第61話 間話・フリードリヒの独白7
side:フリードリヒ
(……王太子、か)
儀式を終えた夜、私は北棟の執務室にいた。
いずれ南棟へ移るが、今夜だけはこの部屋で一人になりたかった。
机の上の金の冠が、燭台の光を受けて鈍く光っている。
(誰にも見られず、誰にも期待されず、北棟の奥で帳簿をめくっていた私を、ここまで連れてきてくれた人がいる)
上着の内側から、ハンカチを取り出した。
毛羽立ってしまった青灰色の刺繍をなぞると、何故か心が凪いていく。
(去年の誕生日。彼女はこれと一緒に、端の焦げた手作りのケーキをくれた)
(二十年、願っても手に入らないと諦めていたもの。それを、初めてくれたのが彼女だった)
(春、リボンを刺繍していた彼女の、針の痕だらけの指先を見た時。愛おしいと思うのと同じくらい、胸が軋んだ。その針は、私以外の誰かのためにも動くのかと)
(彼女の手が作るものは、全部、私のものであってほしい。刺繍も、菓子も、笑顔も、声も。この先の人生の、一刻残らず)
(……重いな。こんな想いを抱える男は、きっと、まともじゃない)
それでも、手放せない。
(彼女は今、皆の注目の的だ。かつて「地味な令嬢」と笑っていた者たちが、彼女の装いを真似たいと囁き、宰相閣下は宰相府でもと言い、鉄の公爵は良い娘を持ったと笑う)
(誕生日の夜会で、ダンスを申し込もうとした男たちを退けた時、自分でも驚くほど冷たい声が出た)
(――今宵、彼女の手は誰にも渡すつもりはない。……あれは、今宵だけの話じゃない)
(彼女はもう隠れなくていいと私に言った。それなのに今度は私が、彼女を誰の目にも触れない場所に隠してしまいたいと思っている。……皮肉なものだ)
(薔薇の庭で伝えた時は、彼女も好きだと応えてくれた)
(何度も口づけを贈り、彼女もそれに応えてくれている)
(けれど、明日はそれを越えたい。政略の婚約のまま、王太子妃に迎えるのではなく。一人の男として、彼女に生涯を願いたい。彼女自身の意思で、私と生きると誓ってほしい)
引き出しを開けて手帳を取り出す。
誰にも見せたことのない、頁をめくり視線を落とす。
――財務局書記官、ブラウンの弟。
――ロイター伯爵家、次男。ヴァイス子爵家、嫡男。
――夜会で、彼女のドレスを話題にしていた男たち。
――ミュールドルフの、花を渡した青年。
(一年で、こんなに増えた)
名前の一つ一つに、その時の、胸の焼けるような感覚が蘇る。
彼女が誰かに微笑んだ時。誰かが彼女を見つめた時。
(……今日、露台で、彼女の手を民の前に掲げた)
(もう、この国の誰もが知っている。シャルロッテ・コルンフェルトは、王太子フリードリヒの隣にいる人だと)
私は、手帳を持ったまま、暖炉の前に立った。
(名前を書き留めて、いつか何かをしてやろうと思っていたわけじゃない。ただ、覚えておかなければ、不安で仕方がなかった。彼女を、誰かに奪われてしまいそうで)
(でも、もう不要だ)
手帳を、炎の中に落とす。
頁の端から、ちりちりと黒く縮れていく。インクで書いた名前が、一つ、また一つと、炎に呑まれて消えていった。
(もう要らない。――明日からは彼女の隣を、私だけのものにする)
(誰が彼女を見ようと構わない。彼女が帰ってくる場所が、私の腕の中である限りは)
(……その代わり、そこから出ていくことだけは、決して許さない)
炎が、全てを灰にする
私は、灰になった手帳を見下ろして、小さく息を吐いた。
(これは、手放したんじゃない。もっと深いところに、仕舞い直しただけだ)
(彼女には、一生知られなくていい)
引き出しから、青い小箱を取り出した。
中には、指輪がひとつ。
ヘーゼルの石と、青灰色の石が、寄り添うように並んでいる。
――二人の、瞳の色。
(王都の外れには、もう鉄の軌道が延び出している。フォルク殿の工房では、蒸気の腕が、初めて一回りしたという。――この国は、これから大きく変わるだろう)
(その変わっていく国の、どの景色にも。私は、彼女に隣にいてほしい。……いや、隣にいさせたい。誰にも、その場所を譲るつもりはない)
(明日あの音楽室で。)
(彼女は、どんな顔をするだろうか?あの「フリッツ様」の「様」が取れる日は、来るだろうか)
小箱を握りしめて、私は燭台の火を吹き消した。
暗闇の中で、窓の外の雪だけが、静かに白く光っていた。
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