第44話 鉄道の設計図
「―つまり、こういうことなんです」
九月の終わり。王都に戻った夜の北棟で、私は燭台の灯りの下、地図の上に一本の線を引いた。
アイゼンベルク公爵領の鉱山から、王都へ。王都から、コルンフェルト領へ。
「この三つを、鉄の道で結ぶんです」
「鉄の道……」
フリッツ様が、確かめるように繰り返した。
「はい。名前をつけるなら、『鉄道』でしょうか。鉄の軌道で結ぶ、道」
(前世で毎日乗ってた、あの言葉。こっちの世界では、私が最初に口にすることになるなんて)
「鉄道」
フリッツ様は、もう一度その言葉を口の中で転がした。
「……いい名だ。短くて、誰にでも覚えやすい」
「鉄道を敷くには、大量の鉄が要る。軌道も、車輪も、橋も。……その鉄は」
「公爵閣下の鉱山からです。今まで剣になっていた鉄を、鉄道の整備に使います」
計算書を広げる。
「剣は、戦がなければ売れません。でも道で使用する鉄なら、国内で何年も、安定して買われ続けます。軌道一里あたりの鉄の量と費用は、今、公爵家が隣国に剣を売って得ている利益と、ほぼ同じか、それ以上です」
(前世の会計スキル、全開……! 減価償却に、長期の収益見込みに、輸送費の削減効果……!)
「それから、もう一つ」
地図の上の、コルンフェルト領と公爵領を指差す。
「公爵閣下が麦を買い集めているのは、領内の食料が足りないからですよね。でもその買い集めた食料を、整備されていない山道を、荷車で運ぶから高くなる。でも鉄道ができれば、うちの麦を、今よりずっと安く、そしてたくさん運ぶことができます」
「……食べ物が安く手に入れば、隣国へ攻め込む必要がなくなる」
「はい。道を国境まで延ばせば、隣国とも、剣じゃなく品物で取引できます」
「……コルンフェルトと、公爵領には利がある。では、王都は?」
フリッツ様が、地図の真ん中の王都を指先で叩いた。
「実は王都が、一番得をするかもしれません」
私は、計算書の別の頁を開いた。
「まず、物。コルンフェルトの麦や野菜が、今よりずっと早く、安く王都に届きます。公爵領の鉄で打った鍋や鋤も。王都の人たちの暮らしが、楽になります」
「なるほど」
「それから、人です」
「人?」
「鉄道は、荷物だけではなく、人も運べます。今は、ミュールドルフから王都まで、馬車で半日かかりますよね。鉄道なら、もっと早く、もっと安く行き来できる。村の人が朝に王都へ来て働いて、夜には家に帰れるようになるんです」
(前世の通勤電車……! こっちの世界なら、通勤馬車鉄道……!)
「それに、村の人たちが自分で作った品を、王都の市場まで売りに来られる。王都の商人は、逆に山の町まで品を売りに行ける。人と物が行き来すれば、王都の市場も、宿屋も、ずっと賑わいます」
(お祭りみたいに二週間だけじゃなくて――毎日、ずっと)
「……王都に人とお金を集めるのではなく、王都と地方の間で、人とお金が行き来するようになる、ということか」
「はい! それなら、王都も周りの町も、両方が豊かになります」
フリッツ様は、しばらく地図を見つめていた。それから、ふと顔を上げる。
「隣国では、蒸気で動く車まで作られ始めたと聞く。……この国でも、いずれは」
「蒸気は……いきなりは難しいと思います」
(前世の知識で、仕組みはなんとなくわかる。でも、作れる人がいない。この国の技術で無理に作ったら、爆発しかねない)
「まずは、鉄の軌道の上を、馬に車を引かせるんです。馬車鉄道、とでも言えばいいでしょうか。鉄の軌道の上なら、車輪がほとんど引っかからないので、同じ馬一頭で、普通の道の何倍もの荷を引けます」
「馬で……。それなら、この国の馬と御者で、すぐにでも始められる」
「はい。蒸気は、いつか。……研究できる方が見つかれば、ですけれど」
「研究できる者、か」
フリッツ様が、何かを考えるように、小さく呟いた。
燭台の炎が、小さく揺れた。
「……これなら」
フリッツ様の声が、かすかに震えていた。
「公爵と争わずに済む。隣国とも、戦わずに済む。保守派の麦も、改革派の鉄も、どちらも活きる。王都も、地方も、どちらも豊かになる。……誰も、損をしない」
地図の線を、指先がそっとなぞる。
「父上がずっと悩んでおられたことだ。その両方を、同時に解決できるかもしれない」
(そうなんです……!)
「ロッティ。君は、本当に――」
言いかけて、フリッツ様が小さく笑った。
「……頬に、インクがついている」
「えっ」
手をやるより先に、親指が頬に触れた。ゆっくりと、インクの跡をなぞる。
拭い終わったはずなのに、指が離れない。
すぐ近くに、青灰色の瞳。いつもの柔らかな笑顔じゃない。
もっと静かで、真剣で。
「……インク、取れましたか」
「まだ、少し」
(嘘だって、わかる声)
親指が頬から顎へ滑って、そっと顔を上向かされると、
フリッツから口づけが贈られた。
何度も、何度も深くまで求められる。
燭台の炎が、二人の影を壁の上でひとつにした。
(最近、フリッツ様積極的だよ……)
離れたあと、額がこつんと合わさる。
「……君がいてくれるなら、私は何だってできる気がする」
「私もです。フリッツ様がいてくださるなら」
頬を染めて答えると、フリッツは柔らかく微笑んだ。
(好きな人に求められるって、こんなに幸せなことなんだ……)
フリッツ様は小さく咳払いをすると、気を取り直したように机の地図へ視線を向けた。
「――明日、アイゼンベルク公爵に会いに行く」
「えっ」
「この計画を、直接話してみる。公爵は兄上を推している方だ。すぐに受け入れてはもらえないだろう。でも、公爵が本当に望んでいるのは戦じゃなく、領民が飢えないことだと、私は思う」
静かな決意が、その横顔に宿っていた。
「君が考えてくれたこの道を、必ず形にしてみせる」
――屋敷に戻る馬車の中で、私は頬に指を当てた。
(……好き。フリッツ様のことが、どうしようもなく)
(明日、フリッツ様は公爵閣下のもとへ行く。私は、その場には行けない)
窓の外の王都の夜空に、私は祈るように手を組んだ。
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