第13話 宙ぶらりんのマリー
(……マリー嬢?)
十月の半ば。北棟へ向かう東回廊の柱の陰に、淡い桃色のドレスがしゃがみ込んでいた。膝の上には、分厚い革表紙の本。栗色の巻き毛が、小刻みに震えている。
侍女に目配せして少し下がってもらい、私はそっと近づいた。
「……マリー様?」
「シャ、シャルロッテ様……! すみません、こんなところで、みっともないところを……」
「どうぞ、お使いくださいませ」
ハンカチを差し出すと、マリー様は俯いたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「系譜の授業で、また全然覚えられなくて……。『この程度も覚えられないのでは、到底王太子妃は務まりません』って……」
膝の上の本は、国内の貴族の系譜と紋章をまとめた、あの分厚い一冊だった。
(あー……あれは地獄だよね……。十二歳の私も、何度も泣いた)
「それに……私、まだどこのお家の娘になるのか、決まっていないんです。男爵家のままでは殿下とは結婚できないから、大きなお家の養女にならないといけないのに、引き受けてくださるお家がなくて……。王家にお嫁入りするには、たくさんの持参金もいるって。うちは、そんなにお金持ちじゃないから……」
(養女先。持参金。……そっか、そういう問題もあるんだ)
(ゲームのエンディングの「二人は結ばれました」の一枚絵の裏で、こんな問題が山積みになってたなんて)
前世で会計事務所にいた私には、痛いほどわかる。どれだけ気持ちがあっても、お金の問題はどうにもならないことがある。
「殿下は『心配しなくていい、僕が何とかする』っておっしゃってくださるんです。でも、私がちゃんとできないと、殿下にご迷惑が……」
(この子、本当にマクシミリアン殿下のことが好きなんだな……)
私は、ドレスの裾が汚れるのも構わず、マリー様の隣に膝をついた。
「マリー様。系譜の覚え方を、一つだけお教えしてもよろしいですか。紋章を、『絵』として、お話にして覚えるのです」
頁をめくる。
「たとえば、オイレンブルク家の紋章は梟。夜も目を開けて見張っている鳥。宰相閣下のお家ですから、国をいつも見守っている――と、お話にするんです。アイゼンベルク家は剣と山。山で鉄が採れるから、剣」
(前世の暗記術、ストーリー化……! 簿記の勘定科目も、これで覚えたんだよね)
マリー様は、指を口元に当てて小首を傾げた。
「……コルンフェルト家は、麦と太陽ですよね。お日様の下で麦がたくさん育つから、みんなのごはんを守ってるお家、ですか?」
「ええ、その通りですわ」
「すごい……! これなら、覚えられるかもしれません!」
両手を胸の前できゅっと握る笑顔に、思わずこちらまで頬が緩む。
(うん、かわいい。やっぱりこの子、悪い子じゃない)
「マリー! ここにいたのか」
回廊の向こうから、明るい声が聞こえてきた。プラチナブロンドを揺らして、マクシミリアン殿下が歩いてくる。私は素早く立ち上がり、お辞儀をした。
「うん? 君は……ああ、フリードリヒの婚約者か。コルンフェルト家の」
「シャルロッテでございます」
「そうだ、シャルロッテ嬢。マリーの相手をしてくれていたのか。ありがとう」
屈託のない笑顔。悪意も、含みも、何もない。
「しかし、あいつにこんな親切な婚約者がいたとはな。フリードリヒは昔から、何を考えているのかよくわからない奴だから」
そう言って笑うと、殿下はマリー様の手を取って去っていった。振り返ったマリー様が「ありがとうございました!」と小さく手を振る。
(……「何を考えているのかよくわからない奴」、か)
(悪気がないのはわかる。マクシミリアン殿下は、本当に弟のことを気にかけたことがないんだ。興味がないから、知らない。知らないから、見ていない)
(それって、フリードリヒ殿下が"見られていない"ことの、一番わかりやすい証拠だよね)
シャルロッテは北棟の方角を見つめ、やはりフリードリヒの良さをもっともっと普及しようと思った。
その夜。
「ロッティ。夕食の後、書斎に来なさい」
お父様から珍しく書斎へ呼び出された。
ゆっくりとした口調の奥に、いつもと違う響きがあった。
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