第41話 間話・フリードリヒの独白6
夕食の後、私は宿の裏庭の井戸を見に一人で移動した。
この夏、煉瓦で固め直した井戸だ。長老は涙ぐみ、ベッカーは手帳に書きつけ、村の子どもたちはロッティの周りから離れなかった。
(今日一日、私はずっと満たされていたはずだ。……それなのに)
『あ、あの、お姫さまに……』
日に焼けた村の青年が、野の花を差し出した光景が、何度も蘇る。
『まあ、ありがとうございます。綺麗な花ですわね』
(身分も違う。二度と会うこともない。彼女は礼儀で受け取っただけだ。わかっている)
(それなのに私は――あの花を彼女の手から取り上げて、踏みつけてしまいたいと思った)
井戸の縁に手をつく。暗い水面に、小さく月が映っていた。
(井戸の底。……ずっと、あそこにいた。誰にも見られず、手を伸ばそうともせずに)
(彼女が、掬い上げてくれた)
上着の内側に手を当てる。ハンカチの刺繍は、すっかり毛羽立ってしまった。毎日、指でなぞっているせいだ。
(あの青年は、道端の花を摘んだだけだ。ほんの一瞬で、誰にでもできる)
(でも、彼女が私にくれたものは違う。何日もかけて刺してくれた刺繍。厨房に立って焼いてくれたケーキ。先月、「約束ですから」と照れくさそうに差し出された二つ目のケーキは、今度は少しも焦げていなかった)
(どれも、私のことを想いながら、時間をかけなければ作れないものだ)
(受け取るたびに満たされる。そして同時に、渇いていく。――彼女の手で作るものは、全部私が欲しい。私のために向けられていてほしい。他の誰かのために、彼女が針を持つところなど、見たくない)
――あの野の花一輪にさえ、こんなに心を乱される私が、もし。
目を閉じた。その先は、考えたくなかった。
「――フリッツ様?」
振り返ると、宿の裏口に、ショールを羽織ったロッティが小さな灯りを持って立っていた。
「お部屋にいらっしゃらなかったので……。夜風は冷えますわ」
その手に、夕方の花はなかった。
「……あの花は?」
「え? 宿の女将さんに差し上げました。食卓に飾っていただこうと思って」
灯りを受け取って井戸の縁に置き、私は何も言わずに、彼女を抱き寄せた。
「フリッツ様?」
「……今日、あの青年から花を受け取った時。私は、あの花を踏みつけてしまいたいと思った」
腕の中で、彼女が息を呑む。
(言ってしまった。怯えられるかもしれない。……それでも、嘘はつきたくない)
「……軽蔑するか」
「……しません」
顔を上げたヘーゼルの瞳が、灯りの中でまっすぐ私を見た。
「私だって、フリッツ様の袖に触れた令嬢に、嫉妬しました。……同じです。それに少しだけ、嬉しいです」
(――ああ)
(君はわかっていない。これが、嫉妬なんて可愛らしい言葉で片付くものじゃないことを)
(でも、知らなくていい。君は陽だまりで笑っていればいい。その陽だまりごと、私が囲ってしまえばいいのだから)
「……ロッティ。王都に戻ったら」
「はい」
「もし、君さえよければ……また、何か刺してくれないか」
ハンカチを取り出してロッティに見せる。
「これが、もうこんなふうになってしまって。……毎日、持ち歩いているから」
「毎日、ですか……?」
「一日も、欠かさずに」
灯りの下で、彼女が耳まで真っ赤になった。
「す、すぐに新しいのを刺します! もっと丈夫な糸で……!」
「いや。これは取っておく。新しいものは、二枚目として欲しいんだ。……君が刺してくれたものは、一枚も手放したくない」
しばらく言葉を失ってから、彼女は小さく笑って、私の袖をそっとつかんだ。
「……では、心を込めて刺します。フリッツ様だけのために」
(フリッツ様だけのために)
その言葉が、胸の一番深いところに、甘く沈んでいく。
顎に指を添えて、顔を上向かせる。月明かりの下で、唇を重ねた。
暗い井戸の水面に、二人の影がひとつになって揺れている。
「……明日は、公爵領だ。険しい山道になる。私のそばを、離れないで」
「はい」
宿の灯りの中へ彼女を送り届けながら、私は心の中で、あの手帳に、もう一つ名前を書き足していた。
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