第35話 王太子になる条件
七月の半ば。王宮の大議場は、張り詰めた空気に包まれていた。
半円形に並んだ議席には、国中の有力貴族たちが顔を揃えている。
保守派の席には父と兄。改革派の席には、浅黒い肌の偉丈夫――アイゼンベルク公爵。そして中央の宰相席には、白髪交じりの髪をきっちりと撫でつけた、オイレンブルク公爵の姿があった。
シャルロッテは、議場を見下ろす二階の傍聴席に、母とヘンリエッテと並んで座っていた。
玉座の一段低い場所に、二人の王子が並んで立っている。
深紅と金の礼装に身を包んだマクシミリアン。そして、深い青の上着を纏ったフリードリヒ。
一年前なら、誰もが兄王子だけを見ていただろう。けれど今、議場のあちこちから、弟王子へも視線が注がれているのがわかる。
やがて、侍従長の声が響き、国王が玉座に姿を現した。
(……陛下、お顔の色が)
遠目にも、陛下の顔色が優れないのがわかった。
頬がこけていて、歩みもどこか覚束ない。玉座に腰を下ろすと、指先で軽くこめかみを押さえた。
陛下は、しばらく議場を見渡してから、ゆっくりと口を開いた。
「皆も知っての通り、余の身体は、近頃あまり思わしくない」
議場が、ざわりと揺れた。
「それゆえ、余は、次代の王太子を定めねばならぬと考えた。――だが、長子であるから、という理由だけで定めることはせぬ」
ざわめきが、一段と大きくなる。
マクシミリアンが、驚いたように父王を見上げた。
「第一王子マクシミリアン、第二王子フリードリヒ。両名に、国庫より同額の予算を与える。それを用いて、この秋の収穫と納税が済むまでの間、それぞれの思うところの市政を行うがよい」
陛下は、一度言葉を切り、深く息を吐いた。
「秋の納税の結果をもって、どちらがより国を富ませたか。そして、どちらがより民の支持を得たか。それを見極めた上で、議会の承認を経て、王太子を定める」
――市政対決。
議場が、どよめきに包まれた。
(え……えええ!?)
シャルロッテは、傍聴席の手すりを思わず握りしめた。
(王太子を、対決で決める……!? そんなの、ゲームに……いや、ゲームはもう終わってるんだった……!)
「市政対決ですって……!」
「長子相続を、陛下ご自身が……」
議場の反応は、様々だった。
改革派の席で、アイゼンベルク公爵が、指輪をくるくると回しながら不敵な笑みを浮かべている。保守派の席の父は、無言で顎を撫でていた。そして宰相席のラインハルトは、表情一つ変えずに、指先で机を一度だけ、とん、と叩いた。
「父上!」
真っ先に声を上げたのは、マクシミリアンの方だった。
「望むところです! 必ずや、民に喜ばれる市政をお見せいたしましょう!」
屈託のない、自信に満ちた声だった。議場のあちこちから、拍手が起こる。
続いて、フリードリヒが、静かに一歩前に出た。
「――謹んで、お受けいたします」
短く、けれどよく通る声だった。
背筋を伸ばし、まっすぐに玉座を見上げるその姿に、議場が一瞬、静まり返った。
(……フリッツ様)
一年前の夜会で、「僕がいなくても、誰も困らないよ」と言っていた人。
その人が今、議場の中央に立ち、国王の前で、堂々と対決を受けて立っている。
傍聴席で、母が扇の先で顎を軽く叩いた。
「……さて。見ものですわね」
低く呟かれたその声には、いつもの厳しさの奥に、かすかな期待が滲んでいた。
議会が散会した後、王宮の回廊は、興奮した貴族たちで溢れかえっていた。
「やはり、マクシミリアン殿下が有利だろう」
「いや、近頃の第二王子殿下の評判を知らないのか」
「アイゼンベルク公爵は、第一王子殿下につくようだな」
そんな声の間を縫って、シャルロッテはフリッツのもとへ向かった。
「殿下」
「シャルロッテ」
人目のある回廊では、互いに正式な呼び方で。フリッツは周囲の貴族たちに丁寧に会釈を返しながら、さりげなくシャルロッテを人の少ない脇廊下へと導いた。
角を曲がり、人の気配が途切れた途端――フリッツは、ふうっと大きく息を吐いた。
「……緊張した」
「とても堂々としていらっしゃいましたわ」
「そう見えていたなら、よかった」
フリッツは、少しだけ肩の力を抜いて、壁に背を預けた。
それから、シャルロッテに向き直る。
「ロッティ」
二人きりの時だけの呼び名。
「ロッティ。私はこの対決で、ミュールドルフだけじゃなく、もっとたくさんの村の水を変えたい。井戸の改修は、すぐに目に見える成果は出ないと思う。それでも、やりたいんだ」
青灰色の瞳が、まっすぐにシャルロッテを見つめていた。
「……手伝って、くれるか」
シャルロッテは、迷わず頷いた。
「もちろんです、フリッツ様。帳簿でも、計算でも、何でもお任せください」
フリッツの顔が、ふわりとほころんだ。
そして、そっとシャルロッテの手を取り、両手で包み込んだ。
「ありがとう。……君がいてくれて、本当によかった」
手袋越しに伝わる温もりに、胸がぎゅっと締めつけられる。
(好きな人と、一緒に戦う……。フリッツ様を、王太子に押し上げる……)
フリッツは、包み込んだシャルロッテの手を、そっと自分の口元に引き寄せた。そして、人目のない回廊の陰で、シャルロッテの額に、短く唇を落とした。
「……勝とう、ロッティ。君と一緒に」
囁かれた声に、額が熱くなる。
一年前、心の中で誓ったこと。
――この人が、ちゃんと陽の当たる場所に立てるように。
それが今、現実の目標として、目の前に立ちはだかっていた。
その時、回廊の向こうから、侍従長の姿が見えた。二人は慌てて手を離し、何事もなかったかのように姿勢を正す。
(……今の、見られてた?)
侍従長は、二人に丁寧に一礼して、陛下の私室へ続く扉を通り過ぎていった。
扉の向こうで、陛下が何を思っていらっしゃるのか。私には、知る由もなかった。
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