第2話 推しが…解釈違いです!
「――今この場をもって、君との婚約を破棄する!」
高らかな宣言が、大広間の天井に反響した。
「ヴィクトリア。君のように冷たい女性を、僕は妃に迎えることはできない。僕が隣に望むのは、マリーのように心優しい人だ!」
楽団の弓が止まり、給仕の足が止まる。
グラスを傾けかけた貴族たちの手が、宙で固まる。
「こ、婚約破棄ですって……!?」
「この場で? 殿下ご自身の成人の祝いの席で?」
ざわめきの中で、私の頭の中だけが嵐のように騒がしかった。
(――知ってる。この台詞、知ってる……!)
蛍光灯の白い光。積み上がったファイルの山。電卓を叩く乾いた音。
『A社の決算、明日までにお願いね』
疲れた声の所長。年末から二月末まで、休みなんてほとんどなかった。
それでも頑張れたのは――
(明日、推しのイベントがあったから……!)
壁一面の缶バッジ。棚に並べたアクリルスタンド。有給を取ってまで手に入れた限定版のパッケージ。そして画面の中で微笑む、プラチナブロンドの王子様。
――『ローズ・クラウン〜薔薇の乙女と王冠の誓い〜』
(え……? 待って。待って待って待って!!)
思わず自分の手を見下ろす。
白い絹の手袋に包まれた、細くて小さな手。
キーボードを打つときに、指の太さにコンプレックスを感じていた私の手じゃない。
(私はシャルロッテ・コルンフェルト。十八歳。第二王子フリードリヒ殿下の婚約者。……それは、ちゃんと覚えてる。でも、その上から、会計事務所でアラサーまで働いてた"私"の記憶が、べったり貼りついてる……!)
目の前には婚約者を冷たく見下ろす王子と、その背に隠れる桃色のドレスの少女。
(ここ『ロズクラ』の世界だ……! しかもこれ、第一王子ルートの最終章――断罪イベントじゃない!)
ゲームはこの後、二人が結ばれて、スチルが出て、スタッフロールでおしまい。
(その「おしまい」の先に、私、立ってるんだけど……!?)
――A社の決算を片付けて、ふらふらで家に帰って、玄関で靴を脱いで。
そこから先の記憶が……ない。
(……私、死んだんだ)
不思議なほど静かに、その事実が胸に落ちた。
(お母さん、お父さん、ごめん。春には顔見せに帰るって言ったのに。
……チケット取ってくれた友達も、明日イベント会場の前で待ちぼうけだ!!)
(彼氏がいなかったのは……うん、この際よかったけど!)
(でも、新規ボイス! 生朗読! 限定アクスタ! そのために三ヶ月、決算地獄を耐えたのに……!!)
一番の心残りがそこなのは、我ながらどうかと思う。
でも本気で悔しいのだから仕方ない。
――それが、ほんの数瞬で駆け抜けた、前世の私とのお別れだった。
「……マクシミリアン殿下。お気持ちは、承りました」
凛とした声に、はっと我に返る。
ヴィクトリア様の声だ。真っ青な顔なのに、背筋は美しくまっすぐ伸びたまま。
扇子をぱちんと閉じる音が、やけに大きく響いた。
「ですが今宵は、殿下の成人をお祝いする大切な席でございます。これ以上、皆様をお騒がせするわけにはまいりません。お話の続きは、改めて場を設けていただけますでしょうか」
(……え、待って。すごくない?)
ゲームのヴィクトリアは、ここで取り乱してヒロインに詰め寄る。
そして近衛兵に引きずられて退場する――
それが、あの有名な断罪スチルだったのに。
(取り乱すどころか、殿下の面子まで守ろうとしてるよ……!)
「ヴィクトリア、君はそうやっていつも――」
「マクシミリアン様……っ」
言い募ろうとした殿下の袖を、少女がそっと引いた。
「わ、私のせいで、ごめんなさい……。お祝いの日なのに……」
サファイアの瞳いっぱいに、涙が溜まっている。
(……うん。マリーは、純粋で悪い子じゃないんだよね。ゲームで何度も一緒に恋をした、素直で優しい女の子)
(でも悪気がなければ、何でも許されるわけではない……)
「君が謝ることはない。――皆、騒がせてすまなかった。今宵は存分に楽しんでくれ」
殿下はマリーの肩を抱いて、広間の奥へと去っていく。
自信に満ちた背中、誰もが振り返るような完璧な王子様。
前世の私が、心の底から愛した推し――のはずなのに。
「宰相閣下のご令嬢を、衆人の前で……」
「オイレンブルク家が黙っているかしら」
「ご覧になって。陛下も王妃様も、お顔が……」
ひそひそと交わされる囁きが、耳に刺さる。
「……兄上は、取り返しのつかないことをした」
隣で、フリードリヒ殿下が低く呟いた。
「宰相閣下は兄上の叔父上だ。その上、兄上を王太子に推してくださっていた方なのに、そのご令嬢をこんな形で――ただでは済まなくなる」
(……ですよね!?)
ゲームの画面越しならときめいていた。
「君だけを守る」と囁く声に、何度も何度も悶えた。
でも、今ここにあるのは画面じゃない。
立ち尽くすヴィクトリア様がいる。
強張った大人たちの顔がある。
この先も、ずっと終わりなく続いていく現実がある。
(推しが……推しが、解釈違いです……!)
胸の奥で何年も燃え続けていた何かが、しゅうっと音を立てて小さくなった。
嫌いになったわけじゃない。ただあんなにも輝いていた推しの笑顔が、推しへの愛がすうっと遠くなってしまった。
「シャルロッテ。……大丈夫か? まだ、少し震えている」
握られたままの手が、あたたかい。
前髪の奥で、青灰色の瞳が心配そうに揺れている。
(そういえば……ゲームに、第二王子っていたんだっけ?)
思い返すと兄王子ルートで一言だけ紹介があった。
「弟の第二王子は目立たない方で」――たった一行。立ち絵も、台詞もない。
(この人、モブだったんだ)
そのモブが今、誰よりも先に私の震えに気づいて、手を握っていてくれる。
「はい。……大丈夫です、殿下」
侯爵令嬢として完璧な微笑みを返した、その時。
背後でくすくすと笑う声がした。
「でも、マクシミリアン殿下が王太子になることは揺るがないわ」
「第二王子殿下なんて、もう誰も覚えていないもの。ほら、今だって――」
「あら。いらしてたの?」
殿下は、聞こえていないはずがないのに、穏やかな表情のままだ。
しかし、ほんの少しだけ前髪の奥で哀しそうに目を伏せた。
(……は?)
”ぷつん”と、私の中で何かが切れた音がした。
(立ち絵がない? モブ? いらしてたの? ――冗談じゃない)
私の震えに真っ先に気づいて、気遣ってくれる人。
政略結婚相手の一度だけ話した、好きな飲み物をきちんと覚えてくれている。
誰にも期待されなくても、誰に何を言われても、文句ひとつ言わない人。
(こんな優しくて、素敵な人を誰も知らないなんて……!)
(勿体ない……なんで誰もこの人の良さに気づかないの……!?)
この夜が、私の人生をまるごと塗り替える始まりになる。
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