第24話 もう、推しなんかじゃない
「領地の雪解けは、例年より少し早そうでな。今年の麦は期待できそうだ」
「それは何よりです、侯爵」
「殿下。明日は手加減なしですからね」
「それは私の台詞だよ、アルブレヒト」
お父様の穏やかな声。兄様の軽口。お母様は何も言わず、殿下のナイフの使い方をじっと観察している。
(お母様、目が完全に審査員……!)
コルンフェルト家の食卓に殿下が加わるのは、私の誕生日以来だ。
(それにしても……お父様たちの前では、兄様のこと「アルブレヒト」って呼ぶんだ。「ベルトル」は、ごく内輪の時だけ。そういう線引き、殿下らしいな)
食後、殿下はお父様と少し言葉を交わしてから、帰路についた。
玄関で馬車を見送って、ほっと息をついた――その瞬間。
「さて、シャルロッテ」
振り返ると、アルブレヒト兄様とヘンリエッテお義姉様が並んで立っている。
そして二人とも、妙に楽しそうな顔をしている。
(なんか、嫌な予感がする……)
「約束通り、顔を貸してもらおうか」
(な、何これ……尋問……?)
暖炉の前に座らされ、向かいに兄夫婦が並ぶ。
「そんなに身構えないで。怒っているわけではないのよ」
ヘンリエッテが、ふふっと笑った。
「ただ、驚いているの。あなた、この一年で本当に変わったわ。前は殿下の前でいつも一歩下がっていたのに、今ではお仕事を手伝って、装いまで整えて差し上げて。……年越しの露台では、頬に口づけまで」
「お、お義姉様っ……!」
(やっぱり見られてた……!)
「何かあったの?」
「……春先のマクシミリアン殿下の成人を祝う夜会で、思うところがあったんです。フリードリヒ殿下は、もっと正しく評価されるべき方だって」
(前世の記憶が戻りました、とは言えないけど……嘘ではない、はず)
「ロッティ。一つだけ教えてやる」
腕を組んだ兄様が、少しだけ声を落としてニヤリとする。
「殿下はな、お前の前でだけ、笑い方が違う」
(――え?)
「俺と話す時の殿下は、昔から変わらない。穏やかだが、一枚壁がある。だが、お前が何か言うと、その壁がなくなる。今日の書斎でもそうだったぞ。お前が『本当はとても素敵な殿下の魅力を、もっと沢山の方にを見ていただきたい』と言った時の、あの顔。……気づかなかったか?」
(気づいてない……! 自分のことで精一杯で、全っ然気づいてないよ……!)
「それにな。年越しの舞踏会で、お前に声をかけようとした男が何人かいた」
「わ、私に……?」
「皆、殿下と目が合った途端に引き返していったぞ。あの穏やかな殿下が、あんな目をするとはな」
「アルブレヒト様。あまりシャルロッテをからかわないで」
たしなめるお義姉様の目も、笑っていた。
「でも、私もそう思うわ。殿下は、あなたをとても大切にしていらっしゃる。……庭での二人も、とても素敵だったもの」
(庭まで……!? ポケットまで……!? この家、隠し事できなさすぎない……!?)
「それでね、シャルロッテ。私たちも力になりたいの」
お義姉様が、すっと姿勢を正した。
「私、社交界には少しばかり顔が広いのよ。私の実家のリンダウ家の伝手もあるし、若い夫人方のお茶会にもよく呼ばれるわ。殿下の評判を広めたいなら、お手伝いできることがあるはず」
(お義姉様……! それ、推し活で言うところの、強力な布教仲間……!)
「俺は、父上と一緒に殿下の足元を固める。だからお前は、殿下の隣で、殿下を引っ張り上げてやれ」
兄様は、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。
「……妹にこんなことを頼むのは、少し情けないがな」
「アルブレヒト兄様……お義姉様……。ありがとうございます」
客間を出ると、廊下の角でお母様とすれ違った。扇の先で、軽く顎を叩いている。
「……顔が赤いわよ、シャルロッテ」
「こ、これは暖炉の前にいたからで……!」
「そう」
それだけ言って、お母様はふんと鼻を鳴らした。その口元が、ほんの少しだけ緩んでいたような気がした。
その夜。寝台に潜り込んでも、兄様の言葉が頭から離れなかった。
(殿下は、私の前でだけ笑い方が違う……? そんなわけ、ないよね?)
(推しのことなら何でも見てるつもりだったのに。一番大事なことを、見落としてたのかもしれない)
コン、コン、と扉が鳴った。
「お嬢様。夜分に失礼いたします。北棟の殿下より、お手紙が」
(……え? 今?)
受け取った封筒には、見慣れた几帳面な筆跡。
――ロッティへ。
(宛名が、愛称……!)
震える指で封を切る。便箋は一枚だけ。
――今日は、ありがとう。
――庭で繋いだ君の手の温かさが、まだ、このペンを握る手に残っている。
――次に会えるのは、三日後だろうか。それまでが、ひどく長く感じる。
――会いたい。
フリッツ
(…………会いたい、って)
(推しからの手紙――ううん、違うよ。もう推しなんかじゃない。好きな人からの、手紙だ)
(でも……婚約者への礼儀かもしれない。明日の稽古を控えて、気が高ぶってただけかもしれない。期待しすぎちゃだめ………)
そう言い聞かせるのに。最後の一行だけ、インクがほんの少し滲んでいた。まるで、書くのをためらって、ペン先を押しつけたまま迷っていたみたいに。
(どうしよう……期待しちゃだめと理解していても、フリッツ様も一緒の気持ちじゃないかって期待しちゃう……!)
便箋を胸に抱いたまま、私は結局、朝まで一睡もできなかった。
――翌朝の王宮の稽古場で起きた出来事を、私はその日の夕方、兄様の口から聞くことになる。
「ロッティ。殿下に、本気で負けた」
なぜか、ひどく嬉しそうな顔で。
「それから――殿下に、とんでもないことを相談された」
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