第21話 間話・フリードリヒの独白3
舞踏会が果てた後、私は明かりもつけずに、北棟の暗い窓辺に立っていた。
左の頬が、まだ熱い。
――わ、私も。ずっと、お側にいたいです。……フリッツ様。
震える声。背伸びをして、自分から頬に触れてきた、柔らかな唇。袖をつかんだ、小さな指。
頬をそっと触れた。
彼女の唇が触れたのだ。ほんの一瞬。けれど、確かに。
(……ロッティ)
心の中で、何度もその名を呼ぶ。
ずっと、呼びたかった。
アルブレヒトが、気安く彼女をそう呼ぶたびに、胸の奥がざわついていた。彼女の兄だから当然だと、わかっていても。
今夜、ようやく自分もその愛らしい呼び名で声を掛けられるようになったのだ。
二人きりの時だけの、特別な呼び名。
その響きを思い出すだけで、胸の奥が、甘く締めつけられる。
――それなのに。
フリードリヒは、窓枠を握る手に、ぎりっと力を込めた。
今日の舞踏会で気づいたのだ。
銀灰色のドレスを纏った美しい彼女に、若い貴族の子息たちが視線を送っていたのを。
最初の一曲を踊っている時から、気づいていた。広間の端で、グラスを片手に、彼女を目で追う男たちがいた。ロイター伯爵家の次男。ヴァイス子爵家の嫡男。井戸の話に興味を持ったという財務局のブラウンの弟も彼女を見つめていた。
彼女が夜風に当たっている時も、彼女に近づこうとして、隣に立つ自分の姿を見て引き返していった男が何人もいた。
(……当然だ)
今夜の彼女は、美しかった。
彼女を美しく引き立たせる銀灰色のドレスに身を包み、少しだけ柔らかく結い上げた髪。燭台の光を受けて輝く、潤んだヘーゼルの瞳。そして自分を見上げて、恥ずかしそうに微笑んだ表情。
あれを見て、心を動かされない男などいない。
わかっている。
わかっているのに――
腹の底が、煮えるように熱い。
(見るな)
心の中で叫ぶ。
(彼女を、見るな!)
二十年間、何も欲しがらずに生きてきた。何かを欲しがれば、それを奪われた時によけい辛い思いをするだけだ。ずっとそう言い聞かせて諦めていた。目立たず、劣らず、何も望まず。兄が何かを手にしても、自分には関係のないことだと、心を凪がせてきた。
それなのに今、たった一人の女性のことになると、どうしてこんなにも、心が波立つのか。
彼女が、他の男に微笑みかけるところを想像するだけで、息が苦しくなる。
彼女が、他の男の手を取るところを想像するだけで、目の前が暗くなる。
(……彼女を他の誰かに渡すくらいなら、今すぐ自分が――)
仄暗い気持ちがドロドロと心から尽きることなく溢れてくる。
フリードリヒは、被りをふって窓枠から手を離し、ゆっくりと息を吐いた。
窓ガラスには、昏い目をした自分の顔が映っている。額を出した髪。整えられた襟元。その顔は、見知らぬ男のように見えた。
(……落ち着け)
彼女は、自分の婚約者だ。政略で結ばれた縁だとしても、それは揺るがない。誰かが彼女に目を向けたところで、彼女が自分の隣からいなくなるわけではない。
それに今夜、彼女は言ってくれたのだ。
ずっと、お側にいたい、と。
自分から、頬に口づけまでしてくれた。
あれは、義務や役目で言える言葉ではない。――そう、信じたい。
フリードリヒは、上着の内側から、白いハンカチを取り出した。
誕生日に彼女がくれたものだ。
あれから、一日も手放したことはない。
ハンカチを、頬に押し当てる。彼女の唇が触れた、その場所に。
(……ロッティ)
彼女が隣にいてくれるなら、自分は何にでもなれる気がする。彼女が誰かに奪われるくらいなら、王太子でも何にでもなって、自分から離れられないようにしてやる。
――誰にも、渡すものか!
フリードリヒは、机の引き出しから、手帳を取り出した。
燭台に火を灯し、新しい頁を開く。
――ロイター伯爵家、次男。
――ヴァイス子爵家、嫡男。
――財務官ブラウンの弟、ヴァイス。
彼女に興味を持った男の名を書き記していく。
この後どうしてやろうか。
衝動のまま、今動くと自分でも何をしてしまうか検討がつかなくなる。
ただ――覚えておく、彼女を見つめていた男たちの名前を。
それが、どれほど歪んだことか、わかっていても。
――それに。
フリードリヒは、ペンを置いて、ふと手を止めた。
彼女は、本当に自分を想ってくれているのだろうか。
侯爵は後ろ盾の薄い第二王子を支えるために、娘と縁付かせてくれた。ロッティは、その父の意を汲んで、婚約者の務めを果たしているだけなのかもしれない。帳簿を手伝うのも、身なりを整えてくれるのも、コルンフェルト家の娘としての、役目だから。
今夜の口づけも――言い伝えに、応えてくれただけなのかもしれない。
(……それでも、構わない)
そう思おうとして、胸の奥が、きしむように痛んだ。
構わなくなど、ない。役目としての婚約者の立場だけでなく、どうしても、彼女の心が欲しい。それが手に入らないのなら、せめて――彼女の隣にいる権利だけは、誰にも渡さない。
(……アルブレヒトに知られたら、きっと呆れられるな)
自嘲するように小さく笑って、手帳を閉じる。
窓の外では、雪が音もなく降り始めていた。
フリードリヒは、ハンカチを胸に押し当てたまま、目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、鐘の音の中で、震えながら自分を見上げていた、あの顔。
――今年も、来年も、ずっと一緒にいてほしい。
あれは、言い伝えに乗せた、ただの祈りではなかった。
誓い、だった……と思う。
(たとえ、この先に何があっても、彼女だけは絶対に手放さない)
★評価・ブックマーク・リアクションを頂けると、とても嬉しいです!
更新頑張ります!




