第59話 間話 ――ヴィクトリアの選択
side:ヴィクトリア
『鉄道を、両国の懸け橋に。そのために、あなたの力を貸してほしい』
ヴァルデン王家の紋章が押された書状の、最後の一行を、私はもう何度読み返したかわからない。
(求婚の書状に「力を貸してほしい」だなんて。……あの方らしいわ)
レオンハルト殿下。国境の戦の気配を纏ったまま、私たちの国が本気かどうか試すために、わざと言葉がわからないふりをした人。
――そして、私の言葉を、最後まで聞いてくれた人。
(六年間。マクシミリアン殿下の隣に立つために、系譜を覚え、語学を磨き、作法を叩き込まれてきた)
(それが、あの夜会で、全部無駄になったと思っていた)
扇子を、そっと閉じる。
(でも、無駄じゃなかった。ヴァルデンの言葉も、帳簿の読み方も、人の前で背筋を伸ばす術も。……全部あの会談で、私の支えになり役立ってくれた)
会談の翌日、レオンハルト殿下から一冊の本が届いた。
ヴァルデンの古い詩集だった。頁の間に、ヴァルデンの言葉で短い手紙が挟んであった。
『昨日は試すような真似をして、大変失礼した。あなたの話を、もう一度ゆっくり聞きたい。帰国の前に、庭を案内していただけないだろうか』
(……王太子殿下が、宰相の娘に庭の案内を)
断る理由は、いくらでもあった。
それなのに私は、気づけば了承の返事を書いていた。
♦
冬の庭は寒々としている。
並んで歩きながら、レオンハルト殿下は不意に言った。
「あなたが、この国の第一王子の婚約者だったと聞いた。……あの夜会のことも」
(……やはり、ご存じだったのね)
「それで、あなたは、その王子を恨んでいるのか」
「いいえ」
迷わず答えた。
「殿下は、ご自分の心に正直だっただけですわ。私は、私の務めを果たすだけです」
レオンハルト殿下は、しばらく黙って私を見ていた。
「……あなたを手放した男は、愚かだと思っていた。だが、違うな。あなたは、誰かに手放されるような人ではない。――自分の足で、立っている人だ」
(……)
扇子を開くのが、一拍遅れた。
顔が熱いのを、冬の風のせいにした。
その日の夕方、城を出る前に、私は思いがけない人に呼び止められた。
「ヴィクトリア。……少し、いいか」
マクシミリアン殿下だった。
あの夜会以来、二人きりで言葉を交わすのは、初めてだった。
「……ずっと、言わなければと思っていた」
殿下は、私の前で、深く頭を下げた。
「すまなかった。あの夜、皆の前で、君にひどいことをした。君が六年間、僕のために何をしてきてくれたか、何も見ていなかった」
(……殿下が、頭を)
胸の奥で、ずっと固く結んでいた何かが、ゆっくりとほどけていくのがわかった。
「お顔を上げてくださいませ、殿下」
私は、背筋を伸ばして、微笑んだ。
「もう、とうに過ぎたことですわ。――マリー様を、大切になさってください。あの方は、殿下のために、本当に頑張っていらっしゃいますから」
顔を上げた殿下は、少しだけ泣きそうな顔で、いつもの屈託のない笑みを浮かべた。
「……ありがとう、ヴィクトリア」
(これで、本当に終わったのね――)
♦
「――ヴィクトリア。入ってもいいか」
書斎の扉から、父が顔を覗かせた。
片眼鏡を外した父は、宰相ではなく、ただの父親の顔をしていた。
「書状のことだ。……お前が、決めなさい」
「お父様」
「私は一度、お前の嫁ぎ先を家と国のために決めた。その結果が、あの夜会だ」
父は、少しだけ目を伏せた。
「今度は、お前が選べ。断っても、誰にも文句は言わせん」
(……お父様)
「ヴァルデンは、遠い国です。戦も、まだ終わっていない。……この国を、お父様を、置いていくことになります」
「わかっている」
「それでも――」
私は、書状を胸に当てた。
「それでも、私は、行ってみたいのです。シャルロッテと殿下が敷いた鉄道の、その向こう側へ。……剣ではなく、麦と道で結ばれる二つの国の、掛け橋になりたい」
父は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がり、私の頭に、そっと手を置いた。
子どもの頃以来の、父の手だった。
「……お前は、本当に強くなったな」
その声が、少しだけ震えていた。
翌日、私はコルンフェルト家を訪ねた。
「ヴィクトリア様……! お手紙の件、本当なんですか!?」
客間に飛び込んできたシャルロッテが、目を潤ませていた。
「ええ。春になったら、ヴァルデンへ嫁ぐわ」
「……遠く、なってしまいます」
「鉄道が国境まで延びれば、近くなるわよ。あなたの計算書によれば、ね」
わざとそう言うと、シャルロッテは泣き笑いの顔になった。
「……レオンハルト殿下のこと、お好きなんですか」
(この子は、本当に、まっすぐ聞いてくるわね)
「……まだ、わからないわ。でも」
扇子を開いて、口元を隠す。
「私の言葉を、最後まで聞いてくださった方よ。――それだけで、選ぶには十分でしょう?」
シャルロッテが、ぱっと顔を輝かせた。
「ヴィクトリア様……! それ、絶対恋の始まりです!」
(……どうしてこの子は、こういう時だけ、やたらと自信満々なのかしら)
思わず、声を立てて笑ってしまった。
十二歳の春。お辞儀で泣いていた、小さな少女。
その子が、今では王太子の隣に立ち、国と国を結ぶ道まで描いてみせた。
(あなたが変えたのは、殿下の運命だけじゃないわ、シャルロッテ)
(――私の運命もよ)
窓の外では、十二月の初めの雪が、静かに降り始めていた。
数日後には、立太子の儀。
あの子の晴れ舞台を見届けてから、私は自分の道を歩き出す。
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