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【挿絵あり】聖輪女神教団の司祭  作者: ドヨ破竹


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第九話:「名も無き奇跡」

第九話:「名も無き奇跡」


1. 繁栄の影、泥を啜るスラム


 空を、重苦しい灰色の雲が覆っていた。

 王都グランセイル。白亜の大神殿がそびえ立ち、選ばれた貴族や高位司教たちが酒池肉林の夜に溺れるその足元には、巨大な「裂け目」が存在している。


 王都南部。

 石造りの美しい街並みが崩れ始め、外壁都市のさらに外へと足を踏み入れると、そこは世界の境界線だった。

 途端に鼻を突くのは、家畜の糞尿と腐った生ゴミが混ざり合った強烈な臭気。ぬかるんだ泥の路地には、手足の痩せ細った子供たちが生気のない目でうずくまり、ただ時が過ぎるのを待っている。


 スラム街――ルーヴェル王国の繁栄から、完全に切り捨てられた場所。

 度重なる重税と治安悪化によって土地を追われた難民や、行き場を失った貧民が泥を啜るようにして身を寄せ合う地獄の片隅だ。


 その細い路地を、擦り切れた灰色の外套を纏った男が一人、淡々と歩いていた。

 クロード・ヴァレンティス。

 彼が身にまとう巡回司祭の灰色の衣は、この薄汚れた街並みの中ではひどく浮いて見えた。すれ違う住民たちの視線は冷たい。そこには、明確な「警戒」と「諦め」が混ざり合っていた。


(……相変わらず、歓迎されてないな)


 クロードは外套のフードを深く被り直し、胸中で小さく呟いた。

 それも当然だった。聖輪女神教団が独占する白聖術――回復術の治療費は、稀に行われる教団の名声を高める場合を除き、法外なほどに高い。正式な教育、秘匿された術式、そして教団が発行する治療資格。そのすべてが中央神殿の利権組織によって管理され、無許可の治療は「異端」として厳しく処刑される。


 病になれば、全財産を投げ打って教団に縋るしかない。それがこの大陸の構造であり、教団が莫大な権力と金を吸い上げるための完璧なシステムだった。

 当然、明日生きるためのパンすら持たない貧民たちに、教会が手を差し伸べることなどない。彼らにとって、司祭とは「自分たちを搾取し、見捨てる強欲な豚」の象徴でしかなかった。だからこそ、クロードがここを歩いていても、誰も奇跡など期待しないのだ。


クロードは他の回復術巡回一般司祭に比べ無償治療が圧倒的に多かったがスラム街の連中は個別事情など当然知らない。


---


2. 路地裏の絶望


「っ……うぅ……、あ、う……」


 突如、湿ったゴミ溜めの奥から、小さなむせび泣きが聞こえてきた。

 クロードが足を止めると、細い路地裏の影で、一人の少年が膝を抱えて泣きじゃくっていた。


 年齢は十歳前後。あばら骨が浮き出るほどに痩せ細り、身にまとっている服はボロ雑巾のように擦り切れている。顔は泥と涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。

 クロードは感情の起伏を見せない灰色の瞳で、その少年を見下ろした。


「どうした」


 冷淡とも取れる低い声。少年はびくりと肩を揺らし、恐る恐る顔を上げた。司祭を見て一瞬怯えの表情を浮かべたが、目の前の男の瞳に、中央の神官たちが持つような「蔑み」がないことに気づくと、藁をも掴む思いでその細い指先をクロードの外套に伸ばした。


「司、祭様……っ、おねがい、します……っ、か、母ちゃんが……!」


「病気か」


 少年は必死に、何度も何度も顎が外れるほどに頷いた。


「もう、ずっと動かなくて……! 身体が、すごく熱くて、呼んでも返事も少なくて……! お願い、助けて……!」


「…案内しろ」


 クロードの短い返信に、少年は弾かれたように立ち上がり、泥を撥ね散らしながら走り出した。

 辿り着いたのは、スラムの最奥に位置する、今にも自重で崩れ落ちそうな木造の小屋だった。隙間風を防ぐための油布が窓枠に打ち付けられ、中に入ると、ひんやりとした湿った空気と共に、安物の薬草を燻した苦い匂いが立ち込めている。


 部屋の隅、固い藁の寝台の上に、一人の女が横たわっていた。

 その顔色は完全に土気色に変色し、額からは異常な量の脂汗が噴き出している。ひび割れた唇から漏れる呼吸は浅く、今にも途切れてしまいそうなほど不規則だった。


「…………」


 クロードは無言で寝台に近づき、女の額にそっと触れた。

 皮膚を通して伝わる、異常な熱。それと同時に、彼の内なる魔力が女の体内を探知する。


(……死病モルブスか。内臓汚染に熱毒が完全に回っているな)


 クロードの眉が、僅かに寄った。

 病状は最悪の段階まで進行していた。通常の司祭が使う「初級回復術」など、何回重ねたところで気休めにもならない。それどころか、中央大神殿の高位術者であっても、莫大な聖触媒と金貨を積まれなければ、関わることすら嫌がる類の重症だ。

 何より、この女には治療に見合う金が、銅貨一枚すら無かった。


 女は、入ってきたクロードの気配を察したのか、微かに瞼を震わせて目をあけた。濁った瞳で司祭の姿を捉えると、申し訳なさそうに、弱々しく唇を歪めた。


「司祭、様……。ごめんなさい、ねぇ……。うち、お払いできる、お金、何一つ……なくて……」


「喋るな。魔力が乱れる」


 女はすべてを分かっていた。自分がもう助からないことも、この国では金のない命がどう扱われるかも。

 それでも彼女が無理に笑ってみせたのは、傍らで泣きじゃくる我が子を、少しでも安心させるための、母親としての最後の意地だった。


「母ちゃん……! 母ちゃん、死なないよな……!? 司祭様が来てくれたんだから、治るんだよね……っ!」


 少年が女の細い手を握り締め、絶叫する。

 クロードは数秒間、沈黙した。


(治すこと自体は、出来るだろう、だが……)


 彼にとって最大の懸念は、自身の「本来の力」が周囲に露見することだった。一般出身の、可もなく不可もない凡庸な巡回司祭。それが彼の命綱である偽りのプロフィールだ。もしこの病を瞬時に完治させたとなれば、噂が広がり、中央の腐った司教どもに「便利な医療資源」として拉致され、死ぬまで魔術を吸い取られる道具にされる。


 だが、彼の頭脳は一瞬でそのリスクを計算し、処理した。

 ここは誰も見向きもしないスラムの片隅だ。術式の外部出力を極限まで偽装し、外見上は「初級の光」に見せかければいい。仮に後から噂になったとしても、


『運良く本人の免疫で治った』

『元々そこまで深刻な状態ではなかった』

『安物の薬草がたまたま劇的に効いた』


 いくらでも言い訳のプロットは立つ。この国と教団に20年以上関わらされている為に、教団システムと人間の心理を逆手に取れば、誤魔化すことも出来るはずだ。


(まあ、帳尻さえ合わせれば何とでもなるか)


 クロードは小さく、誰にも聞こえない溜息を吐いた。そして、泣き叫ぶ少年の頭に無造作に手を置き、低く、だが絶対的な確信を込めて告げた。


「……死なせん。下がっていろ」


---


3. 擬態された秘跡


 クロードは不快な湿気を含んだ床に、躊躇なく片膝をついた。

 安物の木杖を横に置き、両手を女の胸元へとかざす。


「《聖輪の導き、光よ、その傷を癒せ》」


 口から突いたのは、教団専売の初級回復術魔導書の一ページ目に載っているような、ありふれた初級回復術の詠唱。彼の掌から溢れ出したのは、どこにでもある淡く、頼りない白色の光だった。

 外から見る限り、それは無能な一般司祭が必死に魔力を絞り出している哀れな光景にしか見えない。


(やるか…)


 しかし、その光の内側に隠された魔導構造スペル・アーキテクチャは、中央神殿の最高位司教すら腰を抜かすほどの、神話的かつ禁忌的な超高密度術式だった。


 クロードが放ったのは、灰術解析によって学び、教団の回復術術式を完全に解体・再構築した、超高位回復秘跡。さらにその術式の網の目に、毒素を根こそぎ分解する「特殊解毒術式」を重層的に編み込んでいる。


「っ……ぁ……、あ、がっ……!?」


 女の身体が、寝台の上で激しく跳ねた。

 女の体内へと侵入したクロードの濃密な魔力が、細胞の奥深くに巣食っていた熱毒と汚染物質を、容赦なく包囲し、消滅させていく。壊死しかけていた内臓の繊維が、猛烈な速度で細胞分裂を繰り返し、瑞々しい本来の機能を再生していく。


「はーっ、はーっ……っ!」


 女の全身の毛穴から、どす黒い悪臭を放つ汗が大量に噴き出した。ドロドロとした毒素が体外へ排出されるのと引き換えに、ヒューヒューと鳴っていた肺胞が大きく膨らみ、新鮮な酸素を吸い込み始める。

 少年の目が、驚愕に見開かれた。


「え……? 母ちゃんの顔が……」


 さっきまで死人のようだった女の肌に、みるみるうちに健康的な血色が戻っていく。

 クロードは額にわざとらしく汗を浮かべ、さも「全力を尽くして限界を迎えている」かのように呼吸を乱してみせたが、その灰色の瞳は完全に冷徹だった。内なる魔力の残量は、まだまだ余力を維持している。


 この世界における白聖術の本質は、術者の「生命力の消費」である。中央の無能な司祭たちは、自らの肉体を削りながら非効率的な術を使うが、クロードの構築した灰術式は、外界の微細なエーテルを効率よく変換するため、彼自身の消耗も軽減していた。

 ただ、周囲の目を欺くために、彼は「命を削って奇跡を起こしている聖者」のポーズを完璧に演じきっていた。


---


4. 豚から奪った黄金、泥への還元


 数十分の後、クロードが両手を引くと、小屋の中に満ちていた淡い光が霧散した。

 寝台の上の女は、深く、安定した呼吸を刻んでいた。衣服は汗で濡れているが、その表情には先ほどの苦悶は微塵もない。


「そんな……、まさか……っ」


 女は信じられないといった様子で自らの両手を見つめ、上半身を起こした。


「身体が……軽い……。胸の痛みが、嘘みたいに消えて……」


「母ちゃん……! 母ちゃん、よかった……っ、本当によかったぁぁ!」


 少年は我慢しきれず、母親の胸元へと飛び込んだ。女は我が子を強く抱き締め、二人は声を上げて泣いた。

 それは、絶望の淵から生還した者たちだけが流せる、歓喜の涙だった。


 貧民には絶対に届かないはずの、教団の最高秘跡。いやその代物以上が、それが今、この名もなき泥の小屋で、一銭の対価もなく与えられたのだ。女は涙を流しながら、信じられないものを見る目でクロードを仰ぎ見た。


「司祭様、貴方様は一体……。私たちは、何をお礼申し上げれば……」


「これを使え」


 クロードは女の言葉を遮り、腰の荷袋から、ずしりと重い革袋を取り出して枕元に無造作に置いた。

 カチャリ、と中で鈍い銀貨の音が響く。


「え……?」


「しばらく滋養を取れ」

 クロードは冷淡な声で淡々と言い放った。

「肉と豆を買え。卵もだ。温かい汁物を毎日作って、腹一杯に食え。あとは体力を戻すための薬草だ」


 袋の口から覗いたのは、スラム街の母子には、数枚の眩く見える銀貨だった。スラムの人間が一生かかっても拝めないような大金。

 これは数日前、王都近郊の成金貴族のバカ息子その2やその3が「ただの風邪」で死にかけていると大騒ぎした際、得意のハッタリと派手な光の演出で、命を削る秘薬と偽ってふっかけ、連日の治療だった為にまだ修道院に送付手続き前の、巻き上げてきた謝礼金だった。


 無駄に豪華な屋敷で、脂ぎった顔を歪めて泣いていた男の金。

 クロードにとって、あの手の貴族はただの「動く貯金箱」でしかなかった。その豚の腹から吐き出させた金を、こうしてスラムの泥の中へ還元する。


「こ、こんな大金……受け取れません! 私たちは何もお返しできないのに……っ」


「使えと言っている。持っていると目立つ、小出しに街の露店で使え。それから、そのガキにもまともな服を買い、飯を食わせろ。後味が悪い」


 少年は何度も、何度も床に額を擦り付けるようにして頭を下げた。


「ありがとう……! ありがとう、司祭様……! 僕、一生忘れない! 教団の偉い人たちにも、司祭様の素晴らしいお話をたくさんして、お礼を――」


「不要だ」


 クロードの口から、氷のように鋭い拒絶の言葉が飛び出した。


「勘違いするな。これは普通の、ただの初級回復術だ。お前たちの運がよく、たまたま薬草との相性で劇的に効いただけだ。俺の手柄でもなければ、奇跡でもない」


「ですが……!」


「教会の本部に余計な報告をしてみろ。その金は『不法な所持』としてすべて没収され、お前たちは異端の疑いで処刑される。俺の評判を上げようなどと、余計な真似は一切するな」


 冷酷な脅し。だが、それこそがこの親子を教団の魔の手から守るための、クロードなりの「鉄壁の護身プロット」だった。

 親子はクロードの迫力に圧倒され、呆然と言葉を失った。


 クロードは用は済んだとばかりに木杖を拾い上げ、荷袋を背負い直した。


「礼なら、女神様にでも勝手に感謝しとけ」


(腐った教団の連中ではなくな…)


 それだけを冷たく言い残し、灰色の外套を翻して、崩れかけた小屋の扉を開けた。


 外は相変わらずの曇り空で、冷たい霧雨が降り始めていた。クロードは誰とも目を合わせず、薄暗い路地の雑踏の中へと、その姿を消していった。


 少年は、彼が去っていった雨の路地を、いつまでも見つめ続けていた。その瞳には、絶望ではなく、微かな光が灯っていた。まるで、暗闇の中で一瞬だけ世界を照らした、本物の使徒の背中を見たかのように。


 女は枕元の銀貨袋を抱き締め、涙を流しながら、胸元で深く、深く祈りを捧げた。


「……女神様、ありがとうございます。あの優しく、気高き聖者様に、どうか無数の加護を……」


 王都南部、見捨てられたスラム街の片隅。

 教団の帳簿にも、歴史の記録にも、誰の記憶にも残らない「名も無き奇跡」が、静かに、しかし確かに少年の心に刻まれていた。


(第九話・完)

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