくれたんだ)


 完璧で口うるさい婚約者。そう思っていた。

 本当は誰よりも僕を見て、誰よりも僕を支えてくれていた人だった。


 僕が「完璧な王子」でいられたのは、僕が完璧だったからではない。

彼女が、僕の足りないところを、黙って埋めてくれていたからだ。


(……もう、遅いな)


 隣国ヴァルデンでは新しい王太子妃が、とても聡明だと評判なのだという。

国境まで延びる鉄道の交渉を取りまとめ、ヴァルデンの民にも慕われていると。


 先日、義妹のもとに届いた手紙を、少しだけ見せてもらった。


『ヴァルデンの冬は寒いけれど、レオンハルト様が、毎朝暖炉の火を確かめてくださるの。――ああ、それから、シャルロッテ。膝は、浅くなっていないでしょうね?』


 端正な文字の向こうに、彼女が、扇子の陰で笑っている顔が見えた気がした。

 僕の隣では、一度も見せてくれなかった顔だった。


(……いや、違う。見せてくれていたのかもしれない。僕が、見ようとしなかっただけで)


 紙片の束を、そっと引き出しに戻す。

 捨てることは、できなかった。


 ♦


 マリーとの婚礼の日取りが決まった日、僕は宰相府を訪ねた。


 叔父上に、自分の口で報告したかった。


「――ゾンネンハイム公爵位を、賜ることになりました」


 執務机の向こうで、叔父上は片眼鏡の奥の灰色の瞳で、じっと僕を見た。


「存じております。陛下より伺いました」


 丁寧な言葉で丁寧な一礼だ。

 宰相が、王族に向ける礼儀。


(……もう、「マクシミリアン」とは、呼んでくれないんだな)


「叔父上。……ずっと、謝りたかったのです。ヴィクトリアのことを」


 叔父上の指が、机の上でぴたりと止まった。


「僕は、叔父上が大切に育てた娘を、皆の前で辱めました。叔父上が、僕を王にと推してくださっていたのに、その全てを、僕自身が壊した。――申し訳、ありませんでした」


 深く、頭を下げる。

 長い沈黙があった。窓の外で、冬の風が鳴っていた。


「……顔を上げなさい」


 叔父上の声は、静かだった。


「私があなたを推したのは、姉の子だったからです。そして、あなたが王になるはずの方だったからです。――あなたという人を、きちんと見ていたかと問われれば、私にも、答えられません」


(叔父上……)


「ヴィクトリアは、ヴァルデンで幸せにやっております。あの子は、もうあなたを恨んではいない。……ですから、私が恨む理由も、もうないのです」


 叔父上は片眼鏡を外して、目頭を指で押さえた。

宰相ではなく、ただの疲れた中年の男の顔だった。


「ただ――あなたと私が、昔のように戻ることは、ないでしょう。それは、互いに、わかっておくべきことです」

「……はい」

「ゾンネンハイムは、良い土地です。湖の水が美しい。……どうか、領民を見てやってください。祭りの賑わいではなく、毎日の暮らしを」


 そう言って、叔父上は、机を一度だけ、とん、と叩いた。

 話は、それで終わりだった。


 宰相府を出た回廊で、僕はしばらく立ち止まっていた。


(失ったものは、戻らない)

(叔父上の膝の上で菓子を分けてもらっていた、あの頃には、もう二度と)


 ――それでも、最後に叔父上がくれた言葉は、宰相としてではなく、叔父としての言葉だった気がした。


♦


「――兄上」


 夜会の喧騒の中、弟の声に僕は顔を上げた。

 フリードリヒが、シャルロッテの手を取ったまま、僕のところへ歩いてきていた。


「少し、抜けてきました」

「主役が抜けてどうする」

「アルブレヒトが、うまくやってくれています」


 弟は穏やかに笑った。

 二年前には、見たことのなかった顔だ。


「兄上。来月の婚礼の準備は、順調ですか?」

「ああ。……おかげさまでな」


 来月、僕はマリーと結婚する。


 そして婚礼と同時に、僕は王族の籍を離れ、新たに公爵位を賜ることになっている。南の湖畔の、ゾンネンハイム公爵領。小さいが、美しい土地だ。


 父上からその話を聞かされた時、正直に言えば、胸の奥が軋んだ。


 王の子として生まれ、未来の王として育てられた。

 その全てを――手放すのだ。


 けれど同時に、どこかでほっとしている自分もいた。


 ――もう誰かの期待に応えるために、背伸びをしなくていい。


「公爵領で、何か困ったことがあれば、いつでも言ってください」

「……お前に言われると、何も言い返せないな」


 弟の隣で、シャルロッテがくすりと笑った。


「マクシミリアン殿下。計算書でしたら、いつでもお作りいたしますわ」

「王太子妃殿下に計算書を作らせたら、宰相府に怒られる」

「宰相閣下も、最近は私に帳簿を回してこられますもの」


 義妹が、少しだけ得意げに言った。

その横で弟が、どこか誇らしげな、そして独占欲の滲む目で、妻を見つめている。


(……本当に、相変わらずだな)


 僕は義妹に向き直った。


「シャルロッテ。――ありがとう」

「え?」

「こいつを、見つけてくれて。……僕が見ようとしなかった弟を」


 義妹は、少しだけ目を見開いて、それから、ふわりと微笑んだ。


「いいえ。――マクシミリアン殿下も、ちゃんと、変わろうとしていらっしゃいますわ」


(……変わろうと、しているか)


 弟夫婦が、また人の輪の中へ戻っていく。

弟は人混みの中でも、決して妻の手を離さなかった。


♦


 夜会が果てた後、僕はマリーと王宮の庭に出た。


 十一月の夜風は冷たい。

マリーが小さく身を震わせたので、僕は自分の上着の肩掛けを外して、彼女の肩にかけた。


「あ……ありがとうございます、マクシミリアン様」


(……弟の真似だな、これは)


 苦笑すると、マリーが指を口元に当てて、小首を傾げた。


「どうかなさいましたか?」

「いや。……なんでもない」


 しばらく二人で黙って歩いた。

冬枯れの薔薇の生垣。噴水のかすかな水音。


「マリー」

「はい」

「……後悔、していないか」


 マリーが足を止めて、僕を見上げている。


「僕と一緒になって。君は王太子妃になれなかった。それどころか、来月からは公爵夫人だ。王都からも遠い小さな領地の」


 マリーは黙って僕を見上げた。

サファイアのような瞳が、夜の中で揺れている。


「それに……君には、ずいぶん辛い思いをさせた。婚約者のいる僕と親しくしたせいで、社交界でずいぶん心ないことを言われただろう。『婚約者を奪った男爵家の娘』だとか」


 あの頃、僕はマリーを守っているつもりでいた。


 けれど、本当は違った。

僕の不誠実さが、ヴィクトリアを傷つけ、マリーにまで、その泥をかぶせたのだ。


 妃教育で泣いていたマリー。

系譜を覚えられずに、回廊でうずくまっていた。

夜会で称号を間違えて、笑われていたマリー。


 ――その全部僕は、「僕が何とかする」と言うだけで、本当には何もしてやれなかった。


「僕は、君に何もしてやれなかった。……すまない」


 マリーは、しばらく何も言わなかった。

 それから、ふいに両手で僕の手を握った。


「マクシミリアン様。私、最近、系譜を全部覚えたんです」

「……え?」

「シャルロッテ様に教わった、紋章をお話にして覚える方法で。王国中の家も、ヴァルデンの主な家も全部です。それにダンスも、他の方と組んでも、もう足を踏まなくなりました」


 マリーは、少しだけ得意げに胸を張った。


「公爵夫人になるんですもの。マクシミリアン様に、恥をかかせるわけにはいきませんから」


(……マリー)


「それにね、マクシミリアン様」


 握った手に、ぎゅっと力がこもる。


「私、王太子妃になりたかったわけじゃないんです」


 マリーは、まっすぐに僕を見た。


「マクシミリアン様の隣に、いたかったんです。――第一王子だからじゃなくて、未来の王様だからでもなくて。マクシミリアン様が、マクシミリアン様だから」


 ――その言葉が、胸の一番深いところに、落ちていった。


「お祭りで、小さな子が飴を持って走り回ってるのを見て、『マリー、見てごらん、みんな楽しそうだ』って笑ってたマクシミリアン様が、私は大好きなんです。負けた日に、フリードリヒ殿下に『おめでとう』って言えたマクシミリアン様も。ヴィクトリア様に、ちゃんと頭を下げに行ったマクシミリアン様も」


 マリーの瞳に、涙が滲んでいた。

 けれどその顔は、笑っていた。


「だから、何もしてもらえなかったなんて、思ってません。私は、ずっと、マクシミリアン様の隣にいられて、幸せですよ」


(……ああ)


 僕は、ようやく気づいた。


 肩書きに頭を下げていた者たちは、皆去っていった。

叔父上も、僕の行いにより見放した。

僕を誰よりも支えてくれていたヴィクトリアは、遠い国へ行ってしまった。


 失ったものは、数えきれない。


 けれど――。


 王太子になれなくても、王子でなくなっても、何も持たなくなっても。

最初から最後まで、ずっと変わらずに僕を見て、僕を認めて、僕を愛してくれていた人がここにいる。


 今、僕の手を握っている、この小さな手の持ち主が。


「……マリー」


 声が、少しだけ震えた。


「僕はずっと、誰かに引き立ててもらうばかりだった。誰かに支えてもらって、それを当たり前だと思っていた。……ヴィクトリアのことも、叔父上のことも、失ってから気づいた」


 マリーの手を、両手で包み直す。


「君のことだけは、失ってから気づくような真似は、絶対にしない」


 マリーが、小さく息を呑んだ。


「今度こそ誠実でいる。君を、大切にする。――王子としてじゃなく、ただのマクシミリアンとして」


 僕はマリーの前に、片膝をついた。

二年前、何百人もの前で、ヴィクトリアに婚約破棄を告げた時とは違う。

誰も見ていない、冬枯れの庭で。


「マリー。来月の婚礼で、改めて誓わせてほしい。……一生、君の隣にいる」


 マリーは、両手を胸の前できゅっと握りしめて――それから、ぴょこんと、小さく跳ねた。


「……っ、はい! はい、マクシミリアン様!」


(……その跳ね方は、公爵夫人になっても直らなさそうだな)


 思わず笑うと、マリーも、涙を拭いながら笑った。

立ち上がって、彼女を抱き寄せる。小さな身体は、少しだけ冷えていた。


「……寒くないか」

「マクシミリアン様が、こうしていてくださるなら、平気です」


 夜空を見上げる。冬の星が静かに瞬いていた。


 遠くの王宮の窓に、まだ灯りがともっている。

きっと、あの窓の向こうで、弟は今も妻の手を離さずにいるのだろう。


(フリードリヒ。お前は、ずっと先を見ていた。僕は、目の前の笑顔しか見ていなかった)


(でも――)


 腕の中の、温かい重み。


(目の前の笑顔を、一生守ることくらいは、僕にもできるはずだ)


「マリー」

「はい」

「……ありがとう。僕の隣にいてくれて」


 マリーは、何も言わずに、僕の胸に顔を埋めた。


 失ったものは、もう戻らない。


 けれど残ったものは、この腕の中にある。


 ――それで、十分だった。


 ♦


 翌月。王宮の大聖堂で、第一王子マクシミリアンと、フリューゲルシュタイン侯爵家の養女マリーの婚礼が、ささやかに執り行われた。


 婚礼の後、マクシミリアンは王族の籍を離れ、ゾンネンハイム公爵となった。


 参列者の中には、王太子夫妻の姿があった。

王太子は終始、王太子妃の手を握ったまま離さず、王太子妃は、新郎新婦が誓いの口づけを交わした瞬間、なぜか誰よりも泣いていたという。


 そして、遠い隣国ヴァルデンからは、一通の祝いの手紙が届いた。


『ご結婚おめでとうございます。どうか、マリー様を大切に。――元臣下として、心より祝福を贈ります。ヴィクトリア』


 端正な文字の最後に、小さく、こう書き添えられていた。


『追伸 晩餐会の前に、客人の名を確かめる習慣は、続けていらっしゃるかしら』


 新しい公爵は、その手紙を読んで、しばらく笑い、それから少しだけ泣いた。


 そしてその日から、彼は晩餐会の前に、必ず自分の手で客人の名と、その人が抱えている事情を、小さな紙片に書き記すようになった。


 彼の横には、それを嬉しそうに手伝っている新しい公爵夫人が隣にいる。



                      ――了――


お読みいただきありがとうございました。

★評価・リアクションを頂けると、励みになります!

残り3本番外編を投稿予定です。ぜひブックマークをしてお待ちください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。