第19話 雪の日の温室で
「シャルロッテ。外は、ずいぶん冷えただろう」
今日は例年より少しだけ早く王都に初雪が降った。
北棟の執務室に入った途端、殿下が席を立ってきた。
「手袋が、雪で濡れている」
外すより先に、殿下が私の手袋をそっと抜き取った。現れた指先は、真っ赤だった。
「……冷たい」
眉を寄せた殿下が、ためらいもなく、私の両手を自分の両手で包み込んだ。
(え……っ、素手……!? 前回の恋人繋ぎは手袋越しだったのに……!)
暖炉の前まで連れていかれて、包まれた手が、じんわりと温まっていく。殿下の親指が、冷えた指の関節を一本ずつ、壊れ物を扱うようにさすっていく。
――ふと、違和感を覚えた。
(左手の指先だけ……皮膚が、少し硬い)
(ペンだこなら右手のはずなのに。……左手?)
聞こうとした時には、もう手は離れていた。
♦
「そうだ今日は、見せたいものがあるんだ」
フリードリヒに連れられて向かったのは、王宮の南の庭にある、ガラス張りの温室だった。
外は一面の雪景色なのに、温室の中は、春のように暖かかった。緑の葉が茂り、色とりどりの花が咲いている。湿った土と、甘い花の香り。
「わあ……」
思わず、声が漏れる。
「ここは、昔、王家が南の国々から取り寄せた珍しい植物を育てている温室なんだ。……そして、これを」
フリードリヒが指差した先に、一株の植物があった。
大きな葉の間から、燃えるような橙色の花が、鳥の翼のような形で咲いている。
「これ……!」
シャルロッテは、目を見開いた。
「『南洋諸島植物誌』に載っていた花ですわ! 挿絵で見て、いつか本物を見てみたいと……」
「ああ。君が、誕生日に贈った本の頁を、何度も開いていたと、アルブレヒトから聞いた」
(アルブレヒト兄様……! そんなことまで報告してたの……!?)
「温室の庭師に聞いたら、ちょうど今が花の時期だと言うから。……君に見せたくて」
フリードリヒは、少しだけ照れくさそうに、視線を花の方へ逸らした。
(推しが……私のために、わざわざ……)
胸の奥が、じんと熱くなった。
温室の片隅に置かれた長椅子に、二人で並んで腰を下ろした。フリードリヒが、どこからか取り出した『南洋諸島植物誌』を開く。
「この頁の花だろう」
「はい。ほら、挿絵と、本物が、ほとんど同じ……」
本を覗き込もうとして、身を乗り出す。
肩と肩が、ぴたりと触れ合った。
(…………っ)
離れなければ、と思った。でも、フリードリヒは、少しも身体を引こうとしなかった。むしろ、本を二人の間に置いて、同じ頁を覗き込むように、少しだけこちらに身を寄せてくる。
温室の中は、静かだった。遠くで、ガラスの屋根に雪が積もる、かすかな音がする。
二人で、一冊の本の頁をめくる。挿絵の花と、目の前の花を見比べる。この葉はどんな形だとか、この実は食べられるのだろうかとか、他愛ない言葉を交わす。
肩越しに伝わる、フリードリヒの体温。
(……幸せ、だな)
前世で、推しと一緒に過ごす妄想をしたことは、何度もあった。でも、こんなふうに、何でもない時間を、隣で過ごせる日が来るなんて。
やがて、フリードリヒがふと立ち上がった。
温室の奥の花壇から、小さな白い花を一輪、手折ってくる。雪のように白い、可憐な花だった。
「……少し、じっとしていて」
フリードリヒは、シャルロッテの前に立つと、その白い花を、そっと耳の上の髪に挿した。
指先が、こめかみを、かすめるように撫でていく。
「……やはり。よく似合う」
フリードリヒは、満足そうに目を細めた。
その眼差しが、あまりに優しくて、シャルロッテは息をするのも忘れていた。
(髪に……花……! 推しに、花を……! これ、完全に恋愛イベントのスチルじゃない……!?)
「あ、ありがとうございます……」
やっとのことで絞り出すと、フリードリヒは、ふっと小さく笑った。
「ところで、シャルロッテ。年越しの舞踏会の、礼装のことなのだけれど」
「は、はいっ」
慌てて姿勢を正す。そうだ、今日は、仕立ての相談もするつもりだったのだ。
「君が言っていた、仕立て屋に頼もうと思う。……色は、君が選んでくれないか」
シャルロッテは、目を瞬いた。
「私が、ですか?」
「ああ。君が選んだ色なら、きっと間違いない」
フリードリヒは、まっすぐにシャルロッテを見つめた。
「それに――君が選んでくれた色を、着たいんだ」
(…………もう、無理)
心の中で、シャルロッテは床に崩れ落ちていた。
その夜、屋敷に戻ったシャルロッテは、自室の鏡の前で、髪に挿したままの白い花を、しばらく見つめていた。
ヘンリエッテが、部屋を訪ねてきたのは、そんな時だった。
「まあ、シャルロッテ。素敵な花ね。……殿下から?」
「お、お義姉様……!」
お義姉様は、くすくすと笑いながら、椅子に腰を下ろした。
「そういえば、年越しの舞踏会ね。……知っていて? この国には、古い言い伝えがあるのよ」
「言い伝え、ですか?」
「ええ。年越しの鐘が鳴る瞬間に、大切な人の頬に口づけを贈ると、その一年、ずっと一緒にいられるのですって」
お義姉様が、意味ありげに微笑む。
「私も、去年の年越しに、アルブレヒト様から……ふふ」
(ほ、頬に、口づけ……!?)
シャルロッテの頬が、一気に赤く染まった。
年越しの舞踏会まで、あと二週間。
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