第20話 頬への口づけ
深い青だった。
夜明け前の空のような、落ち着いた、けれど澄んだ青。仕立て屋の布見本の中からシャルロッテが選んだその色は、フリードリヒの顔の横にかざした瞬間、青灰色の瞳をすっと冴えさせた。
「シャルロッテ、これは少し派手すぎないか?」
「いいえ。華美な飾りは控えめにして、仕立ての美しさで見せるのです。目立ちすぎず、でも埋もれないように」
父の言葉が、頭の片隅にあった。――目立つなら、足元を固めてからだ。
だから、金糸の刺繍も、勲章の飾りもつけない。代わりに、フリッツの身体の線に合わせて、寸分の狂いもなく仕立ててもらう。
費用は、フリードリヒの予算帳から。ここ数年、割り当ての半分以上が手つかずで繰り越されていたのを、シャルロッテは見逃していなかった。
(予算の未消化、会計的には健全だけど、推し活的には大問題です!)
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年越しの大舞踏会が開催されている、王宮の大広間は無数の燭台の光に照らされ、まばゆいほどに輝いていた。
シャルロッテは、フリードリヒの腕に手を添え、大扉の前に立っていた。自分のドレスは、落ち着いた銀灰色。フリードリヒの青と並んだ時に、互いを引き立て合うよう選んだ色だ。
「……シャルロッテ」
シャルロッテが隣を見上げると、フリードリヒが小さく息を吐いた。
「正直に言うと、少し緊張している」
シャルロッテは、周りの侍従たちに見えないよう、そっとフリードリヒの腕に添えた手に、力を込めた。
「大丈夫ですわ。とてもよくお似合いです。――私が選んだ色ですもの」
フリードリヒは、少し驚いたようにシャルロッテを見下ろし、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……そうだったね」
扉が開く。侍従長の声が、第二王子殿下と、その婚約者の到着を告げた。
――その瞬間、大広間のざわめきが、ほんの一瞬、途切れた。
深い青の礼装に身を包み、額を出して髪を整えたフリッツが、ゆっくりと大広間へ足を踏み入れる。仕立ての美しい上着が、すらりとした肩の線を際立たせていた。
「……あれは、どなた?」
「第二王子殿下ですって」
「噂は本当でしたのね。あのようなお方だったなんて……」
(見てる……みんな、殿下を見てる……! 夜会で「いらしてたのかしら」って笑われてた人が、今、大広間中の視線を集めてる……!)
「フリードリヒ! 見違えたな! お前、そんな顔をしていたのか」
マクシミリアンが、屈託なく笑いながら近づいてきた。隣のマリーも、「とっても素敵です!」と両手を握りしめて、屈託のない笑顔で笑いかけてきた。
やがて音楽が始まると、何人もの令嬢たちが、さりげなく殿下の近くへと集まってきた。扇の陰から送られる、期待のこもった視線。
(……あれ)
シャルロッテの胸の奥で、何かが小さく、ちくりと疼いた。
(なんだろ、今の……。いやいや、推しが人気なのは良いこと! 布教の成果!)
自分に言い聞かせていると、フリードリヒがすっとシャルロッテに向き直り、手を差し出した。
「最初の一曲を、お願いできるだろうか」
周りの令嬢たちが、小さく息を呑む気配がした。
「……喜んで、殿下」
踊り始めて、シャルロッテはすぐに気づいた。
(上手い……!)
殿下のリードは、驚くほど正確で、滑らかだった。決して強引ではなく、けれど迷いがない。私の一歩一歩を、先回りするように導いてくれる。
(そうだった……。殿下、本当はダンスも得意なんだった。今まで、わざと卒なく目立たないように踊ってただけで)
くるりとターンするたびに、周囲から感嘆の声が漏れる。深い青と銀灰色が、燭台の光の中で重なり合う。
踊りながら、フリードリヒが、ふいに顔を寄せて囁く。
「……君が、一番綺麗だ」
耳元で囁かれた声に、足がもつれそうになった。
(い、今、何て……!?)
見上げると、フリードリヒは何事もなかったかのような顔で、けれど耳だけを赤くして、前を見ていた。
夜が更け、年越しの時刻が近づくにつれ、大広間の熱気は最高潮に達していく。
人の多さに少しのぼせたシャルロッテは、フリードリヒに促されて、大広間に面した露台に出た。
冬の夜気が、火照った頬に心地よい。見上げると、雪雲の切れ間に、星がいくつか瞬いていた。
「……寒くないか」
「大丈夫です。少し、涼しいくらいで」
フリードリヒは、それでも自分の上着の肩掛けを外して、シャルロッテの肩にかけてくれた。一年半前の夜会の帰り道と、同じように。
しばらく、二人とも黙って、夜空を見上げていた。
「シャルロッテ」
フリードリヒが、静かに口を開いた。
「一つ、頼みがある」
「はい」
フリードリヒは、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「……二人きりの時は、君を『ロッティ』と呼んでもいいだろうか」
シャルロッテは、息を止めた。
ロッティ。家族だけが呼ぶ、自分の愛称。
「アルブレヒトが、君をそう呼ぶのを、ずっと聞いていた。……僕も、そう呼びたいと、思っていた。」
夜目にもわかるほど、殿下の耳が赤い。
「……はい。殿下が、そう呼んでくださるなら。……嬉しいです」
「ありがとう、ロッティ」
――ロッティ。
フリードリヒの声で呼ばれた、自分の名前。家族に呼ばれるのとは、まるで違う響きだった。胸の奥が、じんと熱くなる。
「それから……君も、二人の時は、私を名前で呼んでくれないか。『殿下』ではなく。――フリッツ、と」
(推しを……愛称で……!? 呼び捨てで……!? 無理無理無理……!)
「……フ、フリッツ……さま」
精一杯、絞り出した声だった。
殿下は、一瞬きょとんとしてから、小さく吹き出した。
「様は、いらないのに」
「い、今は、これが精一杯です……!」
「……わかった。今は、それでいい」
その時、王宮の鐘楼から、重く澄んだ鐘の音が響き始めた。
ごーん。年越しの鐘。大広間から歓声が上がる。
シャルロッテの頭に、ヘンリエッテの言葉が蘇った。
――年越しの鐘が鳴る瞬間に、大切な人の頬に口づけを贈ると、その一年、ずっと一緒にいられるのですって。
(……っ)
顔を上げると、フリッツも、こちらを見ていた。
青灰色の瞳が、鐘の音の中で、静かに揺れている。
「……ロッティ。この国の、年越しの言い伝えを、知っているか」
声が出せずに、小さく頷く。
三つ目の鐘。
フリッツ様が、ゆっくりと身を屈めて――左の頬に、そっと唇が触れた。
(――――)
世界が、止まった。
鐘の音も、大広間の歓声も、冬の夜風も、何もかもが遠くなる。
ただ、頬に残る、温かな一点だけが、やけに鮮明だった。
「……今年も、来年も、ずっと一緒にいてほしい」
耳元で囁かれた言葉に、シャルロッテは、もう何も考えられなかった。
四つ目の鐘が鳴る。
シャルロッテは、震える指で、フリッツの上着の袖を、そっとつかんだ。
そして、背伸びをして――フリッツの頬に、自分からも、ほんの一瞬だけ、唇を寄せた。フリッツの身体が、びくりと固まったのがわかる。
「……わ、私も。ずっと、お側にいたいです。……フリッツ様」
顔から、火が出そうだった。
フリッツは、しばらく何も言わなかった。
それから――ぎゅっと、シャルロッテの手を握った。痛いほど強く。
「……ロッティ」
その声は、今まで聞いたどの声よりも、熱を帯びていた。
新しい年の最初の鐘が、夜空に響き渡っていた。
露台の扉の向こうで、兄が意味ありげにこちらを見て、にやりと笑ったのが見えた。
(アルブレヒト兄様……! 見てた……!?)
慌てて手を離そうとしたけれど、フリッツは、その手を離してくれなかった。
――その夜、屋敷に戻ったシャルロッテは、寝台の上で、ずっと左の頬に手を当てていた。
(……推しの尊さ、なんかじゃない)
ずっと、「推し活」という言葉で誤魔化してきた。応援したい、陽の当たる場所に押し上げたい、ファンとして、プロデューサーとして――そう言い聞かせてきた。
でも、頬に口づけてほしいなんて考えたこともない。推しの手を、離したくないなんて思わない。推しが他の令嬢に囲まれて、胸がちくりと痛んだりしない。
(私……フリッツ様のことが、好きなんだ)
はっきりと、そう思った瞬間、胸の奥で何かがほどけて、同時に、ぎゅっと苦しくなった。
(でも……フリッツ様は?)
今年も、来年も、ずっと一緒にいてほしい。――あれは、婚約者として、という意味だったのかもしれない。政略の婚約者として。後ろ盾の薄い第二王子を支える、コルンフェルト家の娘として。
言い伝えに合わせて、優しくしてくれただけかもしれない。
あの人は、誰にでも優しい人だから。
(……期待しちゃ、だめ)
そう思うのに、頬に残る温もりが、どうしても消えてくれなかった。
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