第62話 推し活の果てに
(……約束は、午後から)
立太子の儀の翌朝。
一面の銀世界を窓から眺めながら、私はオルゴールのネジを巻いた。
二人で演奏した春の小川のような、二重奏曲が流れ出す。
「そんなことでどうするの、シャルロッテ」とお母様に言われ、兄様にはにやにやされ、お義姉様には「頑張ってね」と囁かれた朝食は、ほとんど喉を通らなかった。
(みんな、何を言われるかわかってるみたいな顔して……)
オルゴールの音を聞きながら、この一年半のことを思い返す。
(あの夜会で前世を思い出した時、私はこの世界をゲームの続きだと思ってた)
(でもヴィクトリア様は、十二歳から誰より努力して、婚約破棄の瞬間でさえ殿下の面子を守った人だったし、宰相閣下は、娘を傷つけられた父親として、国を守る宰相として、ずっと貴族のしがらみと父としての悔しさとの葛藤に、板挟みで苦しんでいた)
(マリー様は、恋が実った後も、妃教育や持参金や養子先っていう、ゲームには描かれない壁にぶつかってた。マクシミリアン殿下は、今まで周りが見えていなかったことを認めて、弟が王太子になったことも、きちんと祝える人だった)
(誰も、誰かを本気で憎んでなんかいなかった。……ゲームの画面には、何ひとつ映ってなかったものばかり)
(この世界には、選択肢を間違えてもリセットできないし、大事な場面の前でセーブデータを取ることもできない。そしてエンディングで終わることない)
(大変だし、悩むことも多いけど、でも――だからこそ、幸せになる為の努力もずっと続けていける)
オルゴールから最後の一音が消える。
私はボルドーのドレスに着替え、ヘーゼルの石の栞を、そっと胸元に忍ばせた。
(行ってきます、前世の私。推しのイベントに行けずに、玄関で力尽きたあの日の私)
(今日は、ちゃんと行くからね。――一番大切な人のところへ)
♦
北棟の奥にある音楽室に入ると、窓辺にフリッツ様が立っていた。
「ロッティ。来てくれて、ありがとう」
「王太子殿下、とお呼びしなければいけませんね」
「二人の時は、今まで通りでいい。……ロッティ、一緒にあの曲を少しだけ弾いてもいいだろうか。」
私がピアノの前に座ると、フリッツ様は飴色のバイオリンを構えた。
目が合うと最初の一音を奏でる。
雪の音楽室に、春の旋律が流れ出す。
練習で重ねた呼吸。音楽会で奏でた音。オルゴールの音色。
すべてが、今ひとつに溶けていく。
最後の和音が消えて、静けさが戻ってきた。
フリッツ様がバイオリンをケースに戻すと、ピアノの前の私の前に、ゆっくりと跪いた。
「――ロッティ」
見上げてくる青灰色の瞳が、窓の光に澄んで輝いていた。
「私たちの婚約は、政略だった。君の父上が後ろ盾のない私のために、君を預けてくださった。……君も不満を一度も言わずに、ずっと隣にいてくれた」
声が、少しだけ震えている。
「一年半前、君は変わった。私を良さを信じて、陽の当たる場所へ連れ出してくれた。気づけば私は、この国の王太子になっていた」
「それは、フリッツ様が――」
「聞いてくれ、ロッティ」
「薔薇の庭で、君に好きだと伝えた。……でも、あれから何度言っても、足りないんだ。何度君に口づけも足りない。私は、君を愛している」
改めて告げられた言葉に、胸がいっぱいになった。
「政略の婚約者としてじゃない。王太子妃にふさわしい令嬢としてでもない。シャルロッテという一人の人を、心から。――君がいない未来なんて、もう考えられない」
フリッツ様の指に、ぎゅっと力がこもる。
「それに正直に言うと、私は君が思っているより、ずっと欲深い男だ。君に声をかける男が増えるたびに苛立つし、君を陽の当たる場所に連れ出したのは私なのに、今度は、誰の目にも触れない場所に隠してしまいたいと思っている」
「こんな重い男で、すまない。……でも、もう君を手放せない。君が離れたいと言っても、きっと一生離してやれない」
上着の内側から、青い天鵞絨の小箱を取り出して、蓋を開く。
ヘーゼルと青灰色の石が、寄り添うように並んだ指輪。
「――ロッティ、私と結婚してください。私のたった一人の妻になって欲しい」
――涙が頬を伝う
(推し活を始めた時。この人の良さを世界中に知ってほしいって、陽の当たる場所に立たせてあげたいって、そう思ってた)
(推しとして、ファンとして、プロデューサーとして)
(でもいつの間にか、推しの笑顔じゃなくて、この人の笑顔が見たくなってた。推しを応援したいんじゃなくて、この人の隣にいたくなってた)
(――推し活の果てに、推しに推されることになるなんて)
涙を拭って、私は口を開いた。
「……離れるつもりなんて、ありません。重くても、いいんです。私だって、フリッツ様のことが――」
一度だけ、息を吸う。
音楽会の夜も、星空の下でも、最後の一文字がどうしても言えなかった名前。
「――大好きです、あなたを愛しています。フリッツ」
様は、つけなかった。
フリッツの目が、大きく見開かれて――くしゃりと崩れた。
今まで見たどの笑顔よりも無防備で、幸せそうな顔。
「……ようやく、聞けた」
震える手が、左手の薬指に指輪を嵌めた。
二つの石が、冬の陽射しにきらきらと輝く。
立たされて、抱き寄せられる。インクと蜜蝋の匂い。
一年半前、外套から漂ってきたのと同じ匂い。
「……もう、どこにも行かせない。君は私のものだ。――そして、私は君のものだ」
「……はい。私は、フリッツのものです」
額と額が触れ合って、二人の唇がそっと重なった。
窓の外では、雪に覆われた王都が、冬の陽射しの中で輝いていた。
――冬が過ぎ、王都に、春が来る。
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