第45話 見送る背中
(誤字脱字なし。計算は三回検算済み。……大丈夫。大丈夫なはず)
早朝の霧が立ち込める北棟の車寄せで、私は革表紙の綴りを胸に抱えていた。
鉄道の計画書。昨夜遅くまでかかって清書したものだ。
「おはよう、ロッティ。早いね」
フリッツ様が、扉から現れた。
いつもより、少しだけ引き締まった顔。
「計画書の清書です。どうぞ」
「……ありがとう。徹夜しただろう」
「少しだけです」
「目の下が、少し青い」
指先が、そっと目元に触れた。
(両思いになってからの方が、触れられた時の破壊力が段違い……!)
「……公爵閣下は、どんな方なのでしょう」
「豪快で、気性の激しい方だと聞いている。兄上を推していて、私のことは取るに足らない第二王子としか思っていないだろうね」
フリッツ様は、計画書をそっと胸に抱えた。
「でも公爵が本当に守りたいのは、領地の民だ。巡回で、それがよくわかった。……だから、この計画はきっと届く。君が作ってくれたものだから」
(こういうところ、なんだよなあ……)
(対決の相手の後ろ盾でさえ、その人が本当に大切にしてるものを見ようとする。)
(そういう所が、フリッツ様らしくて好きだなぁ……)
「私は一緒には行けませんけど……ここで、お待ちしています。どうか、うまく話しがまとまることを、ここで祈っております」
両手が、包まれた。
「……行ってくる、ロッティ。戻ったら、真っ先に君に報告する。約束だ」
霧の中へ、馬車が動き出す。窓越しに、フリッツ様が小さく手を上げた。
(一年半前は、私が馬車に乗って、フリッツ様に見送られたんだよね)
(あの時は、立ち絵もないモブだと思ってた人が、今は国の未来を賭けた交渉に向かってる。……私の作った計画書を抱えて)
「――お嬢様」
振り返ると、ハンスさんが霧の向こうを見つめていた。
「殿下は、変わられましたな。以前でしたら、ご自分から公爵閣下のもとへ出向かれるなど、考えもなさらなかったでしょう」
「殿下ご自身が、頑張っていらっしゃるからです」
「ふふ。出がけに、殿下はこうおっしゃいました。『ロッティが待っていてくれるなら、負ける気がしない』と」
(……え)
「――おや。これは、申し上げてはいけないことでしたかな」
とぼけたように咳払いをして、ハンスさんは北棟の中へ戻っていった。
(ハンスさん……! それは、反則です……!)
両手で顔を覆う。
霧が晴れていく空を見上げて、私は決めた。
(……待とう、ここで。フリッツ様が戻ってくるまで)
北棟の窓辺に椅子を借りて、私は帳簿を開いた。けれど、ページは一枚もめくれなかった。
「コルンフェルト嬢、少し休憩しませんか?お茶をお持ちいたしました」
昼前、ハンスさんが温かい紅茶を運んできてくれた。
「ありがとうございます、ハンスさん。……殿下は、小さい頃、どんなお子様だったんですか?」
ハンスさんは、少しだけ目を細めた。
「お静かな方でございました。お一人で本を読まれて、お一人で庭を歩かれて……七つの年に、侯爵閣下から母君のバイオリンが届いてからは、夜になると、北棟の奥の部屋から、それはそれは不器用な音が聞こえてまいりましてな」
「不器用な、音……」
「ええ。誰にも教わらず、毎晩毎晩。それがある日、旋律になった。このハンス、扉の外で、泣きそうになったものでございます」
(……誰にも聞かせずに、一人で。ハンスさんだけが、扉の外で聞いてたんだ)
「殿下が、ご自分の足で公爵閣下のもとへ向かわれる日が来るなんて。――長生きは、するものでございますな」
ハンスさんが下がった後、昼過ぎに、兄様がひょいと顔を出した。
「まだここにいたのか、ロッティ。屋敷で待っていればいいものを」
「……ここで、お待ちしているとお約束しましたから」
「そうか」
兄様は、私の隣の窓枠に腰を預けて、霧の晴れた空を見上げた。
「公爵閣下は、気性の荒い方だ。殿下が交渉にいかれたとしても、すぐに良い返事があるとは限らん。……だが、殿下はもう、半歩引く方じゃない。それだけは、俺が保証する」
「……はい」
兄様は、私の頭をぽんと一度だけ叩いて、出ていった。
昼が過ぎ、陽が傾き始めても馬車は戻ってこない。
(遅い……。まさか、怒らせてしまったんじゃ……)
――夕陽が車寄せを茜色に染めた頃。
ようやく聞こえてきた車輪の音に、私は椅子を蹴るように立ち上がっていた。
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