第23話 フリッツの覚悟
二月の終わり。まだ雪の残る休日の午後。
アルブレヒト兄様の書斎には、暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響いていた。
「急にお呼び立てして、申し訳ございません、殿下」
「構わないよ、ベルトル。君から改まって話なんて珍しいな」
(今日も推しの顔が良い……って、今日はそういう日じゃない。兄様、殿下だけじゃなく私まで呼んで、何を話すつもり……?)
フリッツの顔を正面から見据えている、アルブレヒトの表情は真剣な眼差しだ。
「殿下。単刀直入に申し上げます。――そろそろ、本気を出されてはいかがですか」
「……何のことかな」
「おとぼけにならないでください。何年お側にいると思っているんです」
アルブレヒトは、指を一本ずつ折っていく。
「剣の稽古。踏み込めば勝てる場面で、殿下は必ず半歩引かれる」
「…………」
「座学の試験。答案はいつも、兄上殿下より一つか二つ下。毎回、きっちりと」
「…………」
「ダンスも、乗馬も、語学も。何もかも、わざと二番手に収めてこられた」
(……え? 剣も、試験も、全部……?)
(殿下が実力を隠していることは、薄々わかっていた。でも、そこまで徹底していたなんて……!)
「……気づいていたのか」
「最初から。そうせざるを得ないお立場なのも、わかっておりましたから」
殿下は、膝の上で指先をきゅっと握り込んだ。
「ベルトル、私が目立てば兄上の周りが黙っていない。そうなれば困るのは、私だけではない」
青灰色の瞳が、一瞬だけ私を見た。
「君の父は、侯爵家には何の得にもならないのに、リスクを承知で君を私の側近にしてくれた。シャルロッテも私の婚約者に。……コルンフェルト家の子を、二人とも私に預けてくれたんだ。私が兄上に睨まれれば、侯爵家まで危うくなる。その恩を、仇で返すわけにはいかない」
(……そういうこと、だったんだ)
(目立たず、劣らず。殿下がずっと控えめにされていたのは、立場の危うい自分の身を守るためだと思ってた。でも違う。この人は――お父様を、兄様を、私を守るために、ずっと自分を殺してきたんだ)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「殿下。父も私も、とうに覚悟の上でお側におります」
アルブレヒトの声が、少しだけ柔らかくなる。
「それに――もう遅いんですよ」
「遅い?」
「殿下はもう、目立ってしまわれた。我が妹のおかげで」
(ア、アルブレヒト兄様……!)
「年越しの舞踏会以来、王宮で殿下のお名前を聞かない日はありません。今さら地味な第二王子には戻れませんよ。――一番危ういのは、中途半端に目立つことです。侮られる程度の力しか見せなければ、『今のうちに潰しておけ』と思われるだけですから」
「……誰にも侮られないほどに、か」
「ええ。足元は、父と私が固めます。殿下は前だけ見ていてください」
沈黙が落ちる。殿下の視線が、ゆっくりと私に移った。
(言わなきゃ。今、ちゃんと)
「殿下。私も、兄と同じ気持ちです。……ずっと守ってくださって、ありがとうございました。でも、もういいのです。もう隠れないでください。本当はとても素敵な殿下の魅力を、もっと沢山の方に見ていただきたい、知っていただきたいんです!」
長い沈黙のあと、殿下はふっと肩の力を抜いた。
「……二人がかりでは、敵わないな」
顔を上げたその目の奥に、静かな光が宿る。
「わかった。もう、手を抜くのはやめる」
「やっと言ってくださいましたね! 何年待ったことか。では手始めに、明日の稽古で私に本気で勝ってください。半歩引くのは無しですよ」
「……容赦しないぞ」
「望むところです」
(幼馴染の友情……! アルブレヒト兄様と殿下の関係性、尊すぎない……!?)
「さて、私は父上に報告してまいります」
アルブレヒト兄様はさっさと立ち上がり、去り際に、私にだけわかるように片目を瞑った。
(……アルブレヒト兄様、絶対わざと二人きりにしたね)
「――ロッティ」
扉が閉まった途端、殿下の声がふっと変わった。
「少し、庭を歩かないか」
♦
庭に出て二人きりで歩くと、さく、さく、と雪が鳴る。
吐く息が白く溶けていくなかで、フリッツは足を止めた。
「驚かせてしまったね」
「いいえ。……知らなかったんです。フリッツ様が、ずっと私たちのために」
言葉の途中で、声が詰まった。
「知らなくて当然だよ。誰にも言うつもりはなかったから。……でも、君が知ってくれて、少し肩が軽くなった」
ふと、フリッツが私の手を見下ろした。
「また、冷えている」
そう言うなり、手袋ごと私の手を掴んで――自分の外套のポケットに、すっぽりと引き入れた。
(…………えっ)
(ポケットに……手を……!? こんなの、前世の少女漫画でしか見たことないんですけど……!?)
「これなら、温かいだろう」
平然とした声。でも、耳が赤い。
それはきっと、寒さのせいだけじゃなく………
「……はい。とても」
そう返事を返すと、フリッツの指がそっと私の指を絡めとった。
「ロッティ」
「はい」
「本気を出すと決めたのは、ベルトルに言われたからだけじゃない」
前を向いたまま、フリッツが言った。
「君が、隣にいてくれるからだ」
絡めた指に、ぎゅっと力がこもる。
シャルロッテも、フリッツに自分の気持ちが届くように、握り返した。
「それに……君に、聞いてほしいことがあるんだ。僕は、君のことを――」
「シャルロッテー! 殿下ー! お夕食のご用意ができましたわよー!」
屋敷の窓から、ヘンリエッテがにこにこと手を振っている。
(ヘンリエッテお義姉様……! 今!? 今なの……!?)
フリッツ様は、小さく咳払いをして、ポケットから手を出した。
「……続きは、また今度」
その「今度」がいつなのかを尋ねる前に、玄関の扉が開いた。
腕を組んで立っていたのは、父上への報告から戻ったアルブレヒト兄様だった。
「シャルロッテ。夕食の後、少し顔を貸せ。――お前にも、話がある」
にやりと笑ったその顔は、なぜかヘンリエッテとそっくりだった。
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