第60話 立太子の儀
「シャルロッテ。その飾りは、もう半寸だけ右よ」
「は、はい、お母様」
初雪が舞う十二月の朝、窓の外を眺める間もなく、私はお母様に髪飾りの位置を三度も直されていた。
今日の衣装は、深いボルドーに銀糸の刺繍。
耳には、青灰色のイヤリング。胸元には、ヘーゼルの石の栞を忍ばせてある。
「……まあ、いいでしょう」
お母様が、扇の先で顎を叩いて、ふんと鼻を鳴らした。
それから、私の肩にそっと手を置く。
「――胸を張っていらっしゃい。あなたは、王太子殿下の婚約者なのだから」
(お母様……)
「ロッティ、準備はいいか」
扉の外から、兄様の声。隣には、にこにこと手を振るお義姉様。
「父上はもう馬車でお待ちだ。……顔が強張ってるぞ。殿下に笑われる」
「わ、笑われません!」
「ふふ。殿下は、きっと見惚れられるわ」
(お義姉様まで……!)
大聖堂の前では、ヴィクトリア様が待っていてくれた。
「ずいぶん緊張しているわね、シャルロッテ」
「ヴィクトリア様……」
「大丈夫よ。あなたは、十二歳の頃からずっと、この日のために妃教育を受けてきたのだもの。そうそう、儀式のときに膝は浅くならないようにね」
二人でクスリと笑う。
「ヴィクトリア様こそ。春には、ヴァルデンの王太子妃殿下ですもの」
「……ええ。だから今日は、あなたの晴れ舞台を、しっかり見届けておくわ」
(最後の一言……! こんな日まで……!)
思わず笑ってしまって、肩の力が、すっと抜けた。
♦
初雪の舞う王宮の大聖堂で、立太子の儀が始まった。
白い毛皮の縁取りのついた王太子の外套。その胸元にも、ヘーゼルの飾緒が揺れている。
(今日も、私の色……)
祭壇の前に跪いたフリッツ様の頭上に、陛下が小さな金の冠を載せた。
「第二王子フリードリヒ・アドラークローンを、アドラークローン王国の王太子と定める。――この国と民を、頼んだぞ」
「――謹んで、お受けいたします」
立ち上がり、振り返った王太子殿下に、大聖堂中の人々が頭を垂れる。
顔を上げると、祭壇の前から、フリッツ様がまっすぐに私を見ていた。
大勢の人の前で、目元が、ふっと緩む。
(おめでとうございます、フリッツ様。……本当に、本当に)
隣で、お母様が何も言わずにハンカチを差し出してくれた。
今日は「はしたない」とは言わなかった。
儀式の後、王太子となったフリッツ様は、王宮の正面の露台から、広場に集まった民の前に姿を見せることになっていた。
「シャルロッテ。君も、一緒に」
露台へ続く扉の前で、フリッツ様が振り返った。
「え……私も、ですか? 婚約者は後ろに控えているものでは?」
「今日は、隣にいてほしい」
差し出された手を取って、露台へ出る。
――次の瞬間、地鳴りのような歓声が、雪の広場から湧き上がった。
「王太子殿下、万歳!」
「フリードリヒ殿下ー!」
広場を埋め尽くす、人、人、人。
商人組合の旗。職人たちの帽子。その中に、籠を抱えたミュールドルフの母娘の姿も見えた。女の子が、こちらに向かって、ちぎれそうなほど手を振っている。
「鉄道の殿下ー!」
誰かが叫んだ。すると、あちこちから、同じ声が上がり始めた。
「鉄道の殿下!」
「井戸の殿下!」
(鉄道の殿下……! 井戸の殿下……! 推しのあだ名が、民から自然発生してる……!)
そして――
「シャルロッテ様ー!」
(……え? 私?)
広場の一角で、若い娘たちが、銀のバイオリンのブローチを掲げて、私の名前を呼んでいた。
「計算の上手な、お姫さまー!」
(け、計算の上手なお姫さま……!? 推し活の裏方のつもりだったのに、まさかの、私まで……!)
顔を真っ赤にしていると、隣のフリッツ様が、ふっと笑った。
「……ほら。君も、こんなに皆に見られている」
その声にほんの少しだけ、苦いものが混じっているのに気づいた。
フリッツ様は、民に向かって手を上げたまま――私と繋いだ手を、皆に見えるように、高く掲げた。
広場の歓声が、ひときわ大きくなる。
「……フリッツ様?」
「これで誰もが理解しだだろう。君が私の隣にいる人だと」
満面の笑みで民に応えながら、フリッツ様は私にだけ聞こえる声で囁いた。
「――もう誰にも、君を渡さない」
(……それは、甘いのか、重いのか、もうわからない……!)
繋いだ手は、露台から下がるまで、一度も離されなかった。
「――コルンフェルトの娘よ」
儀式の後、雪の舞う回廊で呼び止めたのは、侍従に支えられた陛下だった。
「余は長い間、あの子から目を逸らしてきた。あの子の母を愛していたからこそ、あの子を見るたびに、失ったものを思い出した。……決めることが、怖かったのだ」
痩せた手が、そっと私の手に重なる。
「そなたは、余が見ようとしなかったあの子を、陽の当たる場所へ連れ出してくれた。礼を言う。――あの子を、頼む」
「……はい、陛下。必ず」
陛下が去った後、回廊の角でフリッツ様が待っていた。
「明日、あの音楽室に来てくれないか。……きちんと、伝えたいことがある」
そのまま、腕の中に閉じ込められる。
「王太子の婚約者になれば、君はもっと注目されるだろう。……それが少しだけ、怖い。君を誰かに取られるのが」
「取られたりしません。私の方が、フリッツ様を誰にも取られたくないと思ってるのに」
「……それなら、お互い様だな」
短い口づけの後、フリッツ様と二人で笑った。
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