第十四話 王国の乱れ
アルディア大陸北西部――。
かつて「黄金の穂」と呼ばれた穀倉地帯は、今や死にかけた獣のように喘いでいた。
地面は干上がり、畑はひび割れ、風が吹くたびに痩せた土が灰のように舞い上がる。収穫の匂いなど、もう何年も漂っていない。代わりに満ちているのは、飢えと腐臭、そして“奪われる側”の沈黙だった。
そんな街道を、一人の司祭が歩いている。
擦り切れた灰色の外套。
煤けた革靴。
安物の木杖。
どこにでもいる、冴えない巡回司祭。
クロード・ヴァレンティスは、今日も何の感情もない顔で、荒れた石道を淡々と進んでいた。
「ご、ご容赦を……! 今年は本当に……もう麦が……!」
街道脇の畑から、悲鳴が響く。
クロードは立ち止まらない。
ただ、視線だけを向けた。
領主軍の兵士が、農夫の髪を掴み、泥の上を引きずっていた。痩せた男の頬は裂け、口から血が垂れている。その横では、まだ年端もいかない娘が、母親に抱きついて震えていた。
兵士は、税の催促状を泥へ叩きつける。
「侯爵様への上納だぞ? 飢えた? 関係あるか」
「払えねえなら、娘を出せ。王都の娼館なら銀貨にはなるだろ」
兵士たちの笑い声。
農夫が血を吐きながら叫ぶ。
「やめてくれ……! 娘だけは……!」
下卑た笑い。
農夫が必死に、這いずりながら兵士の足へ縋りついた。
「お、お慈悲を……娘だけは……ゆ、猶予を…!」
返ってきたのは鉄靴だった。
鈍い音。
農夫の身体が泥の上を転がる。
兵士たちは笑った。
クロードは、その横を通り過ぎる。
助けない。
街道脇の干からびた畑から、悲鳴が上がった。
クロードは足を止めない。
視線だけを、わずかにそちらへ流す。
泥まみれの農夫が、領主軍の兵士に髪を掴まれ、地面に引きずり回されていた。横では、怯えた女子供がボロ布のように震えている。彼らの足元には、数日前に兵士たちが「戦時特例」として通告していった、倍額の徴税令状が転がっていた。
「猶予だと? 侯爵様への上納に猶予などあるか! 金がないなら娘を差し出せ!」
錆びた鉄甲を嵌めた拳が、農夫の顔面を容赦なく殴りつける。
鈍い音。飛び散る血と、折れた歯。
兵士たちは下卑た笑い声を上げ、泣き叫ぶ娘の腕を掴んで強引に引き立てようとしていた。
凄惨な略奪の現場。
泣き叫ぶ親や娘の絶望。それを娯楽のように楽しむ、ぎらついた貪欲な兵士たちの瞳。
だが、クロードは動かない。
木杖を握る手に力を込めることも、兵士を睨みつけることもしない。ただ、感情の消えた灰色の瞳で、その光景を「見ているだけ」だった。
農夫が、血まみれの顔を上げてクロードの灰色を仰ぎ見た。その瞳には、神の代弁者たる聖職者への、縋るような哀願が混じっていた。
「あ……つ、司祭、様……たすけ……」
クロードは、その声に一切応えなかった。
ただ無言で、哀願する男の横を通り過ぎる。まるで、道端に転がるただの石ころを見るかのような、完璧な無関心。
クロードは振り返りもしない。
兵士の隊長が鼻で笑った。
すれ違いざま、兵士の隊長がクロードの背中に向かって、ペッと唾を吐き捨てた。
「ハハッ! 祈るしか能のねえ無力な司祭様だ! おい、女神様も娼館へ行けってよ!」
罵詈を背中で受けながら、クロードはただ歩みを止めず、現場を通り過ぎていく。
――だが、彼の思考は微塵も停止していなかった。
(……この場だけ、拳を振るって上手く躱せても仕方がない)
冷徹な計算が、彼の脳内を支配していた。
ここで兵士を殴り倒すのは容易い。棒術の一撃で喉を砕き、蒼術で死体をドブに溶かせばいい。
だが、そんな突発的な善行は何の解決にもならない。翌日にはさらに多くの兵士が押し寄せ、この村は文字通り見せしめに焼き払われるだけだ。システムそのものが腐っている以上、場当たり的な救済など、破滅の先延ばしにすらならない。
だから、目の前では通り過ぎる。
そして――誰も見ていない十分な距離まで離れてから、クロードは行動を開始した。
街道のカーブの先、村からも兵士からも完全に死角となった林の陰で、クロードは静かに足を止めた。
クロードは安物の木杖を地面に突き立て、外界へは一切漏れ出さない極小の魔力を、先ほど通り過ぎてきた畑の空間へと正確に滑り込ませた。
――灰術。
だが一般的な邪教徒達が使うものとは違う。
本来、灰術は術者自身の精神を侵食する危険な禁術だった。
邪教の力へ触れ続ければ、自我が摩耗する。
狂う。
壊れる。
だがクロードは違う。
放浪の旅の中で術式構造そのものを解析し、欠陥を潰し、独自に再構築していた。
感情汚染の遮断。
認識逆流の防壁。
精神負荷の分散。
常識外れの改良。
結果としてクロードの灰術は、
本来の副作用をほぼ受けない領域へ到達している。
だからこそ。
誰より冷静に。
誰より精密に。
人間の認識へ触れられる。
クロードは静かに目を閉じた。
意識が遠く伸びる。
畑の空気。
兵士たちの呼吸。
汗の臭い。
その全員へ、ほんの僅かな“違和感”を流し込む。
それだけ。
存在しない幻を見せるわけではない。
ただ、人の脳が持つ恐怖を少しだけ強める。
娘が咳き込んだ。
乾いた風で喉を痛めただけの、小さな咳。
だが兵士たち全員の脳裏に、同じ言葉が浮かぶ。
――黒肺枯れ。
北西部で最も恐れられる疫病。
兵士の一人が眉をひそめた。
「……おい」
娘を見る。
青白い顔。
痩せた身体。
乾いた咳。
急に“病人らしく”見えた。
別の兵士も顔をしかめる。
「なんか臭わねえか……?」
汗と泥の臭い。
だが恐怖に揺れた脳は、それを腐臭へ変換する。
隊長ロドリゲスの顔色が変わった。
三年前の黒肺枯れ−疫病地獄が脳裏をよぎる。
黒い痰。
腐った肺。
死体の山。
心臓が早鐘を打つ。
「離れろ」
掠れた声。
「は?」
「その娘から離れろ!!」
怒鳴り声。
空気が一変する。
人間の恐怖は連鎖する。
誰か一人が怯えれば、他も怯える。
兵士たちは互いの顔を見る。
全員、青ざめていた。
その表情を見て、さらに確信が強まる。
「あ、あの咳……」
「黒肺枯れじゃ……」
「クソッ、触っちまったぞ!!」
娘を掴んでいた兵士が飛び退いた。
農夫一家は呆然としている。
当然だ。
娘は病気ではない。
だが兵士たちの脳は、
既に“病人を見た”と結論づけていた。
隊長が叫ぶ。
「撤退だ!!」
「感染るぞ!!」
徴税も。
麦も。
娘も。
全部放り出し、兵士たちは馬へ飛び乗った。
蹄の音が遠ざかる。
畑には静寂だけが残った。
農夫が呆然と呟く。
「……助かった……?」
母親が娘を抱き締める。
誰も理由を知らない。
街道の先。
クロードは再び歩き始めていた。
表情は変わらない。
息も乱れていない。
副作用はない。
恐怖に飲まれることもない。
クロードの灰術は、既に通常の灰術ではなかった。
もちろん万能ではない。
灰術への耐性の高い者には効きづらい。
だが――。
過去の、黒肺枯れ流行の恐怖の記憶を持つ、あの兵士達には、よく効いた。
しばらく後。
徴税隊は近くの駐屯村へ駆け込んだ。
「北の農村だ!!」
「黒肺枯れの疑いがある!!」
隊長ロドリゲスが怒鳴る。
門番の顔色が変わる。
兵士たちは口々に訴え始めた。
「咳をしてた!」
「肌も変色してたぞ!」
「臭いも完全にアレだった!」
誰も嘘をついているつもりはない。
本当にそう見えた。
恐怖に染まった脳が、自ら現実を補強したからだ。
「徴税は中止だ!」
「封鎖を進言しろ!!」
恐怖はさらに広がっていく。
駐屯村の兵士は誰も確認しに行こうとはしない。
死ぬかもしれないからだ。
その様子を遠くから一瞥し、クロードは静かに目を細めた。
彼は兵士を操ったわけではない。
ほんの少し。
人間の恐怖を揺らしただけ。
その先は、人間自身が勝手に転がっていく。
責任を恐れ。
感染を恐れ。
死を恐れる。
だから利用する。
灰色の司祭は、夜の街道を静かに歩き続けた。
こんなものは応急処置に過ぎない。
腐敗領主は産まれ続け
兵士はまた村に来るだろう。
重税はなくならない。
飢えも終わらない。
だが。
今日、あの娘は売られなかった。
冬までの時間も少し稼げる。
それだけで十分だった。
クロードは歩く。
灰色の司祭として。
クロードは懐の手紙へ指先を触れた。
辺境修道院から届いた便り。
セレディアの真っ直ぐな文字。
『どうか、お身体を大切にしてください』
その一文を思い出した瞬間だけ。
灰色の男の目から、ほんのわずかに冷たさが和らいだ。
そして彼は再び前を向く。
この国はいずれ壊れる。
ならば、その時まで。
誰より静かに。
誰より深く。
腐った世界の土台を削り続けてやる。
クロードの中には暗い怒りがあった。




