第54話 間話 ――指輪を撫でる手
side:王妃
(……「負けたよ、フリードリヒ」か)
散会した大議場の玉座の脇で、わたくしはそっと指輪を撫でていた。
政略で嫁いだ日に、陛下から賜った指輪。
本心を押し殺す時に、自分を慰めるために。いつの間にか、こうして触れるのが癖になっていた。
(マクシミリアンは、潔かった。弟の肩を叩いて、「お前が王太子なら、きっと良い国になる」と。……そう言える、あの子を誇りに思う)
(そして同じくらい、心が痛い)
わたくしは、ずっとマクシミリアンを推してきた。
わたくしが産んだ、ただ一人の子。病弱な陛下との間に授かった、たった一人の。可愛くないはずがない。それに、長子が王になれば、国は割れない。
――そう、自分に言い聞かせてきた。
(フリードリヒを、疎んじたことはない。意地悪をしたこともない)
(……でも、手を差し伸べたことも、一度もなかった)
側妃のことは、好きではなかった。
陛下が政略ではなく、ご自分で望んで迎えた人。バイオリンが上手で、穏やかな目をした人だった。わたくしは王妃として、彼女とも普通に言葉を交わしこともある。ただ、それだけだった。
一度だけ、彼女と二人きりで話したことがある。
身籠もって、もう臨月が近かった頃。
王宮の庭の東屋で、彼女は大きなお腹を撫でながら、ぽつりと言った。
『王妃陛下。……もしも、わたくしに何かあったら。この子のことを、どうか少しだけでも気にかけてやってくださいませ』
わたくしは、何と答えたのだったか。
『縁起でもないことを。あなたが、ご自分で育てればよいのです』
――そう言って、扇子を閉じた。
その数日後、彼女は、あの子を産んで逝った。
彼女が遺した子が、北棟で一人で育っていくのを、わたくしは知っていた。
伯父のコルンフェルト侯爵が手厚く支えているのも、知っていた。
だから口を出さなかった。しかし愛情をかけることも、あの子の助けになることもしなかった。
(それが、あの子をどれほど孤独にしたか。……気づいたのは、ずっと後になってからだった)
フリードリヒの誕生日には、毎年、何もなかった。陛下の形ばかりの祝辞が、侍従長から北棟に届けられるだけ。マクシミリアンの誕生日には、あれほど盛大な宴を開いていたのに。
わたくしは、それを当たり前のことだと思っていた。
(……あの夜会の後、変わったのは、あの子だけではなかった)
コルンフェルト家の娘、シャルロッテ。
控えめで、自分の立場をよく弁えた、ごく普通の令嬢だと思っていた。
それがいつの間にか、フリードリヒの隣に立ち、あの子を陽の当たる場所へ押し上げ、同じ目線で未来を見ている。
園遊会で、男爵家出身のマリーが慣れない宮廷作法に困っていると、さり気なく作法を教えていた。秋の茶会でも、泣いているマリーにハンカチを差し出していた。
――わたくしは、扇子の向こうからあの娘を見ていた。
(何度「そんな令嬢だったかしら」と、思ったことか)
そして今日フリードリヒは、後ろ盾がない状態から、民の声を聞き、国を富ませ、王太子の座を勝ち取った。
(――少しだけでも、気にかけてやってくださいませ)
(二十年。わたくしは、あの頼みを一度も果たさなかった)
指輪を撫でる手が、止まらなかった。
♦
散会後、控えの間に戻るとマクシミリアンが待っていた。
「母上」
負けたばかりの息子は、思ったよりも穏やかな顔をしていた。
「……マクシミリアン、悔しくはないの?」
「悔しいですよ。でも――」
あの子は、少し照れくさそうに頭をかいた。
「正直に言うと、少しだけほっとしています。僕は、王になる器じゃなかった。祭りの金がどこから来たのかも、確かめなかった。……マリーにも、妃教育で泣かせてばかりで」
「…………」
「フリードリヒが王太子なら、マリーは王子妃でいい。ゆっくり学んでいけばいい。……それに、あいつが王になった国なら、きっと大丈夫だと思えるんです」
屈託のない笑顔。わたくしが愛してきた、明るい息子の顔。
(この子は、わたくしが思っていたよりずっと、まっすぐに育っていた)
「……あなたは、良い兄ね」
そう言うと、マクシミリアンは目を丸くして、それから、嬉しそうに笑った。
「母上にそう言われたのは、初めてです」
(……わたくしは、間違えていたのね)
国を割らないために、マクシミリアンを。そう思ってきた。
でも、本当に国を一つにしたのは、王都と地方を、保守派と改革派を、鉄道で結ぼうとしたあの子の方だった。
わたくしは、指輪からそっと手を離した。
(今さら、母親の真似事はできない。あの子にとって、わたくしは、優しくも冷たくもない、遠い王妃でしかないでしょう)
(でも――王妃として、できることはある)
玉座の下で、まだ貴族たちに囲まれているフリードリヒを見つめる。
フリードリヒは、傍聴席を見上げて泣きそうな顔で笑っていた。
その先にいる、栗色の髪の令嬢に向けて。
(……ああ。あの子は、もう一人ではないのね)
「――侍従長」
わたくしは、静かに呼んだ。
「十一月八日の、王宮の大広間を空けておきなさい。第二王子の、成人の祝いを開きます」
侍従長が、驚いたように目を見開いて、それから深く頭を下げた。
「……かしこまりました、王妃陛下」
(これまで一度も開いてこなかった分まで。――盛大に、ね)
それと、もう一つ。
(あの夜会で、あの娘に、一言だけ伝えたいことがある)
わたくしは、扇子を半分だけ開いて、口元に浮かびそうになった笑みを隠した。
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