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前世で磨いた推し活×事務スキルで、孤独な冷遇殿下を王太子に押し上げたら、重すぎる溺愛と執着で囲い込まれました  作者: 秋乃銀杏


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番外編 悪役令嬢は、自分の足で国境を越える

side:ヴィクトリア


 ずっと失敗は、許されなかった。

宰相ラインハルト・オイレンブルクの娘。

第一王子マクシミリアン殿下の婚約者、未来の王妃。


 十二歳でその立場を与えられた日から、私の毎日は「常に完璧であること」のためにあった。


「オイレンブルク嬢、今の答えは結構。ですが、もう少し早く」


 鬼のように厳しいマダム・ブラントの声。

何百という家の紋章と系譜。三か国語。お辞儀の角度、扇子の開き方、晩餐会の席次の決め方、外国の使節をもてなす作法。


 私が一つ間違えれば、殿下が恥をかく。殿下が恥をかけば、父の立場が揺らぐ。父の立場が揺らげば、この国の均衡が揺らぐ。


(だから、私は間違えない)


 そう決めて、六年間を生きてきた。


 ――その六年間の、ほとんどの日に隣にはあの子がいた。

 シャルロッテ・コルンフェルト。第二王子フリードリヒ殿下の婚約者。


 初めて会った時の彼女は、小柄で、物静かで、どこか自信のなさそうな少女だった。


「コルンフェルト嬢、膝が浅うございます。もう一度」


 お辞儀のたびによろけて、ダンスのたびに足をもつれさせて、系譜の暗記ではいつも私より遅れていた。決して、器用な子ではなかった。


 けれど、あの子は、絶対に投げ出さなかった。


 泣きながらでも、十回、二十回と、同じお辞儀を繰り返す。

誰もいなくなった教室で、一人で紋章を書き写している。

ふと気づけば、あの子は、全ての課程を、そつなくこなせるようになっていた。


『重心を、もう少し後ろに。膝ではなく、腰から沈むつもりで』


 一度だけ、見かねてコツを教えたことがある。


『……できましたわ』

『ええ。あなたは筋がいいもの。泣いている暇があったら、あと十回練習なさい』


(我ながら、そっけない言い方だったわね)


 それでも、あの子は、嬉しそうに笑った。


 ――そして、あの子は、いつも一歩引いていた。


 お茶会でも、夜会でも、決して前に出ない。

目立つ色のドレスは着ない。会話の中心には立たずに周りの会話を引き立てている。


 最初は、ただ気が弱いのだと思っていた。


 けれど、すぐにわかった。あの子は、わかっていたのだ。

後ろ盾の薄い第二王子の婚約者が目立てば、要らぬ争いを招く。

保守派の侯爵家の娘が前に出すぎれば、派閥の均衡が崩れる。


 だから、自分で選んで、一歩引いていた。


(賢い子だわ)


 私は、密かにそう思っていた。

いつか私がマクシミリアン殿下の妃になり、あの子がフリードリヒ殿下の妃になった時。王妃と王子妃として、私たちはきっとうまくやっていける。

私が前に立ち、あの子が後ろから支える。

あの子なら私が見落とすものも、きっと見つけて支えてくれる。


 そんな未来を、私は疑いもしなかった。


♦


「ヴィクトリア。君のように冷たい女性を、僕は妃に迎えることはできない」


 ――春の夜会で、その全てが終わった。


 マクシミリアン殿下の成人を祝う大広間。

何百人もの貴族が見つめる中で、殿下は男爵家の娘の肩を抱いて、私に婚約の破棄を告げた。


 その瞬間、頭が真っ白になった。


 けれど、身体は勝手に動いていた。

 六年間、叩き込まれてきた通りに。


 背筋を伸ばし、顎を、心持ち上げる。

 扇子をぱちんと閉じる。


「……マクシミリアン殿下。お気持ちは、承りました。ですが今宵は、殿下の成人をお祝いする大切な席でございます。これ以上、皆様をお騒がせするわけにはまいりません」


 ――ここで取り乱せば、殿下の祝いの席が台無しになる。殿下の面子が、潰れる。

 婚約を破棄された直後だというのに、私が考えていたのは、そんなことだった。


(……本当に、救いようがないわね、私は)


 その夜、屋敷に戻ってから私は、一人で部屋に閉じこもった。


 涙は、出なかった。


 マクシミリアン殿下に、恋をしていたわけではなかった。

政略の為の婚約だと、最初からわかっていた。

殿下が私といると窮屈そうにしているのにも気づいていた。


 だから、失恋の痛みではなかった。

 痛かったのは――六年間の努力が、あまりにも簡単に捨てられたことだった。


 晩餐会の前に客人の名と事情を調べて、小さな紙片に書いて殿下に渡した。

外国の使節との席で、殿下が言葉に詰まれば、さりげなく言い換えて取り繕った。

殿下が恥をかかないように。殿下が、立派な王子に見えるように。


 その全てが「冷たい女性」の一言で、なかったことにされた。


(……私の、せいなのかしら)


 寝台の上で、膝を抱えて考えた。


(私が口うるさかったから。殿下を窮屈にさせたから。だから殿下は、あんな大勢の前で、あんなふうに言わずにはいられなかったのかしら)


 考えれば考えるほど、自分が悪かったような気がしてくる。

 そして、その先のことを考えると、息が苦しくなった。


 婚約を破棄された令嬢に、次の縁談など来るのだろうか。父の立場は、どうなるのだろう。私はこれから、何者として生きていけばいいのだろう。


 六年間「未来の王妃」であることだけが、私の全てだったのに。


♦

 

「――ヴィクトリア」


 三日目の夜に父が、部屋の扉を叩いた。


 入ってきた父は、宰相の顔ではなかった。

いつもの片眼鏡を外した、ただの父親の顔をしていた。


「……お父様、申し訳ございません。私が至らなかったせいで」

「何を言う」


 父は、私の寝台の端に腰を下ろした。

父がこんなふうに私の部屋に座るのは、子どもの頃以来だった。


「お前は、何も間違えていない。あの場で、殿下の面子を守り、騒ぎを収めた。……あれ以上の振る舞いは、誰にもできなかった」

「でも……」

「ヴィクトリア」


 父の手がぎこちなく、私の頭に置かれた。


「しばらく、何もしなくていい。屋敷で、のんびりしていなさい。妃教育も、晩餐会も、もう気にしなくていい。……お前は、六年間、頑張りすぎた」


 その言葉に、張り詰めていた何かがぷつりと切れた。


 気づけば、私は、父の肩に顔を埋めて泣いていた。

三日間、一滴も出なかった涙が、止まらなかった。


 父は何も言わずに、ずっと私の背中を撫でていてくれた。



 その翌日、一通の手紙が届いた。

 コルンフェルト家の、麦穂と太陽の紋章。差出人はシャルロッテだった。


『昨夜のヴィクトリア様のお振る舞いは、とても立派でございました』


 便箋にはあの子らしい、少し丸みのある丁寧な文字が並んでいた。


『十二歳の春、お辞儀のコツを教えてくださった日のことを、今も覚えております。ヴィクトリア様がどれほど努力を重ねてこられたか、私は存じております』


『ヴィクトリア様の六年間は、決して無駄にはなりません。昨夜、あの大勢の前で、マクシミリアン殿下を立てて、あの場を収められたこと。あれを見ていた方々は、きっと皆、ヴィクトリア様こそが本当の淑女だと思ったはずです。ヴィクトリア様の株は、むしろ上がったと、私は思います』


(……株、ですって)


 思わず、小さく笑ってしまった。


 どこで覚えた言葉なのかしら。

 侯爵令嬢の手紙に、そんな言い回しが出てくるなんて。


 けれど、読み返すたびに、胸の奥が温かくなった。


(見ていてくれた人が、いた)


 殿下は見てくれていなかった、私の六年間を。

 でもあの子は、ずっと隣で見ていてくれたのだ。


 私は、ペンを取った。


『殿下をお責めするつもりはございません。父のためにも、この国のためにも、私は私の務めを果たすだけです。ですが、あなたが覚えていてくださったことは、少しだけ嬉しゅうございました』


 そして、最後に、少しだけ迷ってから、書き添えた。


『相変わらず、膝が浅くなってはいなくて?』


♦


 それからしばらく、私は本当に何もしなかった。

 朝はゆっくり起きて、庭を散歩して、母とお茶を飲んだ。


「ヴィクトリア、このお菓子、新しい料理人が作ったのよ。食べてごらんなさい」


 母は、穏やかな人だ。

婚約破棄のことには一言も触れない。

ただ、毎日のように私の好きなお菓子を用意してくれた。


「姉上! 今日は剣の稽古、見てくださいますか!」


 十二歳の弟のルーカスは、私が家にいるのが嬉しくてたまらないらしく、毎日のようにまとわりついてきた。妃教育で忙しかった頃は、ろくに相手をしてやれなかったのに。


(……こんなふうに、何もしない日を過ごすのは、いつ以来かしら)


 そして、時々シャルロッテが訪ねてきた。


「ヴィクトリア様、会ってくださって嬉しいわ――あ、いえ、お招きいただき、ありがとうございます」


 あの子は、変わっていた。


 以前の一歩引いた、控えめな少女ではなかった。

目が、きらきらと輝いている。北棟の第二王子殿下の執務室に通っているのだと、少し照れくさそうに話してくれた。


(あの子が、自分から前に出ている……)


 それから季節が巡り、あの子は殿下の装いを整え、音楽会を開き、銀のバイオリンのブローチを社交界に広めた。私も、扇子に青灰色のリボンを結んで、それを手伝った。


 あの子が、楽しそうに誰かのために走り回る姿を見ているのは、なぜか、私まで楽しかった。


 ――そして、ある秋の夜。


「ヴィクトリア。少し話がある」


 父の書斎に呼ばれると、そこにはシャルロッテも座っていた。

 机の上には一枚の地図と、びっしりと数字が並んだ計算書。


「鉄道ですって?」


 父とシャルロッテが話してくれたのは、途方もない計画だった。

鉱山の公爵領と王都、そしてコルンフェルト領を、鉄の軌道で結ぶ。

剣になっていた鉄を、鉄道に変える。麦を安く山へ運び、人を毎日王都へ運ぶ為に。


 そしていずれは――国境まで延ばして、隣国とも、剣ではなく品物で取引をする。


「……隣国との取引」


 私は地図の上の、国境の線を見つめた。


「ヴァルデンは今、別の国と国境で戦をしているわね。アイゼンベルク家が剣を売っていた相手でしょう。剣を止めれば、必ず抗議が来るわ」

「はい。だから、どう説得すればいいのか、殿下と悩んでいて……」


 シャルロッテが、困ったように眉を下げる。


(……ああ、そうか)


 その時、私は気づいた。


 六年間、私が叩き込まれてきたもの。

三か国語に外国の使節をもてなす作法、他国の情勢とその国の要人の名前。

そして彼らが何を望んでいるか。


 ――未来の王妃として、身につけてきた全てが、今、ここで、使える。


「お父様。シャルロッテ」


 私は、背筋を伸ばした。


「私に、手伝わせていただけないかしら。ヴァルデンの言葉なら話せるわ。あの国の宮廷の作法も、主だった家の名も、頭に入っている。……外交なら、私は役に立てるはずよ」


 父が片眼鏡の奥で、少しだけ目を見開いた。

 シャルロッテは、ぱっと顔を輝かせて、私の手を両手で握った。


「ヴィクトリア様……! ぜひ、お願いします!」


(……私の六年間は、無駄じゃなかった)


 あの子の手紙の言葉が、本当になろうとしていた。


♦


 ヴァルデンの王太子レオンハルト殿下が、自ら王都に乗り込んできたのは、その年の十一月の終わりだった。


 黒髪を撫でつけた、顔つきは美しいが鋭い目の青年。国境の戦の気配を、まだ纏っている。


 会談で、私は通訳を務めた。

剣の輸出の再開を求めるレオンハルト殿下と、麦と鉄の道具の取引を説くフリードリヒ殿下。話が行き詰まった時、私は、訳すのをやめて、自分の言葉でヴァルデンの冬の厳しさと、鉄道が結ぶ未来を説いた。


 ――そして、レオンハルト殿下が、最初からこちらの言葉を話せたと知って、少しだけ腹が立った。


(試されていたのね。私たちが、どこまで本気かを)


 会談の後、殿下は回廊で私を呼び止めた。


「ヴィクトリア嬢。あなたのような方が、我が国にいてくれたらと、思わずにはいられない」


 その時の私は、それをただの社交辞令だと思っていた。


(隣国の王太子殿下。年は二十代の半ばだったはず。……それなら、婚約者がいて当然だわ)


 だから、何の期待もしていなかった。

ただ外交の相手として、礼儀正しく、一礼しただけだった。


 ところが翌日。

殿下からヴァルデンの古い詩集が届いた。

庭を案内してほしい、という手紙を添えて。


 断る理由はなかった。外交の相手の頼みだ。


 冬の庭を並んで歩く。殿下は私の婚約破棄のことを知っていた。

恨んでいるのかと聞かれて、恨んでいないと答えた。


「あなたは、誰かに手放されるような人ではない。自分の足で、立っている人だ」


(……どうして、そんなことを言うのかしら)


 扇子を開くのが、一拍遅れた。


 それからも殿下の滞在中に、何度か顔を合わせた。

そのたびに殿下は、私に話しかけてきた。ヴァルデンの宮廷のこと。国境の戦のこと。私の意見を真剣に聞いてくる。


 ――明らかに、外交の相手に向ける以上の熱が、そこにあった。


 帰国の前日、私はとうとう聞いた。


「レオンハルト殿下。失礼を承知で、お伺いしてもよろしいかしら」

「何だ」

「殿下には、婚約者がいらっしゃるのではなくて? あまり他国の令嬢に親しくなさるのは、お国の婚約者の方に失礼ですわ」


 殿下は豆鉄砲を食らったような顔をした。

 それから、ふっと鼻で笑った。


「いない」

「……え?」

「ヴァルデンでは、王妃は、王太子が自分で選んでよいことになっている。父王がそう決めた。だから、俺はまだ誰とも婚約していない」


(……俺)


 公の場では「私」と言っていたのに。


 殿下は私の前で足を止め、まっすぐに私を見下ろした。


「ヴィクトリア嬢。単刀直入に言う。――俺と、結婚してくれ」


 あまりにも、唐突だった。


「……お、お待ちくださいませ。私たちは、まだ、出会って半月も――」

「半月あれば十分だ。会談であなたの外交力を見た。言葉を聞いた。この国の帳簿の数字まで読み込んで、俺の国の冬を説いた。……あなたなら、俺を支えられる」


(……支える)


 その言葉に、胸の奥が小さく波立った。


「俺が妃に求めるのは、若さや美しさではない。能力だ。俺は、いずれヴァルデンの王になる。その隣に立つのは、国母となる女だ。――阿呆は、いらない」

「……ずいぶん、はっきりと仰るのね」

「回りくどいのは嫌いでな」


 殿下は、少しだけ口の端を上げた。


「王妃としての教育を受け、宮廷を采配し、外交を任せられる女。俺がそういう難しいことを妃に望む。その代わりに、俺は一生、その妃を大切にすると決めている。――浮気もしない。他の女に目移りもしない。どんな時も、妃の言葉を最後まで聞く、だから妃は尊敬できる女にすると決めている」


(……妃の言葉を、最後まで聞く)


 かつての婚約者は、私の言葉を小言だと思っていた。


 この人は、最後まで聞くと言う。


「……私は、可愛げのない女ですわよ。口うるさいとも、冷たいとも言われてきました」

「知っている。会談で俺に向かって堂々と説教したからな」


 殿下は、楽しそうに笑った。


「口うるさい妃で結構だ。俺が間違えた時に、黙っている妃の方が困る」


(……この人は)


 私は、扇子をぱちんと閉じた。


 そして、気づいた。


 ――私も、同じことを考えていた。


 王妃に必要なのは、美しさでも、愛らしさでもない。

 国を支える能力と、その覚悟だ。


 そしてその妃を、王が信じて大切にすること。

 それこそが、私が六年間ずっと信じてきた、王と王妃の在り方だった。


「……一つだけ、条件がございます」

「言ってみろ」

「私に難しいことを望まれるなら、殿下も、ご自分の言葉を守ってくださいませ。一生と仰いましたね」

「ああ、一生だ」

「でしたら――」


 私は、背筋を伸ばして、顎を心持ち上げた。


「謹んで、お受けいたします」


 殿下は一瞬だけ目を見開いて、それから、声を立てて笑った。


「――やはり、あなたは面白い」


 十日後オイレンブルク家に、ヴァルデン王家の紋章が押された、正式な縁談の書状が届いた。


 『鉄道を、両国の懸け橋に。そのために、あなたの力を貸してほしい』


(求婚の書状に「力を貸してほしい」。……本当に、回りくどいのが嫌いな方ね)


 父は「お前が決めなさい」と言ってくれた。


 私は、もう答えを決めていた。


 ♦


 翌年の春の終わり。オイレンブルク家の門の前に、ヴァルデン王家の紋章をつけた馬車が止まっていた。


「姉上……っ、本当に行ってしまうのですか……」


 ルーカスが、私のドレスの裾を握って、ぼろぼろと泣いていた。


「泣かないの。オイレンブルク家の跡取りでしょう。剣の稽古、さぼらないようにね」

「……はい……っ」


 母は何も言わずに、一本の扇子を私の手に握らせた。

象牙の骨に、薄紫の絹を張った美しい扇子だ。

母が嫁いできた日に使っていたものだという。


「ヴィクトリア……苛立った時に、この扇子をぱちんと閉じるのは、ほどほどになさい。骨が折れますからね」

「……お母様、ご存じだったのですか」

「娘の癖くらい、知っていますよ」


 母は柔らかく笑った。その目が、少しだけ赤かった。

 父は、片眼鏡を押し上げて短く言った。


「――行ってきなさい」


 それだけだった。けれど、父が机を叩く代わりに、私の肩を一度だけ、とんと叩いたのが、何よりの雄弁な言葉だった。


 見送りの人垣の中に、栗色の髪の王太子妃がいた。


「シャルロッテ、手紙を書くわ。鉄道が国境まで延びたら、今度はあなたが会いに来なさい」

「はい! ……ヴィクトリア様、膝が浅くなりませんように」


(……この子ったら)


 一瞬、目を丸くしてから、私は声を立てて笑ってしまった。


「――生意気になったわね」


 馬車の扉の前で、黒髪の王太子が手を差し出して待っていた。


「行くぞ、ヴィクトリア」

「……ええ、レオン」


 初めてその名を呼んだ。

夫になる人が、少しだけ驚いた顔をして、それから、満足そうに口の端を上げた。


 馬車が動き出すと、窓の外で手を振る家族と、あの子の姿が、少しずつ小さくなっていく。


 私は母の扇子を開いて、そっと振った。


(――行ってきます)


 十二歳の春からずっと、この国の王妃になるために生きてきた。

 今私は、自分で選んだ道を通って、国境を越える。


♦


「――ヴィクトリア。また、俺の書いた書状に赤を入れたな」


 ヴァルデンの王宮の執務室で、夫が羊皮紙を片手に眉を寄せていた。


「赤を入れたのではありませんわ、レオン。直して差し上げたのです。南の辺境伯閣下は、言い回しに煩い方ですもの。あの書き方では、また臍を曲げられますわよ」

「……あいつは、いつも細かいんだ」

「細かい方の扱い方を、私は存じておりますの」


 嫁いでから、一年が過ぎた。


 夫は相変わらず少し偉そうで、相変わらず回りくどいのが嫌いで、そして――約束通り、私の言葉を、最後まで聞いてくれる。


「わかった。君の言う通りに直そう」


 羊皮紙を受け取った夫が、ふいに私の額に軽く口づけた。


「……何ですの、急に」

「口うるさい妃を持って、俺は幸せだと思っただけだ」

「…………」


 扇子を開くのが、また一拍遅れた。


(この人は、本当にずるいわ)


 ヴァルデンの冬は、確かに寒かった。

けれど毎朝、夫が暖炉の火を自分で確かめてくれる。国境の戦は、麦と鉄の道具の取引が始まってから、少しずつ落ち着いてきた。

腹を満たした兵たちは、無駄な小競り合いを好まなくなったのだ。


 そして今年の秋。アドラークローン王国から国境の町まで、鉄道が延びた。


「ヴィクトリア様ー!」


 国境の町の真新しい駅。

馬に引かれてやってきた車の上から、栗色の髪の王太子妃が、ちぎれそうなほど手を振っていた。


「シャルロッテ!」


 車を降りるなり、あの子は私に飛びついてきた。


「お久しぶりです……! お手紙、毎回、楽しみにしていました!」

「私もよ。……あなた、少し、王太子妃らしくなったわね」

「本当ですか!?」

「ええ。――膝は、浅くなっていないみたいだし」


 わざとそう言うと、あの子は泣き笑いの顔になった。

 その後ろで、王太子殿下が、ゆっくりと車を降りてきた。


「ヴィクトリア殿。お久しぶりです」

「フリードリヒ殿下。ようこそ、ヴァルデンへ」


 フリードリヒ殿下は、私に丁寧に一礼すると、すぐにシャルロッテの隣に戻って、当然のように、あの子の腰に手を添えた。


(……相変わらずね、この方も)


 夫が、私の隣で面白そうにそれを眺めていた。


「アドラークローンの王太子は、ずいぶん妃を大切にしているな」

「レオン。あなたも、人のことは言えませんわよ」

「俺は、あそこまで露骨ではない」


 その瞬間、フリードリヒ殿下が、ちらりと夫を見た。

穏やかな微笑み。けれどその目が、一瞬だけ、ひやりと冷たく光った。


(……シャルロッテを見ている男は、隣国の王太子でも許さないのね)


 夫が、わずかに眉を上げて、それからにやりと笑った。


「安心しろ、アドラークローンの王太子殿。俺は、自分の妃しか見ていない」


 そう言って、夫はこれ見よがしに私の肩を抱き寄せた。


「レ、レオン……!」


 シャルロッテが、口元を両手で押さえて、目をきらきらと輝かせていた。


(……この子、今、絶対に頭の中で何か叫んでいるわね)


 四人で、国境の町の小さな館で夕食をとった。


 夫とフリードリヒ殿下は、鉄道の延伸と、ヴァルデンの麦の収穫の話で盛り上がっていた。最初は牽制し合っていたくせに、話してみれば、二人とも数字と民の暮らしの話が好きな、似た者同士だった。


「蒸気の車の研究は、どこまで進んでいる」

「技術者が言うには、あと二年だそうです」

「ほう。ヴァルデンにも、その技術者を貸してもらえないか」

「……妃が許せば」

「なぜ妃の許可が要る」

「研究の取りまとめと計算書を作っているのが、妃なので」


 夫が目を丸くして、シャルロッテを見た。

シャルロッテは照れくさそうに、こくりと頷いた。


 私は扇子の陰で、思わず笑ってしまった。


 食後に露台で、シャルロッテと二人きりになった。

 国境の町の夜空には、星がたくさん瞬いている。


「ヴィクトリア様。……幸せ、ですか?」


(この子は、本当にいつもまっすぐに聞いてくるわね)


 私は、少しだけ考えてから答えた。


「――ええ。とても」


 口にしてみて、自分でも少し驚いた。

 それは、嘘ではない。


「春の夜会で、婚約破棄を告げられた時、全てを失ったと思ったわ。六年間の努力の全部が、無駄になったって」


 夜風が髪を揺らす。


「でも、無駄じゃなかった。あなたが、手紙でそう言ってくれたのよ。――覚えていて?」

「……はい」

「あの手紙がなければ、私は今ここにいなかったかもしれない」


 シャルロッテの目に、みるみる涙が溜まっていく。


「ヴィクトリア様……」

「泣かないの。王太子妃でしょう」

「ヴィクトリア様だって、王太子妃です……!」

「……そうね」


 二人で、顔を見合わせて笑った。


 十二歳の春。お辞儀でよろけて泣いていた、小さな少女。

その隣で完璧であろうと背伸びしていた、もう一人の少女。


 あの頃の私は、二人とも王子の妃になって、王妃と王子妃として、同じ国で支え合っていくのだと思っていた。


 未来は思っていたのとは、全く違う形になった。

 

 同じ国ではなく、隣り合う二つの国で。

 けれど私たちは、確かに王太子妃として、隣に並んでいる。


 ――鉄道という、一本の道で繋がっている。


「ヴィクトリア」


 背後から夫の声がした。


「冷える。中に入れ」


 振り返ると夫が、自分の上着を手に立っていた。

 その隣には同じように、上着を手にしたフリードリヒ殿下。


 二人の王太子はほとんど同時に、それぞれの妃の肩に上着を掛けた。


(……似た者同士ね、本当に)


 シャルロッテと目が合う。

あの子はまた、頭の中で何か叫んでいるような顔をしていた。


 私は夫の上着の温もりの中で、扇子をゆっくりと開いた。

 口元に浮かんだ笑みを、もう隠すつもりはなかった。



                      ――了――


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