第25話 間話・アルブレヒト
side:アルブレヒト
翌朝の王宮の稽古場は、冷たく澄んだ空気に満ちていた。
木剣を構えた向かいに立つ男を、俺はじっと見据える。
額を出した金の髪。まっすぐに伸びた背筋。そして、以前とはまるで違う、揺るがない目。
(……本当に、変わったな)
『アルブレヒト。殿下の遊び相手になって差し上げなさい』
七つの時、父上に背中を押されて入った北棟の薄暗い部屋。その隅で、六つの王子が一人きりで本を読んでいた。
『……遊び方が、わからない』
それが、あいつの最初の言葉だった。
侍従も教師もいた。でも、一緒に遊ぶ相手は、誰もいなかった。
(それから、俺が木登りを教えて、剣の真似事をして、書庫に忍び込んで二人して叱られて。……あいつはいつも、俺の後ろを半歩遅れてついてきた)
その「半歩」の意味がわかったのは、十の時だ。
『今の、わざとだろう! 打ち込めば勝てたのに、なんで引いた!』
『…………』
『本気でやれよ。俺に失礼だろう!』
『……君の父上に、言われたんだ。目立ちすぎるなって』
(後ろ盾のない第二王子が目立てば、兄王子の周りが黙っていない。その矛先は、支える側――うちにも向く)
(あいつは、自分だけじゃない。俺の家まで守るために、半歩引いてたんだ)
だから、俺はもう何も言わなかった。
十六で、正式に側近を命じられた時もそうだ。
『派閥を考えれば、兄王子殿下につく方が家のためでは?』
『得にならない方へ賭けるのが、コルンフェルト家の流儀だ』
父上はそう言って、ゆっくりと顎を撫でただけだった。妹まで、あいつの婚約者に据えて。
(本当は誰よりもできるくせに。誰よりも優しいくせに。それを誰にも知られないまま終わるのかと思うと、腹の底が煮えた)
(だから待った。あいつが自分から前に出る日を。……あいつを前に押し出す誰かが、現れる日を)
(――まさか、それがうちの妹だとは思わなかったけどな)
去年の春の夜会から、ロッティは変わった。
(最初は、頭でも打ったのかと思った。父上の言いつけ通り、一歩下がって大人しくしてた妹が、急に北棟に通い出して、帳簿を手伝って、殿下の髪型にまで口を出し始めたんだから)
(でも、すぐに気づいた。――変わったのは、殿下の方だ)
妹が何か言うたび、目元がふっと緩む。妹が帰った後の執務室で、一人、窓の外を眺めて小さく笑っている。
そして、年越しの露台。
(鐘の音の中で、殿下が妹の頬に口づけて。妹が背伸びして、口づけを返して。……あいつら、俺がいるのに気づいてなかったよな?)
思い出すだけで、口元がにやけそうになる。
――けれど、俺はあの夜、もう一つ見てしまった。
妹に声をかけようとした男たちを、殿下が一瞥だけで退けたところを。
穏やかな微笑みはそのままに、青灰色の瞳だけが、ひどく冷たく光っていた。
(十五年隣にいて、初めて見た目だ。何も欲しがらずに生きてきたあいつが、初めて何かを欲しがってる。……嬉しいような、少しだけ、空恐ろしいような)
「行くぞ、アルブレヒト」
「ええ。どうぞ、殿下」
一撃目から、重い。
受け止めた腕が痺れる。二撃、三撃。息をつく暇もない。半歩引くどころか、一歩ずつ、確実にこちらを追い詰めてくる。
(速い……っ!)
四撃目で、木剣が弾き飛ばされた。
気づけば俺は床に尻をつき、喉元に切っ先を突きつけられていた。
「……ははっ! 十年分の借りを、一度に返された気分ですよ」
「すまない。加減がわからなかった」
「加減など、しないでくださいと申し上げたんです」
差し出された手を取る。思っていたより、ずっと大きくて力強い手だった。
「それで、殿下。妹には、いつ本当のことを言うおつもりです?」
ぴたり、と殿下の動きが止まった。
「……何のことかな」
「おとぼけにならないでください。年越しの露台、ぜんぶ見てましたよ」
殿下の耳が、見る見る赤くなる。
しばらく口を開けては閉じてを繰り返しながら、小さな声で言った。
「……ベルトル。彼女は、私のことを、どう思っているんだろう」
「どう、とは?」
「優しくしてくれる。支えてくれる。……でもそれは、婚約者の務めだからかもしれない。侯爵に言われているからかもしれない。私を押し上げてくれるのも、コルンフェルト家のためなのかもしれない」
声が、少しだけ低くなる。
「……彼女の心が、わからない」
(……おいおい。頬に口づけまでしておいて、何を言ってるんだ、この男は)
けれど、その横顔は真剣そのものだった。
(二十年、誰にも何も期待せずに生きてきた男が、初めて誰かの心を欲しがって、途方に暮れてる。……笑えないな、これは)
「それは、ご自分で確かめるしかありませんよ」
「わかっている。……ベルトル。シャルロッテは、何色が好きだろう」
(――そこから!?)
今度こそ、声を立てて笑ってしまった。
「好きな色を聞くより、似合う色を贈る方が、妹は喜びますよ。……あいつ、自分に似合う色なんて、考えたこともないでしょうから」
「似合う、色……」
殿下は、何かを決めたように、静かに頷いた。
(ああ、これは――長くなりそうだ)
――三日後。北棟から帰ってきた妹は、耳まで真っ赤で、手にした葡萄酒色の布見本を、大事そうに胸に抱えていた。
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