第37話 間話・フリードリヒの独白5
side:フリードリヒ
議会の翌日から、王宮の空気が変わった。
北棟の回廊を歩けば、見知らぬ貴族たちが足を止めて一礼していく。
執務室には、面会を求める書状が、毎日のように届くようになった。今まで一度も言葉を交わしたことのない伯爵や子爵が、「ぜひ一度、殿下のお考えを伺いたく」と、こぞって丁寧な文面を寄越してくる。
市政対決。王太子の座を賭けた、兄との勝負。
その当事者になった途端、自分は「見られる」存在になった。
フリードリヒは、書状の束を机の端に押しやり、窓の外に目をやった。
夏の陽射しが、中庭の石畳を白く焼いている。
(……王太子か)
正直に言えば、少し前までの自分は、玉座になど興味がなかった。
兄が王になり、自分はその影で、帳簿をめくり、村の井戸のことを考えていればいい。それが自分に許された、ささやかな居場所だと思っていた。
それなのに今、自分は、この勝負に勝ちたいと思っている。
村の子どもたちのためだ。この国の民のためだ。――それは、嘘ではない。
けれど、それだけでもないことを、フリードリヒは自覚していた。
昨日の夜会で、耳にしたのだ。
「コルンフェルト嬢も、ずいぶん見違えたな」
「ああ。あのボルドーのドレス、なかなかだ。第二王子殿下が王太子になれなければ、あの令嬢は――」
その後に続いた言葉は、聞かなかった。聞く前に、その場を離れた。
けれど、意味はわかる。
もし自分が負ければ、後ろ盾の薄い私はいつ廃されてもおかしくない。
コルンフェルト家は、娘の婚約を考え直すかもしれない。侯爵は情に厚い方だ。だが、侯爵家の当主として、家を守るために、より確かな相手を選ぶ日が来ないとは限らない。
ロッティを、誰かが、自分から奪っていくかもしれない。
「……っ」
フリードリヒは、窓枠を握りしめた。
想像するだけで、息が詰まる。
彼女が、他の男の隣で微笑む。
他の男に、ロッティと呼ばれる姿。あの薔薇の庭で自分に向けた、涙に濡れた愛らしい笑顔を他の誰かに向けるのか。自分以外の誰かに情をかけるのか。
(――絶対にさせない)
低く、心の中で呟く。
だから、勝つ。
王太子になれば、誰も彼女に手出しできなくなる。
王太子の婚約者に言い寄る男など、この国には一人もいなくなる。
侯爵も娘の婚約を考え直すことはないだろう。
彼女を、自分の隣に縛りつけておける。
――ああ、なんと浅ましい理由だろう。
民のためだと口では言いながら、心の底では、たった一人の女性を手放さないために、彼女を得る為に玉座を望んでいる。
かつて誰にも見向きもされなかった第二王子が、今、国を背負う座を欲しているのも、結局のところ彼女を失いたくないからなのだ。
フリードリヒは、机の引き出しから手帳を取り出し、頁をめくる。
ブラウンの弟。ロイター伯爵家の次男。ヴァイス子爵家の嫡男。
そして、昨日の夜会で、彼女のドレスを話題にしていた男たちの名前。
新しい頁に、また名前を書き足していく。
書くたびに、胸の奥の昏い気持ちが、少しだけ静まるのがわかる。
(……私は、おかしいのだろうか)
フリードリヒは、自分の手を見つめた。
この手で、彼女の手を握った、頬に触れた。
この手で、彼女を抱きしめた。
この手で、彼女を守りたい。
守りたいと思う気持ちと同時に、この手で彼女を閉じ込めてしまいたいと思う気持ちもある。二つの感情が、胸の中で絡まり合って、どちらが本当の願いなのか、わからなくなっている。
フリードリヒは、上着の内側に手を当てた。
そこにはいつものように、白いハンカチがある。
去年の誕生日に、彼女がくれたものだ。
そして、あの日、彼女はもう一つ――端が少しだけ焦げた、手作りのアーモンドのケーキを持ってきてくれた。
あの味を、今でも覚えている。
少しだけ甘すぎて、少しだけ焦げていて。それでも、今まで口にしたどんな菓子よりも、美味しかった。
二十年間、兄が当たり前に受け取るのを、北棟の窓から眺めることしかできなかったもの。自分が願っても絶対に手に入らないと、とうに諦めていたもの。
(初めて、自分へ愛情や温もりをくれたのが、彼女だった。)
(……もう一度、食べたい)
ふと、そんな願いが胸をよぎって、フリードリヒは自嘲した。
なんと子どもじみた願いだろう。王太子の座を争う男が、婚約者の焼いた菓子を、もう一度食べたいなどと。
けれど、一度知ってしまった温もりは、忘れられなかった。
彼女の手で作るものを、また受け取りたい。
自分のために、彼女の時間を使って用意してくれたという証が欲しい。
それさえあれば、きっと、この胸の昏い渦も、少しは静まる気がした。
♦
扉が、控えめに叩かれた。
「フリッツ様。……お邪魔でしたか?」
顔を覗かせたのは、ロッティだった。
帳簿を抱えて、少しだけ首を傾げている。
その瞬間、胸の奥の暗い渦が、嘘のように凪いだ。
「……いや。待っていた」
フリードリヒは、手帳をそっと引き出しに戻し、鍵をかけた。
それから、立ち上がって、彼女のもとへ歩み寄る。
「フリッツ様?」
何も言わずに、彼女を腕の中に閉じ込めた。
夏の陽射しの匂い。彼女の髪からほのかな花の香りがする。
「……ど、どうなさったのですか」
「少しだけ。このままで」
腕の中で、彼女が小さく息を呑む気配がした。けれど、逃げようとはしなかった。むしろ、そっと、背中に手を回してくれた。
「……勝とう、ロッティ」
彼女の髪に顔を埋めたまま、囁く。
「この国のために。……それから、僕たちのために」
腕の中の彼女が、小さく頷いた。
「はい。一緒に」
腕の中の彼女の温もりを確かめながら、フリードリヒはしばらく迷っていた。
言おうか、言うまいか。
こんなことを頼んだら、呆れられるかもしれない。
王族らしくない、と笑われるかもしれない。
それでも、口が勝手に動いていた。
「……ロッティ。一つ、頼みがあるんだが」
「はい、何でしょう」
「その……もし、君さえよければ、なんだが」
自分でも情けないほど、歯切れの悪い声だった。
「去年の誕生日にくれた、あのケーキ。……もう一度、焼いてもらえないだろうか。忙しいなら、無理にとは言わない。いつでも、構わないから」
腕の中で、彼女が、きょとんと顔を上げた。
ヘーゼルの瞳が、大きく見開かれている。
やはり、呆れられたか――そう思った瞬間、彼女の顔が、ぱっと花が咲くように輝いた。
「……覚えていてくださったのですか?」
「忘れるわけがない」
思わず、本音が零れた。
「あれは、今まで食べた中で、一番美味しかった」
彼女の頬が、見る見るうちに赤く染まっていく。
「……っ、はい! 焼きます! 何度でも焼きます! 今度は、焦がさないように頑張りますわ!」
「焦げていても、いい」
フリードリヒは、小さく笑って、彼女の髪に唇を寄せた。
「君が、僕のために焼いてくれたものなら。……それが、いいんだ」
腕の中で、彼女が、嬉しそうに身を縮めた。
その温もりを抱きしめながら、フリードリヒは、胸の奥で静かに思う。
――他の誰のためにも、焼かないでほしい。
その言葉だけは、口には出さなかった。
――一緒に。
この約束がある限り、自分は何にでもなれる。
そして、この約束を破らせるものがあるのなら、それが例え彼女であっても、決して許さない。腕に込めた力が、ほんの少しだけ強くなった。
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