第47話 宰相閣下の夜会
北棟の執務室の扉を開き中に入ると「どうでしたか」と尋ねるより先に、フリッツ様が口を開いた。
「――公爵には考えさせてほしい、と言われた。でも、計画書は最後まで読んでくださった。君の計算を、とても褒めていらしたよ。『わしの家の執事でも、ここまでの計算はできん』と」
「本当ですか……!」
(良かった。即答してもらえないのは想定済みだ。今日のゴールの計画書を読んでもらう所がクリアできたのであれば、少し安心だね)
シャルロッテは、フリッツの表情を見て安心する。
「それから、『面白い婚約者をお持ちだ』とも。だから、『私には過ぎた人です』と答えておいた」
(過ぎた人……!? 公爵閣下の前で……!?)
フリッツはそれ以上何も言わなかったが、慌てる私の様子を見て面白がっているようだった。
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秋の巡回が終わった翌週、税務官たちの報告書が宰相府に集まり始めた。
「宰相府のお役人たちの中で、ちょっとした騒ぎになっているそうよ。王都の周りの町の数字が、軒並み落ちていたとかで」
お義姉様とヴィクトリア様とのお茶会で、お義姉様がそう言うと、ヴィクトリア様が静かにカップを置いた。
「父も、ここ数日、夜遅くまで書斎にこもっているわ。何度も同じ報告書を読み返して。……シャルロッテ、あなた、巡回に同行したのでしょう?」
「……王都の周りでは、売り上げが二割ほど落ちていました。一方で、殿下が井戸を直した東の村では、病がほとんど出ず、収穫が一割以上増えていて」
「……なるほど。父が報告書を読み返す理由が、わかったわ」
その日の夕方、北棟で数字をまとめていると、ハンスさんが封書を持ってきた。
「宰相閣下からでございます。十日後に開催される宰相府の秋の夜会に、殿下とコルンフェルト嬢をお招きしたいとのことでございます」
(宰相閣下から……? しかも、私まで……?)
ハンスさんが下がった途端、フリッツ様が椅子を引いて立ち上がった。手を引かれて窓辺に立たされたかと思うと――そのまま、背中から抱きすくめられた。
「フ、フリッツ様……?」
「……宰相閣下の夜会には、きっと大勢が来る。君のボルドーのドレスを見て、また誰かが声をかけるんだろう」
首筋に、柔らかな唇が触れる。
「できることなら、連れていきたくない。……誰にも見せずに、ここに置いておきたい」
冗談めかした声。でも、腰の前で組まれた腕の力は、少しも冗談じゃなかった。
「……私は、フリッツ様の隣にしか、いません」
「知っている。……それでも、だ」
♦
そして、宰相府の夜会当日。
(お偉いさんばっかり……! 前世で言うと、役員会の懇親会……!)
派閥を問わず、議会の主だった貴族がほぼ全員そろっていた。広間の奥ではマクシミリアン殿下が陽気に笑い、隣にマリー嬢、少し離れてアイゼンベルク公爵閣下の姿もある。公爵閣下はフリッツ様と一瞬だけ目を合わせ、何も言わずに顔を背けた。
(……まだ、迷ってらっしゃるのかな)
「――よくお越しくださいました、フリードリヒ殿下」
振り返ると、片眼鏡の宰相閣下が立っていた。
(……え? マクシミリアン殿下より先に、フリッツ様に挨拶に……?)
王族が二人いれば、普通は長子が先。しかも宰相閣下は、マクシミリアン殿下の叔父君なのに。広間のあちこちで、同じことに気づいた貴族たちがざわめいている。
「税務官たちから報告を受けました。井戸の改修で、夏の病がほとんど出なかったとか。――帳簿の数字は、正直ですな」
宰相閣下が、片眼鏡をくいっと押し上げた。灰色の瞳が、私に向く。
「コルンフェルト嬢。ベッカーが、あなたのことを大層褒めておりましたよ。『あれほど帳簿を正確に書き写せる令嬢は、見たことがない』と。……いずれ、宰相府でもお力をお借りすることがあるかもしれませんな」
(ベッカー様、宰相閣下に報告してたの……!?)
「殿下。後ほど、少しお時間をいただけますかな。二人きりで、お話ししたいことがございます」
去っていく背中を見送って、フリッツ様が小さく囁いた。
「……宰相閣下が、動こうとしておられる」
「――気づいたかしら」
扇子を半分開いたヴィクトリア様が、いつの間にか隣にいた。
「父は何かを決める前に、必ず相手を自分の目で見極めるの。あなたたち、どうやら父の目に適ったみたいね。……それにしてもシャルロッテ、あなた気づいているの?先ほどから殿下があなたの隣を一歩も離れようとなさらないわね。あなたに声をかけようとした殿方が三人ほど、殿下と目が合って引き返していったわよ」
(え…!?き、気づいてないよ……!)
慌ててフリッツ様を見上げると、何食わぬ顔で視線を逸らした。
耳だけ、ほんのり赤い。
それから何事もなかったような顔で、私の手を取った。
広がったドレスの裾に隠れる位置で、指と指が絡められる。
「……私のそばを、離れないで」
誰にも聞こえない囁き。絡めた指の間で、親指が、私の指の付け根をゆっくりと撫でている。
(こ、こんな大勢の前で……! 他の人には見えてないけど、ヴィクトリア様は見てるよ……!)
ヴィクトリア様は隣でニコニコしながら、私とフリッツ様の様子を観察していた。
夜会が中盤に差しかかった頃、宰相閣下の侍従がフリッツ様を呼びに来た。
離れていく指先が、名残惜しそうに私の手をなぞる。
――この国の天秤が、今夜、大きく傾こうとしていた。
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