第16話 間話・フリードリヒの独白2
side:フリードリヒ
馬車の音が遠ざかっても、フリードリヒはしばらく車寄せから動けなかった。
右手に、まだ彼女の手の感触が残っている。
握ったのは、ほんの数拍だった。礼を伝えて、すぐに離すつもりだった。
それなのに――離れがたかった。
(……何をしているんだ、私は)
執務室に戻ると、机の上に置いてあったハンカチを手に取った。
本と羽根ペンの飾り刺繍、そして「F」の飾り文字。
一針一針、丁寧に刺された刺繍だった。
この糸の色に、フリードリヒは気づいていた。
青みがかった、灰色。鏡の中で毎朝見ている色と同じ。
――自分の、瞳の色。
(偶然か――?)
今まで誰からも相手にされてこなかった自分が、シャルロッテに思いを寄せてもらえるはずもない。愚かに期待などしてしまわないように、期待をすると裏切られた時に、更に辛くなる。理由をつけて何かの偶然でこの色になったのだと終わらせたかった。
しかし、春の夜会の後からシャルロッテは明らかに変わった。
それまでも決してフリードリヒを蔑んだりするような人ではなかったが、控えめで慎ましく、自ら率先して行動するような人柄ではなかったはずだ。
外套を自ら返しに来て、帳簿の手伝いを買って出て、フリードリヒの考えを「素晴らしい」と言って実現可能にする為に協力してくれている。
今までも誕生日には手紙と贈り物が届いていたが、今日は刺繍を刺して、好物を調べてケーキを焼いて、直接持ってきてくれた。
なぜ、そこまでしてくれるのか。
婚約者としての義務なのだろうか。コルンフェルト侯爵に、言い含められているのだろうか。後ろ盾の薄い第二王子を支えるのが、コルンフェルト家の役目だから。
(……いや)
フリードリヒは、机の上のケーキに目を落とした。
端が少しだけ焦げていて、アーモンドの並びが、ほんの少しだけ歪んでいる。料理人が焼いたものではない。彼女が、自分の手で焼いたものだ。
ハンカチの刺繍も、そうだ。一針一針、彼女が自分の手で刺している。
義務なら今まで通り購入した品物を、誰かに持ってこさせたらいい。
義務で刺繍や手作りのケーキはつくらないだろう。相手が喜んでくれるだろうかと考えながら、何日も、何時間も、手間と時間をかけなければ用意できないものだ。
――相手のことを、想っていなければ。
子どもの頃、兄の誕生日に王妃が手ずから刺繍した服を贈っているのを見たことがある。侍女たちが厨房で、兄の好きな焼き菓子を焼いているのを、北棟の窓から眺めたこともある。
羨ましかった。
贈り物を貰うこと自体ではない。誰かが自分のために時間を使ってくれること。自分が喜ぶ顔を思い浮かべながら、手を動かしてくれること。
自分が手にできないそれが、
どうしようもなく羨ましかった。
誕生日には、侍従長が王の形ばかりの祝辞を読み上げ、コルンフェルト侯爵からは領地の品が届き、アルブレヒトが一言、ハンスが一言、祝いの言葉をくれる。それだけで十分に恵まれているのだと、一人ではないと自分に言い聞かせてきた。
願っても手に入らないものを羨むのをやめた。
――そう、諦めていたものを。
今日、彼女が、両手に抱えて持ってきたのだ。
(……ロッティ)
まだ呼んだことのない、彼女の愛称が胸の中で勝手に零れる。
机の上にあったケーキを一切れ口に運ぶ。
少しだけ甘くて、少しだけ焦げた味がした。
それは今まで食べたどんな菓子よりも、美味しく感じた。
誰かに、想ってもらえている。
それだけで胸の奥がこんなにも熱くなるなんて、
――初めて知った。
義務や務めではなく、彼女自身の心が欲しい。
一度知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れない。そんなことを願うのは、初めてだった。
*********
シャルロッテに誕生日を祝ってもらってから、馬車の音が聞こえるたびに、ペンを止めて窓辺に立つ癖ができた。窓の外の車寄せを見るが癖になってしまったのだ。
頭ではわかっている。シャルロッテが北棟を訪れるのは週に一度。決まった曜日はない。だから、いつ来るのかわからないし、昨日の今日では訪ねてこないことも理解している。
コルンフェルト家の麦穂の紋章が見えれば、胸が跳ねる。違う家の馬車だとわかれば、小さく息をつく。
(……まるで、子どものようだ)
自嘲しながらも、やめられなかった。
五日目に、ようやく麦穂の紋章の馬車が車寄せに入ってきた時、フリードリヒは、自分がどれだけシャルロッテに待ち焦がれていたのか気づいた。
執務室に入ってきた彼女は、いつものように丁寧に挨拶をして、帳簿の整理を始めた。そして何気ない調子で言ったのだ。
「昨日、お義姉様が開いたお茶会に財務局の書記官様の弟君がいらしていて、東部の村の話を熱心に聞いてくださって。とても感じの良い方でしたわ。」
――ペンが、止まった。
「……そうか。」
(自分の返事の声は、低くなかっただろうか)
「はい、殿下の井戸のお考えを、少しだけお話ししたら、ぜひ詳しく伺いたいとおっしゃっていました。」
「……どんな男だ。」
「え?」
シャルロッテが、きょとんとした顔でこちらを見ている。
フリードリヒは、はっとして口を閉じた。
「……いや、何でもない。井戸の話に興味を持ってくれる人がいるのは、嬉しいことだ。」
穏やかに微笑んでみせる。
いつもシャルロッテに向けている微笑みになるよう気をつけて。
シャルロッテは、少し不思議そうに首を傾げてから「そうですわね。」と頷いて、帳簿に目を戻した。
その横顔を見つめながら、フリードリヒは、膝の上でぎゅっと指先を握り込んだ。
(書記官の弟か)
顔も名前も知らない男だ。彼女と井戸の話をしただけだ。何もおかしなことはないし、彼女から私へきちんと報告してきてくれている。
それなのに、胸の奥がじりじりと焦げつくように熱い。
その男は彼女の笑顔を見たのだろうか。
彼女が帳簿の話をする時の、あの輝くような目を。
(……見せないでほしい。)
その美しいヘーゼルの瞳に、自分以外を誰も映さないで欲しい。
フリードリヒは、自分の中に湧き上がった感情に、少しだけ戸惑った。
こんなことを思う資格など、自分にはない。
彼女は婚約者だが、政略で結ばれた縁だ。彼女の心までは自分のものではない。
わかっている、わかっているのに。
帰り際車寄せで、フリードリヒはまたシャルロッテの手を取った。
「シャルロッテ。……次は、いつ来てくれる?」
口にしてから、催促してしまって嫌がられないだろうかと思ったが、言葉は既に出ていて後の祭りだ。
シャルロッテは目を丸くして、それからほんのりと頬を染めて答えた。
「……では、三日後に。」
その答えに、胸の奥が、じわりと温かくなる。
「待っている。」
握った手を、今日もすぐには離せなかった。
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