第55話 フリッツの誕生日
無数の燭台が灯る王宮の大広間を、控えの間の扉の隙間から覗きながら、私は思い出していた。
(あの日、ここで祝われていたのは、マクシミリアン殿下だった)
(私は苔色のドレスで壁際に立って、誰にも見向きもされない婚約者の隣で、目立たず、息を潜めていた)
今夜、ここで祝われるのは――フリッツ様だ。
姿見の中の私は、青みがかった灰色のドレスを纏っていた。
(フリッツ様の、瞳の色……だね)
(扇子の房やイヤリングにこっそり忍ばせてた色を、今夜は主役の色として)
(推し色の最終形態――ううん、婚約者の色を誇らしく纏う。この世界では、そういう意味)
「――ロッティ」
扉が開いて、深い青の礼装のフリッツ様が入ってきた。
胸元の飾緒と、上着の裏地は――ヘーゼルの色。
「フリッツ様、それ……」
「君が私の色を纏うと聞いたから。私も、君の色を。……二人で並べば、ちょうど対になるだろう?」
(好きな人とリンクコーデ……!)
フリッツ様が、私を上から下まで、ゆっくりと見つめた。
青灰色の瞳が、ふっと熱を帯びる。
「……綺麗だ。今夜の君を、誰にも見せたくないくらいに」
(――え?)
「王太子となられるフリードリヒ殿下、ならびにご婚約者、コルンフェルト侯爵家シャルロッテ嬢、ご入場でございます」
大扉が開いた瞬間、大広間を埋め尽くした人々が、一斉に振り返った。
「なんてお似合いの……」
「お互いの瞳の色を、あのように……」
「シャルロッテ様、なんてお美しいの……」
(あの夜の私に教えてあげたい。あなたの隣のその人は、いつか、こんなふうに皆に祝福される日が来るんだよって)
「フリードリヒ。成人、おめでとう」
「ありがとうございます、父上」
陛下は何かを言いかけて口を閉じ、深く息を吐いた。
「……よく、ここまで来た」
陛下の隣で、王妃陛下が、扇子を半分だけ開いたまま、私に視線を向けた。
「シャルロッテ」
「はい、王妃陛下」
「フリードリヒの誕生日を、二十年祝ってこなかったのは、わたくしです」
静かな声だった。指先が、そっと指輪を撫でている。
「……今年からは、あなたが祝ってあげてちょうだい。わたくしたちの分まで」
(王妃陛下……)
「――はい。必ず」
深くお辞儀をすると、王妃陛下は、ほんのかすかに微笑んだ気がした。
楽団が演奏を始めると、フリッツ様が私に手を差し出した。
「踊っていただけますか、ロッティ」
人前なのに、愛称で呼ばれる。
周りに聞こえないくらいの、小さな声で。
「……喜んで、フリッツ様」
リードは、年越しの舞踏会よりさらに滑らかだった。
ターンのたびに青灰色の裾が花のように広がり、ヘーゼルの飾緒が燭台の光にきらめく。大広間中の視線を浴びながら踊る。
フリッツ様の瞳には、私しか映っていなかった。
曲が終わるや否や、若い子息たちが何人も近づいてきた。
「コルンフェルト嬢。次の曲を、ぜひ私と」
「いえ、私と一曲――」
(え、私……!?)
戸惑っていると、すっとフリッツ様が前に出た。
「――すまないが。今宵、彼女の手は、誰にも渡すつもりはない」
穏やかな微笑み。でも瞳は少しも笑っていない。
「次の曲も、その次の曲も、彼女は私と踊る。……いいだろうか」
子息たちは慌てて一礼し、そそくさと引き下がった。
(い、今の、フリッツ様が言ったの……!?)
二曲目が始まる直前、私は手を引かれて、大広間の片隅の厚い緞帳の陰へ滑り込んでいた。
「フリッツ様、皆様が――」
「一曲分だけ。……一曲分だけでいい」
背中が、緞帳に押しつけられる。顔の両側に置かれた手。逃げ場のない距離。
「……今夜の君を、あの男たちが見ていた」
「私は、フリッツ様しか見ていませんでした」
「知っている。でも、あいつらは君を見ていた」
額が、押し当てられる。
「私の色を纏った君を、誰にも見せたくない。今すぐ北棟の音楽室に連れて帰って、扉を閉めてしまいたい」
冗談の響きは、どこにもなかった。
(……怖い、とは思わなかった)
(この人は、どれほど長い間、誰にも必要とされずに生きてきたんだろう。だから、一度手にしたものを、こんなに執着して強く抱きしめようとするんだ)
「連れて帰られるのは、困ります。今夜は、フリッツ様のお誕生日のお祝いですもの」
そっと手を伸ばして、頬に触れる。
「でも私はどこにも行きません。フリッツ様の隣以外には」
フリッツ様の喉が、こくりと小さく鳴った。
次の瞬間、唇を塞がれていた。
緞帳の向こうで、二曲目の旋律が流れ始める。
その一曲が終わるまで、フリッツ様は私を離さなかった。
――緞帳から出た私たちを見て、令嬢たちが扇子の陰で、きゃあっと小さな歓声を上げたのは、言うまでもない。
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