第15話 推しの生誕祭です!
(本当に、何もないんだ……)
十一月八日、フリードリヒ殿下の二十歳の誕生日。
今日も王宮はいつも通りだった。朝のうちに陛下の形ばかりの祝辞が届いた――それだけだと、案内の侍従が教えてくれた。
北棟へ続く廊下で、私は腕の中の包みをぎゅっと抱きしめた。
(でも大丈夫。三週間かけて準備したんだから。前世では祭壇に供えるだけだった推しの生誕祭――今回は、本人に直接届けられる!)
執務室の扉を侍従が叩くと、いつもの穏やかな声が返ってきた。
「どうぞ。」
フリードリヒの様子は、いつもの日常と変わらない。
机に向かって帳簿を広げて執務を行っていた。
「シャルロッテ。今日は手伝いに来てくれる日ではなかったよね?」
「ええ、殿下。今日は殿下に別の用事があって、こちらに参りました。」
背筋を伸ばして、完璧なお辞儀。
「お誕生日、おめでとうございます」
殿下の手が、ぴたりと止まった。
「……覚えていたのか」
「はい、私の誕生日もお祝いしていただきましたもの。今度は私が、殿下をお祝いする番ですわ」
シャルロッテが差し出した二つの包みを、フリードリヒはゆっくりと受け取った。
「今開けてもいいか?」
「えぇ、こちらからどうぞ。」
包みを開いたフリードリヒが、またぴたりと止まる。
「これは……」
「僭越ながら、私が刺しました。殿下は、本と書き物がお好きですから。」
シャルロッテが用意したのは、フリードリヒのイニシャルと本と羽ペンを飾り刺繍で刺した白いハンカチだった。フリードリヒは視線をハンカチに落とすと、宝物に触れるかのような手つきで、その刺繍の上を指先でなぞっていた。
「ありがとう、大事にする…。」
(糸の色は殿下の瞳の色です! 推しカラーです! でも言いません! 九月にやられたから、こっそりやり返してます!)
もう一つは、小さな箱。蓋を開けると、アーモンドの香りがふわりと広がる。手のひらほどの丸いケーキの上に、薄切りのアーモンドが花びらのように並んでいる。
「……私が、焼きました。甘いものは、お嫌いではないと伺いましたので」
「君が……?」
「はい、料理人のようには、うまく焼けませんでしたけれど、家の厨房を少し間借りして今朝焼いてきました。」
(前世では、推しの誕生日に毎年、推しカラーのケーキを焼いて祭壇に供えてたんです……! まさか本人に食べてもらえる日が来るとは……!)
端が少しだけ焦げて、アーモンドの並びもちょっと歪んでいる。恥ずかしくて、扇子に顔を半分隠した。
「……誰に聞いた? 甘いものが好きだと」
「秘密ですわ」
(殿下ノート調べです! 机の二段目の引き出しに、こっそり砂糖菓子を隠してるのも、知ってます!)
殿下はしばらく何も言わなかった。
しかしハンカチの刺繍を親指でそっとなぞっている。慈しむように何度も、何度も。
「……誕生日に、こうして贈り物をもらうのは、いつ以来だろう。ハンスが毎年、朝一番に祝いの言葉をくれる。アルブレヒトも、一言だけ。伯父上からも届け物がある。……でも、こうして贈り物を持って、誰かが祝いに来てくれたのは………」
その先の言葉はなかった。
(……誰からも相手にされなくても平気…なんて人いないよね。)
誰にも祝われない誕生日を、二十回も繰り返して。宴の喧騒が遠くに聞こえる北棟で、一人、帳簿を広げて孤独に過ごしてきたのだ。
「殿下、ケーキは早めに召し上がってくださった方が、美味しく感じていただけるかと思います。よろしければ、今から召し上がってくださいませんか?」
努めて明るい声を出すと、フリードリヒは少しだけ目を瞬かせてから、ふっと口元をほころばせた。
「……ああ、そうしよう。」
紅茶を運んできたのは、白髪まじりの初老の侍従、ハンスさんだった。茶器を並べ終えると、一歩下がって深く一礼する。
「殿下。改めまして、二十歳のお誕生日、心よりお祝い申し上げます。――シャルロッテ様、本日はお越しいただき、ありがとうございます」
控えめな声。それ以上は何も言わず、音もなく部屋を出ていく。
(ハンスさん……殿下のこと、大切に思ってるんだ。臣下の分をわきまえた短い言葉。でも、込められたものは、きっと短くない)
殿下は、ケーキの一切れ目を噛みしめるように、ゆっくりと時間をかけて味わった。それから、少しだけ迷って、二切れ目に手を伸ばす。
(出た! 二つ目に手を伸ばす時の、ちょっと嬉しそうな顔! しかも私が焼いたケーキで! 生誕祭、大成功……!)
心の中でガッツポーズを決めていると、フリードリヒがふいにこちらを見た。
「シャルロッテ。……君の分も、ちゃんと食べて」
「ぜひ殿下がお召し上がりください。殿下のためにお持ちしたのですから」
「一緒に食べる方が、絶対美味しい」
そう言って、フリードリヒはケーキを一切れ小皿に取り分けると、シャルロッテの手にそっと載せる。 その時一瞬だけ、小皿を渡す指先が、シャルロッテの指に触れた。
(…………っ! ただの親切、ただの親切……!)
俯いて真っ赤になっている私には気づいていない。
(落ち着け、私…! 殿下は残りのケーキを食べてるし、意識しすぎだよ…)
話題転換でもして落ち着きを取り戻そうと、シャルロッテがフリードリヒの顔を見上げた時に、フリードリヒの瞳が前髪で隠れて見えないことに気がついた。
(ブルーサファイアのような綺麗な瞳なのに、見えなくて勿体ないよ…)
「殿下。前髪が、少し伸びていらっしゃいますね。」
「ああ……。切らなければと思いながら、つい。どうせ、誰も見ていないから。」
(……見てます!私が見てますよ――)
(殿下は頓着されてませんが、そのお顔とても整っていて綺麗なこと知っていますよ!)
私だけが知っているなんて、少し面はゆい気持ちもある。
でも、それだけじゃ足りない。この人の瞳の色も、穏やかな笑顔も、殿下の良い所をもっと、もっと沢山の人に知ってほしい。
(決めた…!推しの良さをもっとアピールして、沢山の人に伝えます!)
♦
フリードリヒは、いつものように車寄せまで送ってくれた。
馬車の扉の前で、シャルロッテがお辞儀をしようとした時
――フリードリヒが、ふいにシャルロッテの手を取った。
「シャルロッテ。今日は、ありがとう。……一生、忘れない」
低く、少しだけ掠れた声だった。
フリードリヒの手は、すぐには離れなかった。
一拍、二拍、三拍、
握られた手に、ほんの少しだけ力がこもる。
(え……長い……? 手、離れない……?)
顔を上げるとフリードリヒは、どこか名残惜しそうな目で、シャルロッテをじっと見つめていた。
(……殿下?)
「……気をつけて。」
フリードリヒがそう告げると、シャルロッテから名残惜しそうに手が離れていった。
♦
帰路の途中、私は馬車の中でずっと握られていた手を胸に押し当てていた。
(何、さっきの……。生誕祭のお礼……だよね?)
手のひらに残る温もりが、なかなか消えてくれない。
そして、窓の外を流れていく王宮の景色を見つめながら、決意を固めていた。
(推しの生誕祭の次は――ビジュアル改革です!)
その頃、北棟の執務室でフリードリヒが、刺繍のハンカチを握りしめたまま、長い間動けずにいたことを、シャルロッテはまだ知らない。
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