第3話 モブの王子様
夜会は、その後も続いた。
楽団は何事もなかったかのように演奏を再開し、給仕は再びグラスを配り始めた。
けれど大広間に満ちる空気は、もう先ほどまでのものではなかった。
どこを向いても、ひそひそ声が聞こえる。
「宰相閣下のお嬢様に、あのような……」
「お相手は男爵家の方ですって」
「殿下は本気でいらっしゃるのかしら」
シャルロッテは扇子を広げ、そっと口元を隠した。
(これ、前世だったら確実に某SNSでトレンド一位だよ……)
扇子で口元を隠しながら、私の頭の中には見慣れた画面が浮かぶ。
トレンド一位『#成人祝いで婚約破棄』
二位『#悪役令嬢ヴィクトリア様』
三位『#男爵令嬢の下剋上』
(まずは速報勢が「【悲報】第一王子、成人パーティで婚約破棄」って投稿して、そこから一気に拡散……)
――え、自分の成人祝いの席でやる? 正気?
――宰相の娘相手にこれは国が揺れるって
――ヴィクトリア様の返しが完璧すぎて泣いた。「皆様をお騒がせするわけにはまいりません」って何? 大人すぎん?
――男爵令嬢ちゃん、泣いてたの普通にかわいそうでもある
――#悪役令嬢とは #むしろ被害者では
(で、深夜になると考察勢が「そもそも宰相派と第一王子の関係は」って長文スレッド立てて、絵師さんがヴィクトリア様の扇子ぱちんシーンを描いて万バズして……)
(――ところで第二王子いた? →いた(らしい) →存在感ゼロでwww)
(いやwwwじゃないのよ! いたのよ! 私の隣にずっといたのよ!)
「……ッテ、…シャルロッテ」
すぐそばで名前を呼ばれ、シャルロッテはびくりと肩を跳ねさせた。
フリードリヒ殿下が、少し不思議そうにこちらを覗き込んでいる。
(――はっ!まずい!!)
慌てて頭をふるふると振って、脳内のタイムラインを閉じる。
「し、失礼いたしました、殿下。……少し考え事を」
「いや。……疲れただろう」
殿下はそれ以上追及せず、静かに話を続けた。
「侯爵夫妻とベルトル夫妻には伝えておいた。四人はもう少し残るそうだが、君は先に帰った方がいい。……送ろう」
シャルロッテは、ぴしりと固まった。
(前世の記憶で頭がいっぱいで、お父様お母様と兄様夫妻に声をかけるの、すっかり忘れてたよ……!)
今夜の夜会には、私の家族総出で出席していたのだ。
コルンフェルト侯爵当主の父が、殿下の亡き母君の兄だった関係で、我が家は殿下の後ろ盾になっている。兄様もフリードリヒ殿下の側近として働いている。
だから殿下とコルンフェルト家の繋がりは、どちらかというと深い方だが、家族の私が声を掛けずに、殿下から先に声を掛けてもらうなんて申し訳ない……
「ありがとうございます。ですが、殿下がお席を外されては」
「私がいなくても、誰も困らないよ」
さらりと言われて、返事に詰まった。
(自嘲でも、拗ねてるのでもない。……ただ事実を述べるような、平らな声だ)
殿下は私の手を取り、人の少ない壁際を選んで、ゆっくりと歩き出した。
正面の大扉ではなく、脇の回廊へ。
ほどなくして、前方から数人の令嬢たちの笑い声が聞こえてきた。
「今日は第二王子殿下はいらしてたのかしら?」
「さあ、気づかなかったわ。いつもそうじゃない」
「――それにしても、第二王子殿下の婚約者の方も、ねえ」
「どなただったかしら。あの地味な苔色の……」
くすくすと、悪気のない笑いが聞こえてくる。
令嬢たちの笑い声で私が足を止めるより先に、殿下がすっと進路を変えた。
何も言わずごく自然に、一本手前の角を曲がる。
令嬢たちの声は、すぐに遠ざかっていった。
(……今、わざと?)
横顔をうかがう。殿下は相変わらず穏やかな表情で、前だけを見ている。
(いや、わざとだ。絶対のわざと!私に心無い言葉を聞かせないように、道を変えてくれた)
♦
回廊を抜けると、春の夜気がひやりと頬を撫でた。
春とはいえ、夜はまだ少し冷える。思わず肩をすくめると、肩にふわりと重みが落ちてきた。
肩にかかった重みは、濃紺の外套だった。
殿下が自分の肩から外してかけてくれたのだ。
外套からは、インクとほのかに甘い蜂蜜のような香りがしている。
(……殿下から蜂蜜の香り?)
(はっ!今は匂いを嗅いでる場合じゃない)
「殿下、いけません、お風邪を召してしまいます」
「平気だ。君の方が薄着だろう」
そう言って、殿下は少しだけ困ったように微笑む。
車寄せには、すでにコルンフェルト家の馬車が回されていた。
正面玄関は帰りの馬車で混み合っているはずなのに、こちらの脇門には一台も並んでいない。
「……馬車を、こちらに回してくださっていたのですか」
「正面は今、人が多いから。騒ぎの後で、あれこれ聞かれるのも疲れるだろう」
(いつの間に……!?)
騒動の間も殿下はずっと自分の隣にいたはずだ。
それなのに家族への伝言も、帰りの段取りも、すべて整えてくれていた。
馬車へ乗り込もうとした私に、殿下が静かに言った。
「マクシミリアン兄上のことで、君が気に病むことはない」
「はい」
「それから――シャルロッテは、ヴィクトリア嬢とは親しかったね。落ち着いたら、手紙を書いてあげるといい。君の言葉なら、きっと届く」
(ヴィクトリア様とのこと、お茶会で一度か二度話しただけなのに……)
「殿下は……あの時、何もおっしゃいませんでしたね」
思わず、口をついて質問が出た。
責めるつもりはなかった。ただ知りたかったのだ。
殿下は少しだけ目を伏せると、静かに答えてくれた。
「私が何か言えば、かえって場が乱れる。兄上の祝いの席で、私が前に出るわけにはいかないから」
穏やかな声だった。けれどその奥に、長い年月をかけて降り積もったような、静かな諦めが透けて見えた気がした。
「……おやすみ、シャルロッテ。気をつけて」
扉が閉まって馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外で、殿下が小さく手を上げるのが見えた。夜の闇に、くすんだ金の髪がぼんやりと浮かんだと思ったら、すぐに見えなくなった。
(……待って。整理させて)
(疲れてないか真っ先に気遣って、好きな果実水を覚えてて、震えた手を握ってくれて。噂から黙って遠ざけて、外套を貸して、家族への伝言も馬車の手配も先回りして、ヴィクトリア様のことまで気にかけて)
(しかも、まったく恩着せがましくしない)
(……え、何この人。完璧じゃない?)
(ゲームでは立ち絵すらないモブ。でも今夜の私が見たのは――立ち絵がないのが、おかしいくらいの素敵な人だった)
そう思った途端、胸の奥で、小さく何かが跳ねる。
(……もしかして私、とんでもない原石の隣にいたんじゃない?)
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