第48話 間話 ――天秤が傾く夜
side:宰相ラインハルト
(……数字は、正直だ)
夜会の喧騒が遠くに聞こえる書斎で、私は机の上の報告書の束を見下ろしていた。この十日、何度読み返したかわからない。
(王都の税収は増えた。だが王都周辺の町は、それを上回って落ち込んだ。祭りに注いだ国庫の予算を差し引けば、国全体としては何も生まれていない)
(一方、東部の六つの村。病による死者は例年の四分の一以下。収穫は一割二分増。地味な井戸の改修が、来年も再来年も効き続ける)
片眼鏡を外し、目頭を押さえる。
(マクシミリアン。姉のたった一人の息子)
(明るく、屈託がなく、誰にでも好かれる甥だ。幼い頃は膝に乗せて、菓子を分けてやった。姉の子を必ず王太子に据える――それが私の務めであり、願いだった。だから盤石にするために、娘を婚約者に据えた)
(それが、あの夜会で崩れた。十二の頃から六年、ひたすら努力してきた娘が、衆人の前で婚約破棄を告げられた)
(……許せるはずがない)
父親としての怒りが、今も腹の底でくすぶっている。だが私は宰相だ。陛下の治世を乱さぬよう、支持の撤回も表明もせず、今日までただ沈黙を守ってきた。
(その間、見ていた。第二王子の、この一年半の変化を)
(身なりを整え、財務局に頼られ、亡き側妃の形見のバイオリンを弾き、民の命を救いたいと自らの言葉で語った。そして今夜――真っ先に挨拶に行った私に、動揺も慢心も見せず、ただ静かに一礼した)
(隣には、誰にも従わせることができなかった、王ですら手に焼いている鉄の公爵を唸らせる計算書を作った、コルンフェルトの娘)
(……あの二人は、面白い)
もう一通の報告書に目を落とす。私が独自に放った者たちからのものだ。
(公爵家の剣が、この二年で隣国へ大量に流れている。隣国は国境で戦の最中。その儲けの一部が、王都の祭りに使われていた)
(戦が飛び火すれば、剣を売った国として、我が国も巻き込まれかねん。そしてマクシミリアンが王太子となり、公爵がその最大の後ろ盾となれば――公爵家の力は、誰にも止められなくなる)
(公爵が私欲の人でないことは知っている。だが、腐っても公爵家だ。家や領地の為であれば、時に非常な判断もするであろう。また隣国が戦に勝てば公爵家に力が偏る。一つの家に力が偏れば国の均衡は崩れる)
(そして、もう一つ。第二王子が公爵に、鉄道とやらを持ちかけたという報せも、すでに届いている。王都と地方を鉄の軌道で結び、人と物を毎日行き来させる計画だと)
(祭りは二週間で終わった。だが、道は残る。……あの二人は、王都を一度に湧かせるのではなく、王都を、ずっと富ませようとしている)
扉が、控えめに叩かれた。
「お父様。よろしいかしら」
ヴィクトリアだった。背筋を伸ばし、顎を心持ち上げた、いつもの凛とした姿。
「フリードリヒ殿下を、お呼びになるのでしょう」
「……気づいていたか」
「お父様が、何かを決める前の顔をしていらしたもの。――一つだけ、申し上げてもよろしいかしら」
「言ってみなさい」
「私は、もうマクシミリアン殿下をお恨みしてはおりません。殿下は悪い方ではありませんわ。ご自分の心に正直すぎただけ。マリー様も、本当に殿下を想っていらっしゃる。責める気にもなれませんの」
娘は、扇子を静かに閉じた。
「ですが、お父様。この国を託すなら――」
その先は言わなかった。紫の瞳が、すべてを語っていた。
「……お前は、本当に強くなったな」
(私情だけで決めるのではない。国のためだけに決めるのでもない。その両方が、今、同じ方向を指している)
「ヴィクトリア。殿下を、こちらへお通ししなさい」
「はい、お父様」
中立の宰相として、ずっと天秤の真ん中に立ってきた。どちらにも傾かず、陛下の治世の均衡だけを守ってきた。
(だが今、天秤は、はっきりと傾いた)
指先で机を一度だけ、とん、と叩く。
「――お待たせいたしました、宰相閣下」
扉の向こうに、青い上着の第二王子が立っている。
私は片眼鏡をかけ直し、静かに立ち上がって、王子をソファーへと招いた。
「殿下。この国の未来について、腹を割ってお話しいたしましょう」
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