第29話 音楽会の夜
「緊張している?」
控えの間で、深い青の上着のフリッツ様が、私に静かに尋ねてきた。
手には、飴色のバイオリンを持っている。
「……少しだけ」
「私もだ。人前で弾くのは、生まれて初めてだから」
(そうだ。二十年近く誰にも聞かせなかった、母君の形見を、初めて人前で)
(私が緊張してる場合じゃない)
私は、そっとフリッツ様の手に触れた。
「大丈夫です。練習の時と同じように。……私が、隣にいますから」
握り返された手は、温かかった。
大広間には、三十名ほどの客人。窓辺にはヴィクトリア様。後ろには腕を組んだお父様と兄様、背筋をぴんと伸ばしたお母様。
(お母様まで……! プレッシャーが……!)
目が合う。フリッツ様が、小さく頷く。
――最初の一音。
私のピアノに、フリッツ様のバイオリンがそっと重なる。北棟で聞いた寂しい響きじゃない。長い冬を越えて、やっと陽を浴びた若葉みたいな音。
(フリッツ様の音が、変わってる……)
弓を動かしながら、フリッツ様がちらりとこちらを見て、目元を緩めた。
私にだけ向けられる、あの笑顔。
最後の和音が消えて、一瞬の静寂。そして、割れんばかりの拍手。
「素晴らしいわ……!」
「殿下が、これほどの腕前でいらしたなんて」
「シャルロッテ様のピアノも、見事でしたわ」
ヴィクトリア様が、珍しく扇子を開いたまま拍手している。お母様は扇の先で顎を叩いて――ふん、とそっぽを向いた。
(お母様の「ふん」、いただきました……!)
歓談の時間になると、私のところにも人が集まってきた。
「コルンフェルト嬢。あなたのピアノ、本当に素晴らしかった」
「今度はぜひ、我が家のサロンでも」
ロイター家のご次男と、ヴァイス家のご嫡男だった。
(あ……名簿の時の)
丁寧にお礼を返しながら、ふと視線を感じて顔を上げる。
離れた場所で、フリッツ様がこちらを見ていた。
(……フリッツ様?)
穏やかな微笑み。でも、目がまったく笑っていなかった……
♦
自分に声をかけるお客様がいなくなった所で、頬の火照りを冷ましに、
私はテラスへと出た。春の夜風が頬と気持ちを落ち着かせてくれる。
「――ここにいたのか」
「フリッツ様、お客様方は?」
「アルブレヒトとヘンリエッテ殿に任せてきた」
隣に並んだフリッツ様が、手すりに手を置く。
「ありがとう、ロッティ。君がいなければ、私は一生、あのバイオリンの音色を誰にも聞かせることはなかったと思う」
「フリッツ様の演奏が素晴らしかったから、どうしても多くの皆様に知っていただきたかったんです」
「ロッティ」
フリッツ様は私に向き直り手を取った。
手袋が、そっと外される。
(え……?)
素手になった私の右手の甲に、唇が触れた。
手袋越しじゃない直接の温もりが伝わってくる。
「――っ」
「……さっき、君のピアノを褒めていた男たちがいたね」
手の甲に唇を寄せたまま、低い声が囁く。
「君が誰かに褒められるのは、嬉しいはずなのに。……少しも、嬉しくなかった」
(それって……)
(今なら、言えるかもしれない。年越しの夜から、ずっとしまっていた言葉)
「フリッツ様。私……私、フリッツ様のことが――」
「シャルロッテ! 殿下! ヴィクトリア嬢がお帰りだそうだ、ご挨拶を!」
窓から、兄様の声が飛んできた。
弾かれたように、手が離れる。
(兄様……! タイミング……!)
フリッツ様は何か言いたげに私を見て、でもすぐ穏やかな顔に戻った。
「……行こうか」
先を歩く背中が、なぜか少し遠い。
――そして私は、見てしまった。
大広間へ戻る途中、フリッツ様が上着の内側から小さな手帳を取り出し、何かを短く書きつけて、すぐにしまっていたのを。
(……今、何を書いたの?)
あの手帳に何が書かれているのか、私はまだ知らない。
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