第28話 母の形見
(……やっぱり、フリッツ様が弾いてるんだ)
扉の向こうの旋律は、静かで、少し寂しくて、それでいて胸の奥を震わせる音だった。誰にも聞かれないことを前提に、自分のためだけに弾いているような。
最後の一音が消えるのを待って、私は扉を叩いた。
「……どうぞ」
一拍遅れた返事。扉を開けると、フリッツ様が慌てて、飴色の楽器をケースに戻そうとしていた。書棚の陰の、あの細長いケースに。
「ロッティ。……今日は、早かったんだね」
「申し訳ございません。……あの、先ほどのは東屋で口ずさんでいらした曲ですね」
フリッツ様は観念したように、小さく息をついた。
「聞こえていたか。……これは、母の形見なんだ」
ケースの内側には、柔らかな布と、小さな飴色の塊が収められていた。ふわりと、ほのかに甘い蜂蜜のような香りが立ちのぼる。
(……この香り)
「フリッツ様、それは?」
「蜜蝋だ。弓の竿と胴を磨くのに使っている。乾かすと、木が割れてしまうから」
(蜜蝋……! あの、蜂蜜みたいな甘い香りは、これだったんだ)
(夜会の帰りに借りた外套。クラヴァットを結んだ時の首元。ずっと殿下の匂いだと思ってたのは――二十年近く、誰にも知られずに、この楽器を磨いてきた香りだったんだ)
「母君の……」
「母は嫁ぐ前、よくこれを弾いていたらしい。七つの時、君の父上が遺品の中から見つけて届けてくださった。それから、誰にも教わらずに、見よう見まねで」
「ずっと、お一人で?」
「人に聞かせるようなものではないから。……弾いている間は、何も考えなくていい。本を読んでいる時と、同じだ」
(左手の指先が硬かったのは、弦を押さえていたから。……二十年近く、誰にも聞かせずに)
(この人は、どれだけの宝物を、一人で抱えてきたんだろう)
「フリッツ様。――演奏会を、開きませんか」
気づけば、口にしていた。
「お義姉様が、春の音楽会を開きたいとおっしゃっていたんです。そこで、一曲だけでも」
「私の演奏など、人に聞かせられるものでは――」
「そんなことありません! 私、今、本当に感動したんです」
フリッツ様は、バイオリンに目を落とし、それから私を見た。
「……一つ、条件がある。君も、一緒に弾いてくれないか。ピアノなら、妃教育で習っただろう」
「わ、私がですか?」
「君が一緒なら――弾ける気がするんだ」
(そんなこと言われたら……断れるわけ、ない)
「……はい。私でよろしければ」
練習場所は、北棟の奥の、使われていない小さな音楽室。
曲はフリッツ様が選んだ、春の小川のような二重奏曲だ。
「ここの入り、もう少しゆっくりでもいいかもしれない」
ピアノの前に座る私の後ろから、フリッツ様が楽譜を覗き込む。耳元に息がかかるほど、近い。
(心臓の音、聞こえてないよね……!?)
「この和音は、もう少し柔らかく。……こう」
後ろから伸びてきた手が、私の右手に重なった。導かれるまま鍵盤を押さえると、ふわりと和音が響く。
(手……! 後ろから……!)
和音が消えても、手は離れなかった。背後で、フリッツ様が息を止めた気配がする。
「……すまない。教えるつもりが、つい」
振り返ると、フリッツ様は窓の方を向いていた。でも、耳が見たこともないほど真っ赤だった。
(フリッツ様も、少しは――ううん。優しい人だから。勘違いしちゃ、だめ)
何度も重ねるうちに、二人の音は、言葉がなくても呼吸が合うようになっていった。
「……今の、とても良かった」
「はい。私も、そう思いました」
(この時間が、ずっと続けばいいのに)
♦
音楽会の日取りは、四月の終わりに決まった。
執務室でお義姉様が、招待客の名簿を読み上げていく。
「三十名ほどお招きいたしました。若い夫人方と令嬢方、それに殿方も少し」
「それから、ロイター伯爵家のご次男と、ヴァイス子爵家のご嫡男。どちらも音楽がお好きなのですって」
――その名前が読み上げられた瞬間。
隣で、フリッツ様の手の中のペンが、みしりと小さな音を立てた。
(……え?)
見上げた横顔は、いつもの穏やかな微笑みのままだった。
ただ、青灰色の瞳だけが、見たことのない冷たさで、名簿を見つめていた。
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