第6話 私、推し変します!
園遊会の翌日、フリードリヒ殿下に借りた外套を返しに、シャルロッテは王宮を訪れていた。
(やっと返しに来られた……。二週間も手元に置いちゃったの、さすがに長すぎたよね)
正確に言えば、手紙の返事を待ったり、園遊会の準備があったりで、なかなか機会がなかったのだ。……決して、なんとなく手放しがたかったわけではない。
案内の侍従に導かれて向かったのは、王宮の北棟だった。
華やかな大広間や謁見の間がある南棟とは違い、北棟はひっそりとしている。
廊下の窓は小さく、行き交う人も少ない。王立書庫と、いくつかの事務室があるだけの一角だ。
(第二王子の執務室が、こんな奥にあるなんて……)
侍従が扉を叩くと、中から「どうぞ」と穏やかな声がした。
扉を開けると、壁一面の書棚と、帳簿が何冊も積まれた大きな机。
顔を上げた殿下が、少し驚いた顔をした。
「シャルロッテ。わざわざ来てくれたのか」
「先日は外套をお貸しいただき、ありがとうございました。お返しが遅くなって、申し訳ございません」
「気にしなくてよかったのに。……掛けてくれ。今、お茶を――」
立ち上がった拍子に、机の上の書類が一枚、はらりと床に落ちた。
拾い上げた私は――そのまま、目が釘付けになった。
王家直轄領、ブルンネンタールとミュールドルフを含む、東部三村の収支報告。数字の間に、細い赤インクの書き込み。
――『麦の納入量、前年比で一割減。天候の記録と照合済み。不作による減少で、不正の形跡なし』
――『ミュールドルフの水車修繕費、見積もりと実費に差額あり。業者に確認の要』
――『合計欄、計算誤り。正しくは二百十四』
(……え)
縦の合計。横の合計。前年比。目で追って、息を呑む。
(全部、合ってる。しかも元の役人の計算ミスまで見つけて、根拠の資料と照合して、気になる箇所に印まで……)
(これ、プロの仕事だ……! 前世の会計事務所の新人より、よっぽどちゃんとしてる……!)
「……ああ、それか」
いつの間にか隣に来ていた殿下が、少し気まずそうに紙を受け取った。
「大した仕事じゃない。直轄領の帳簿を確認するだけの地味な役目だよ。誰もやりたがらないから、私に回ってきたんだ」
「地味、ですか……?」
「数字を足したり引いたりするだけだからね。兄上のように、人前で華やかな仕事をするわけでもない」
書類を束ねて、さりげなく帳簿の下に滑り込ませる。見られたくないものを、隠すみたいに。少し背を丸めて、何でもないことのように笑う。
(……いやいやいや! 地味じゃないです! 帳簿がちゃんとしてないと、税も予算も全部ぐちゃぐちゃになるんですよ! 私、それで何回徹夜したと思ってるんですか!)
机の上の帳簿は、ざっと十冊以上。これを、全部一人で。
(夜会では誰より周りを見てた。言葉にしなくても先回りして動いてくれた。そして、誰もやりたがらない仕事を、完璧にこなしてる)
(なのに、隠してる。「大した仕事じゃない」って笑って、帳簿の下に押し込んで)
(――もったいない。もったいない、もったいない、もったいない!)
前世の私が、画面の向こうの推しに、何度も思ったこと。
この人の良さを、もっとたくさんの人に知ってほしい。この人の頑張りが、ちゃんと報われてほしい。
だからグッズを買った。イベントに通ったし、布教した。推しの良さを一人でも多くの人に理解してもらって、推しが輝く場所に立てるように。
(ゲームで立ち絵すらなかった第二王子。「いらしてたの?」と笑われていた人。「私がいなくても、誰も困らないよ」って、当たり前みたいに言った人)
「……シャルロッテ? どうかした?」
紅茶の湯気の向こうで、殿下が首を傾げる。
「いいえ、殿下。素敵なお部屋だと思いまして」
侯爵令嬢として完璧な微笑みを浮かべながら、心の中で、私は高らかに宣言していた。
(決めた。私、この人を推す! ――推し変、します!)
(前世で磨いた推し活の技術を、全部つぎ込んで。待っててください、殿下。あなたの良さ、私が世界中に布教してみせますから!)
殿下は何も知らずに、穏やかな顔で紅茶を口に運んでいた。
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