第36話 間話 ――決められぬ王の願い
side:国王
私室の窓辺で、国王は深く息を吐いた。
議会での宣言を終えてから、身体が鉛のように重い。こめかみの奥が、鈍く痛む。
「陛下。お薬を」
王妃が、銀の盆に載せた薬湯を差し出した。国王はそれを受け取り、ゆっくりと口に運ぶ。苦い味が、舌の上に広がった。
「……今日は、ご無理をなさいましたね」
「うむ。だが、言わねばならぬことだった」
王妃は何も言わず、国王の肩に膝掛けをかけた。長年連れ添った妻の、変わらぬ気遣いだった。
国王は、窓の外に広がる王都の灯りを見つめた。
――市政対決。
あの宣言を、議会の者たちは、王の英断と受け取っただろうか。それとも、決断を先送りにした臆病者だと見抜いただろうか。
(……後者だろうな。少なくとも、ラインハルトは宰相なだけあって見抜いているだろう)
国王は、自嘲するように小さく笑った。
この国には、三つの大きな流れがある。
肥沃な大地を抱え、民の食を支える保守派。
そして、鉱山を抱え、武器となる鉄を産み、領地の拡大を望む改革派。
中立派は、時の勢力を見定め自分たちに有利な方へとその時々で立ち位置を変える。
どちらの言い分にも、理がある。
保守派の言うことだけを聞いていては、国は緩やかに停滞する。
改革派の言うことだけを聞いていては、いずれ隣国との戦になる。
病弱な自分に、戦の指揮など執れるはずもない。かといって、無責任に戦を始め、その後始末を次の王に押しつけることもできない。
だから、国王は決めなかった。
どちらの派閥にも肩入れせず、中立の宰相ラインハルトと手を携え、均衡を保つことだけに心を砕いてきた。ラインハルトの娘を長子マクシミリアンの婚約者に据えたのも、その均衡のためだった。
――それが、あの夜会で崩れた。
(マクシミリアンは、明るい子だ)
国王は、長子の顔を思い浮かべた。
誰にでも屈託なく笑いかけ、人を惹きつける。自分にはない才能だ。本人の能力は並だが、後ろ盾がある。母である王妃も健在だ。
あの明るさで国を引っ張ってくれれば――そう、思っていた。
そして、もう一人。
(フリードリヒ)
国王は、目を閉じた。
側妃の忘れ形見。
政略ではなく、国王が自ら望んで迎えた女性だった。穏やかな目をした、バイオリンの上手な人。フリードリヒを産んだその日に、この世を去った。
あの子を見るたびに、彼女を思い出した。
だから、あの子から少しだけ目を逸らしてきた。後ろ盾のない第二王子が目立てば、要らぬ勢力争いが起きる――そんな理屈を、自分への言い訳にして。
フリードリヒは、賢い子だった。自分の立場をよく理解し、兄を立て、決して前に出ようとしなかった。何でもそつなくこなしながら、決して一番にはならない。
国を治める器は、おそらくフリードリヒの方が適任だ。とうにそれに気づいていた。けれど、フリードリヒを王太子にすれば、マクシミリアンを推す者たちが黙っていない。王妃も自分の息子が可愛いだろう。国が二つに割れる。
だから、マクシミリアンを王に。そして、フリードリヒがそれを支えてくれれば――それが、国にとって最も争いの少ない道だと信じてきた。
(フリードリヒの気持ちは、そこにはどこにもないが……)
「……陛下」
王妃の声に、国王は目を開けた。
「フリードリヒも、大きくなりましたね」
王妃は、窓の外を見つめたまま、静かに言った。
「今日の議場で、あの子が『謹んでお受けいたします』と申した時。……わたくし、少し驚きましたわ。あのような声を、あの子が出せるとは」
国王は、黙って頷いた。
同じことを、自分も思っていたのだ。
この一年で、フリードリヒは変わった。
侍従長からの報告で、それは知っていた。身なりを整え、髪を切り、新年の舞踏会で人々の目を集めたこと。財務局が、あの子を頼りにし始めたこと。
音楽会で、あの子が――側妃の形見のバイオリンを弾いたこと。
(あのバイオリンを、人前で……)
そして、そのすべての変化の傍らに、いつも一人の令嬢の名前があった。
コルンフェルト侯爵の娘。シャルロッテ。
控えめで目立たない、ごく普通の令嬢だと聞いている。
それがいつの間にか、あの子の隣で、あの子を陽の当たる場所へと押し上げている。
(……コンラートの娘か。血は争えぬな)
国王は、小さく笑った。
市政対決を宣言したのは、正直に言えば、自分で決めずに済むからだった。
(ラインハルトの娘に、大衆の前で婚約破棄を伝えたマクシミリアンを、今王太子に内定させれば、保守派と中立派から反感を買うだろう。しかし、フリードリヒを王太子に据えれば、王妃と今まで後ろ盾になっていた改革派が黙っていないだろう。今となっては、どちらを選んでも問題が出る)
民の声と、納税の数字。民が支持して国を富ませるのはどちらなのか、それが示す結果ならば、どちらの派閥も表立って異を唱えることはできまい。自分が選ぶのではなく、国が選ぶ。そうすれば、争いは起きない。
おそらく、勝つのはマクシミリアンだろう。民は、華やかなものを好む。あの子の明るさは、民の心を掴みやすい。
それでいい、と国王は思う。――思う、はずなのに。
議場の中央で、背筋を伸ばして玉座を見上げていた、青い上着の息子の姿が、どうしても脳裏から離れなかった。
「どちらが選ばれても……争いにならねばよいが」
ぽつりと漏らした言葉に、王妃は何も答えなかった。
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