第40話 巡回の旅と、帳簿の答え合わせ
「アイゼンベルク公爵閣下が、この夏、あちこちで麦を買い集めておられる。『非常時の備え』という名目でな。うちの麦にも、ずいぶん高い値をつけてきた」
書斎の安楽椅子で、お父様がゆっくりと顎を撫でた。
「……案ずるな。他の保守派の家々と示し合わせて、出荷の量を調整しておる。王都の麦の値が跳ね上がらんようにな。それから、宰相閣下の側も、例の男爵家の令嬢の養子先の件で、フリューゲルシュタイン侯爵家に話を持ちかけているらしい」
(麦の買い占めに、マリー嬢の養子先……。お父様、「詳しくは言えん」って顔で、とんでもない話をさらっと……)
「まあ、お前が気に病むことではない。本題はここからだ」
(……え?今までの話、本題じゃなかったの!?)
お父様が、少しだけ身を乗り出した。
「九月から、秋の納税の巡回が始まる。フリードリヒ殿下が、自らの目で市政の成果を確かめたいと同行を願い出られた。――殿下から、お前にも同行してほしいと打診があった」
「私も、ですか!?」
「帳簿を読める者が一人でも多く欲しいそうだ。……表向きはな」
お父様の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「アルブレヒトが護衛につく。侍女も一人。それでよければ、行ってきなさい」
「行きます! ぜひ、行かせてください!」
(推しとの――ううん、好きな人との旅! しかも、帳簿の答え合わせを現地で!)
「あなた。お茶をお持ちしましたわ」
扉からお母様が入ってきて、私をちらりと見た。
「話は聞こえていましたよ。旅先ではしたない真似はしないこと。殿下と二人きりになどならないこと。日傘を忘れないこと。水は必ず沸かしてから飲むこと。それから――」
(お母様……! 「二人きりにならないこと」実はもう何回もなってます、ごめんなさい……!)
ひとしきり小言を言い終えると、お母様はお父様の前に茶器を置いた。
「……あなたも、麦の件でお疲れでしょう。今日のリンダウ侯爵とのお話し合い、とても見事でしたわ」
「……グレーテ?」
「べ、別に。そう思っただけです」
(お母様、推し活が着実に進んでる……!)
♦
九月の初め。巡回の一行を率いる老税務官のベッカー様が、眼鏡の奥で目を細めた。
「殿下、コルンフェルト嬢。帳簿と数字ばかりの、退屈な旅になりますぞ」
(退屈どころか……帳簿と現地確認は前世が会計職の私にお任せください!)
最初の町、ハーゼルブルク。馬車を降りた瞬間、私は足を止めた。
(……静か)
大通りの店のいくつかが、鎧戸を下ろしたまま。市場の露店もまばらだ。
「去年の同じ時期と比べて、市場の売り上げが二割ほど落ちておりますな」
帳簿を見たベッカー様の眉が寄る。町長が、困ったように頭を掻いた。
「この夏は王都の祭りがありましたでしょう。若い者は皆、屋台の手伝いで王都へ出稼ぎに行っちまって。何人かは、まだ戻ってこないんでさ」
「祭りの二週間、うちの宿はがらがらでしたよ」
宿屋の主人の溜息に、私は帳簿の数字を見つめた。
(やっぱり。王都に集まった分、周りの町から流れ出てる。……前世で何度も見た、一極集中の数字)
「……兄上は、民を喜ばせようとしただけだ」
町を出る馬車の中で、フリッツ様がぽつりと言った。
「その陰で、こういう町があることを、知らないだけなんだと思う」
(こんな時でも、マクシミリアン殿下を悪く言わないんだ……)
数日後、一行は東の村々へ着いた。
「殿下! この夏、あの病にかかった者は村でたった一人でございました! 去年はこの時期までに、四人も亡くなっていたのに……!」
長老の顔は、夏に会った時とは比べものにならないほど明るかった。
「収穫高、前年比で一割二分増。……殿下、正直に申し上げて驚いております」
ベッカー様が眼鏡を押し上げて、手帳に何かを書き込んだ。
「長年国中を回ってまいりましたが、井戸一つでここまで変わるとは」
「ありがとう、ベッカー殿。……だが、これは私一人の力ではないんだ」
ちらりとこちらを見たフリッツ様の目元が、ふっと緩む。
(人前でその顔はずるいです……!)
畑の手伝いをしていた村の青年が、私が馬鈴薯の出来を褒めると、真っ赤になって俯いた。それから、畑の脇の野の花を不器用に摘んで、差し出してくれる。
「あ、あの、お姫さまに……」
「まあ、ありがとうございます。綺麗な花ですわね」
受け取った時――少し離れた場所で、フリッツ様が、ほんの一瞬、拳を握ったのが見えた気がした。
(……気のせい、かな)
その日の夕方。宿へ向かう馬車の中で、疲れが出た私は、いつの間にかうとうとしていた。
――頬の下が、温かい。
目を開けると、すぐ前に深い青の布地。肩には、濃紺の外套。
(……フリッツ様の、肩……!?)
「あ、あの、申し訳――」
「起きたか。よく眠っていたよ。まだ宿まで少しある。もう少し、休んでいていい」
ずり落ちかけた外套を、そっと掛け直される。
(この体勢のまま!? 心臓が爆発します……!)
身じろぎした拍子に、頭の上に、ふっと温かいものが触れた。
「……おやすみ、ロッティ」
髪に、唇。向かいの席の侍女は、ぐっすり寝息を立てている。
(……もう、眠れるわけない)
「……明日は、アイゼンベルク公爵領に入る」
窓の外を見たまま、フリッツ様が呟いた。
「山の中の、鉱山の町だ。……それと」
少しだけ、声が低くなる。
「――今日貰ったあの花は、宿に着いたらどうするつもりだ?」
(……え?)
見上げたフリッツ様の横顔は、夕陽の影になって、表情がよく見えなかった。
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