第七話 「潮鐘修道院の静かな籠城」
第七話 「潮鐘修道院の静かな籠城」
フェルナ群島――。
王国南東の海域に点在する、小さな島々の連なり。
青く澄んだ海。
白い砂浜。
潮風に揺れる椰子。
夕暮れになれば鐘の音が静かに波間へ溶けていく、美しい辺境の群島だった。
だが、その美しさの裏側で、この島々は王国から見捨てられていた。
複雑な海流。
暗礁だらけの危険な航路。
大型艦の運用に適さない地形。
そして何より、近年の王国本土の荒廃。
重税、貴族同士の権力争い、腐敗した教団と衰退した海軍。
中央は自分達の利権を守るだけで手一杯であり、辺境にまで手を伸ばす余裕など無かった。
その結果――フェルナ群島の周辺海域は、海賊達の縄張りとなっていた。
中でも恐れられていたのが、《黒牙海賊団》。
南方海域を荒らし回る凶悪集団。
商船を襲い、港町を焼き払い、抵抗する者を容赦なく殺す。
予算が十分にない王国海軍にとって、正面衝突を避けるべき危険な相手だった。
貴族達も討伐には動かない。
利益にならないからだ。
だから誰も止められない。
そんな連中の一部が、よりにもよってフェルナ群島へ流れ着いたのである。
◇
その報せが潮鐘修道院へ届いたのは、数日前のことだった。
「海賊……ですか?」
中庭でセレディアが、小さく手を止めた。
修道服に包まれた肉感的な身体つき。
柔らかな赤銅色の長い髪。
慈愛に満ちた穏やかな瞳。
島では既に有名だった。
美しい修道女として。
そして、誰にでも優しく接する心優しい女性として。
向かいで話を聞いていたリシェルは、露骨に顔をしかめる。
「最悪……。最近の港町襲撃、全部そいつら?」
漁師の男は青ざめた顔で頷いた。
「昨日は北の小島がやられた……。食料も酒も、全部奪われた。女を攫われた家もある……」
食堂の空気が凍り付く。
幼い孤児達が、不安そうにセレディアの袖を掴んだ。
「お姉ちゃん……海賊、来るの?」
「大丈夫ですよ」
セレディアはすぐにしゃがみ込み、子供の頭を優しく撫でた。
笑顔は柔らかい。
だが、その指先だけが微かに震えていた。
怖くないはずがない。
潮鐘修道院にいる“大人”は、実質的にセレディアとリシェルだけだった。
他には、修道女見習いになったばかりの十二、三歳ほどの少女が二人。
そして幼い孤児達。
戦える者など一人もいない。
武器もない。
兵士もいない。
王国軍も来ない。
もし本当に海賊が来れば、終わりだった。
◇
その夜。
修道院地下。
蝋燭の灯りだけが揺れる薄暗い空間で、リシェルが重い木棚を押していた。
ギギギ、と鈍い音を立て、壁際の棚が横へずれる。
その奥から現れたのは、狭い隠し通路だった。
「……これ作っといて本当に良かったわね」
「はい」
セレディアは静かに頷いた。
これは以前、クロードから送られてきた支援金で作ったものだった。
表向きは地下倉庫改装。
だが実際には、有事のための避難設備だった。
しかも設計図が異様なほど具体的だった。
『換気口を複数設置』
『入口は二重偽装』
『食料備蓄を推奨』
『地下空洞部の補強必須』
当時のセレディアは、
「クロード様は本当に慎重なお方なのですね」
と感心していただけだった。
だが今、リシェルは確信していた。
「あの人……絶対こういう事態想定してたでしょ」
セレディアは微笑む。
「きっと、私達を守ろうとしてくださったのです」
リシェルも、今だけは素直に頷いた。
◇
翌日。
夕暮れ前の海に、不吉な黒い帆が現れた。
――ゴォン、ゴォン、ゴォン!!
見張り台の警鐘が狂ったように鳴り響く。
「海賊だぁぁぁ!!」
「黒牙海賊団だ!!」
「逃げろぉぉ!!」
島中が混乱に包まれた。
悲鳴。
怒号。
荷車の倒れる音。
丘の上にある潮鐘修道院からも、その光景は見えた。
黒い帆船が三隻。
禍々しい黒旗が海風にはためいている。
「そんな……」
セレディアは窓辺で息を呑んだ。
胸の奥が冷たくなる。
リシェルも青ざめていた。
「……ねぇ、セレディア」
「はい」
「たぶん、あたし達の噂……聞かれてる」
セレディアは言葉を失った。
辺境の島では、美しい修道女の噂など簡単に広がる。
酒場で漁師が語る。
商人が面白半分で話す。
“潮鐘修道院には美人修道女がいる”
“優しくて評判”
“二人ともすごい美人だ、なにより胸も尻も大きくウエストは細い身体つきがソソる”
そんな噂が海賊達の耳に入っていても不思議ではなかった。
遠くで建物が壊れる轟音が響いた。
子供達が悲鳴を上げる。
「お姉ちゃん……!」
「大丈夫です!」
セレディアはすぐに子供達を抱き寄せた。
だが、その声は少し震えていた。
怖い。
恐ろしくてたまらない。
それでも、今ここで自分が崩れるわけにはいかなかった。
「リシェル、皆を地下へ!」
「分かってる!」
二人は即座に動き出した。
◇
地下避難室。
狭い石造りの空間へ、孤児達が次々押し込まれていく。
「静かにね、大丈夫だから」
リシェルが必死に子供達を宥める。
年下の修道女の少女達も涙目だった。
「セレディア様……怖いです……」
「大丈夫ですよ」
セレディアは少女を抱き締めた。
だが彼女自身、冷たい汗が背中を流れていた。
その直後だった。
――ドゴォン!!
修道院の正面扉が蹴破られる。
「ヒャハハハ!! 修道院だァ!!」
「女を探せ!!」
「噂の赤髪と桃色髪のデカ乳修道女はどこだ!!」
酒臭い怒声。
荒々しい足音。
地下室で、子供達が震え上がる。
セレディアは必死に抱き寄せた。
「静かに……大丈夫です……」
地上では海賊達が暴れ回っていた。
「……ん?」
階上で、海賊の一人が声を漏らす。
「なんか良い匂いしねぇか?」
「……あぁ?」
「花みてぇな……甘い匂い」
リシェルの顔色が変わった。
修道院の中には、まだセレディア達の残り香が漂っていた。
洗濯した布。
石鹸。
香草。
そして若い女の匂い。
「いるぞ絶対」
海賊達の声が近付く。
「この辺だ」
「ベッドまだ温けぇ」
「逃げたばっかだろ」
乱暴に扉が開かれる。
家具が倒される。
「おい見ろ、この下着」
「でっけぇなぁ……修道女のくせに」
「たまんねぇ身体してんだろうな」
隠し部屋で、リシェルがぎゅっと拳を握った。
悔しさと恐怖で、肩が震える。
セレディアも顔を青くしていた。
もし見つかれば終わる。
自分達だけではない。
子供達まで危険に晒される。
「おい、赤髪は大層な美形なんだろ?」
「ああ、だったら泣き顔も綺麗だろうなァ」
「捕まえたら船に乗せて散々遊んでやろうぜ」
「あー、早く突っ込んで出してぇ」
「港ごとに見せりゃ酒代になる」
「桃色髪も跳ねっ返りらしいぜ」
「はは、突っ込みがいがあるな」
下卑た笑い声。
孤児の一人が小さくしゃくり上げる。
セレディアは慌てて抱き締めた。
「しー……大丈夫、大丈夫ですから……」
だが彼女自身、涙が滲みそうだった。
地上では海賊達がさらに奥へ進む。
「おい、こっちの部屋すげぇ匂いするぞ!!」
「マジだ、なんだこれ……」
「柔らけぇ手入れされた女の匂いだ……」
「絶対美人だろこれ」
「見つけたら好き放題してぇなァ」
リシェルが歯を食いしばる。
怖い。
悔しい。
だが今は耐えるしかない。
家具が壊される音。
本棚が倒れる音。
下卑た笑い声。
その度に地下の子供達が怯える。
やがて、足音が隠し通路の近くまで来た。
リシェルの顔が青ざめる。
見つかる。
そう思った。
「……ん?」
「なんか匂うぞ」
「女の匂いじゃねぇか?」
海賊達が壁を叩く。
リシェルは息を止めた。
だが――。
隠し扉は巧妙に偽装されていた。
クロードが設計したものだ。
数分後。
「チッ、いねぇか」
「逃げたか」
「仕方ねぇ、他の場所か、他の家の酒探そうぜ酒!!」
結局、海賊達の興味は酒樽へ移っていった。
◇
数時間後。
海賊達は島を去った。
だが、島は酷い有様だった。
港の倉庫は壊され。
食料は奪われ。
漁網は焼かれ。
妻を攫われた漁師も何人かいる。
修道院も荒らされていた。
椅子は砕かれ。
本は散乱し。
食料庫は空。
それでも――。
生き残れた。
地下室から出てきた孤児達は泣きながらセレディアへ抱き付く。
「怖かったぁ……」
「ええ……怖かったですね」
セレディアも涙を浮かべながら、小さな頭を撫でた。
リシェルは壁にもたれ、大きく息を吐く。
「……生きてる」
それだけで奇跡だった。
◇
そして翌朝。
一羽の白銀鳥が修道院へ舞い降りた。
足にはクロードからの手紙。
「このタイミングで!?」
リシェルが目を丸くする。
セレディアは手紙を胸に抱き締め、小さく微笑んだ。
「……クロード様」
封を開く。
だが内容は相変わらず事務的だった。
『送金手続きを行った』
『非常時の備蓄管理を怠るな』
『保存食を優先しろ』
『建材補修を推奨』
『無駄な浪費は禁止』
そして最後に、一文だけ。
『お前達の栄養状態を最優先としろ』
それだけ。
愛想もない。
慰めもない。
だがセレディアは、その文字を見つめながら静かに涙をこぼした。
「……ふふ」
「何笑ってるのよ」
「クロード様は、やはり優しいお方です」
「いやこれ業務連絡だからね?」
リシェルは呆れたように言う。
だがその目元も少し赤かった。
◇
その夜。
修道院では温かなスープが振る舞われていた。
クロードの送金で買えた豆と干し肉と野菜。
子供達は嬉しそうに笑っている。
「おいしい!」
「今日はお腹いっぱい!」
不幸になった人もいる、しかし目の前の子供の笑顔、その光景を見ながら、セレディアは自分に出来る事をやるしかないと、静かに祈った。
遠い大陸を巡る、灰色の巡回司祭へ。
誰にも理解されず。
誰にも称賛されず。
それでも人知れず人々を支え続ける、不器用な青年へ。
「……どうか今日も、ご無事で」
壊れた窓から、静かな夜の海が見えていた。




