第30話 間話・フリードリヒの独白4
――私、フリッツ様のことが……
帰りの馬車の中で、私はずっと、自分の手のひらを見つめていた。
(あの続きは、何だったのか)
(心配です、か。誇らしいです、か。……婚約者としての、言葉か)
胸の奥に、昏く冷たいものが落ちる。
北棟に戻り、明かりもつけずに長椅子へ無造作に身を投げた。
目を閉じると、浮かんでくるのは、ピアノの前の彼女と――
演奏の後、彼女を囲んでいた男たち。
ロイター伯爵家の次男。ヴァイス子爵家の嫡男。
さっき、手帳に書き足した名前だ。
(彼らは彼女に笑いかけて、サロンに招きたいと言った。彼女は礼儀正しく微笑み返した。……ただ、それだけのことだ)
(それだけのことで、私はあの場から、彼女を引き剥がしたくてたまらなかった)
「……どうかしているな、私は」
物心ついた頃から、北棟は静かだった。
『殿下、陛下からのお言葉でございます』
『おめでとうございます、マクシミリアン殿下!』
形ばかりの言葉と、遠くから聞こえる兄への歓声。誕生日の朝、何か起きるかと窓の外を眺め続け、何も起きないまま日が暮れた。それを何度か繰り返して、期待するのをやめた。
(期待しなければ、傷つかない。欲しがらなければ、奪われない)
(深い井戸の底にいるようだった。見上げれば遠くに丸い空が見えても、手を伸ばそうとは思わなかった。どうせ、届かないから)
――その底に、手を差し伸べてきた人がいた。
『とても大切で、とても根気のいるお仕事だと思いました』
『素晴らしいお考えです』
『本当の殿下を、もっとたくさんの方に見ていただきたいんです』
(帳簿を拾い上げて、目を輝かせて。髪を切らせて、背筋を伸ばさせて、母のバイオリンを人前で弾かせて)
(彼女が、私を井戸の底から掬い上げてくれた)
(だから――手放せない)
(彼女がいなくなったら、私はまた底へ沈む。今度沈んだら、二度と這い上がれない)
ふと、恐ろしい考えがよぎった。
(北棟の奥の、あの音楽室。誰も来ない、あの部屋に彼女を連れていって、扉を閉めて。私だけが、彼女の笑顔を見て、私だけが、彼女の声を聞いて――)
「……っ」
長椅子から跳ね起きた。
額に、冷たい汗が浮いている。
(何を考えている。陽の当たる場所へ連れ出してくれた人を、私が暗がりに閉じ込めたいなど――それは、裏切りだ)
わかっているのに、その考えは頭の隅にこびりついて、離れない。
上着の内側から、白いハンカチを取り出した。
青灰色の刺繍は、毎日指でなぞっているせいで、糸が少し毛羽立っている。
額に押し当てて、息を吐いた。
(伝えなければ。このまま抱えていたら、いつか取り返しのつかないことをしてしまう)
(もし彼女が「婚約者としての務めです」と答えたら)
(……それでも、逃がさない。務めでもいい。
隣にいてくれるなら、いつかその心ごと、必ず私のものにしてみせる)
手帳を開き、今夜の日付の下に、一行だけ書いた。
――二人きりになれた時に、必ず伝える。
次に彼女が北棟に来るのは、五日後だ。
(それまで、私は――正気でいられるだろうか)
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