九話目
雨上がりの競技場は、独特の匂いに包まれていた。
水気をたっぷりと含んだ土の匂い、タータントラックのゴムが初夏の薄日に熱せられて発する微かな化学臭、そして、何百人という高校生アスリートたちが放つ、熱気と制汗スプレーが混ざり合ったむせ返るような匂い。
空にはまだ灰色の雲が薄く残っていたが、その切れ間からは、突き抜けるような青空と眩しい太陽の光が顔を覗かせ、濡れたグラウンドをキラキラと乱反射させている。
地区大会、男子百メートル走・決勝。
インターハイへの切符、そして自身のプライドをかけた、わずか十秒あまりの真剣勝負が、今まさに始まろうとしていた。
瀬野陽向は、第4レーンのスタートブロックの後ろに立ち、静かに目を閉じていた。
周囲のスタンドからは、各校の応援団や陸上部員たちのメガホンを叩く音、割れんばかりの歓声が地鳴りのように響いている。しかし、陽向の耳には、それらのノイズは一切届いていなかった。
彼の意識は、ただひたすらに自分の内側へと向かっていた。
深く息を吸い込み、肺を酸素で満たす。そして、細く長く吐き出す。
体の筋肉は、かつてないほどにリラックスし、それでいて、いつでも爆発的なエネルギーを解放できる状態に研ぎ澄まされていた。
ここ数ヶ月、彼を苦しめていたあの「水の中をもがくような」重苦しい感覚は、嘘のように消え去っていた。
(……見せてやるよ)
陽向は、ユニフォームの胸のあたりを、右手でそっと押さえた。
そこには、結城紬から受け取ったあの三つ折りの手紙が、お守りのようにピンで裏側に留められている。
彼女の文字。彼女の言葉。彼女の体温。
それらが、心臓の鼓動を通じて、陽向の全身の血液へと溶け込んでいくような気がした。
『タイムの向こう側にある景色を、見せてほしい』
その言葉が、彼を暗闇の底から引きずり上げた。
記録にとらわれ、周囲の期待に押し潰されそうになっていた自分に、「何のために走るのか」という最も根源的で、最も純粋な理由を思い出させてくれた。
俺は、彼女に俺の走りを見せたい。
今、この瞬間に生きているという証明を、命を燃やして走るこの姿を、あの特等席にいるはずの彼女に捧げたい。
今日、彼女は競技場のスタンドにはいない。家の用事で来られないと言っていた。その時の彼女の寂しそうな、それでいて無理に笑って見せた顔が、陽向の脳裏に焼き付いている。
彼女がどこにいようと関係ない。
俺がここで壁をぶち破り、最高の走りを見せれば、その熱は必ず彼女に届く。
そう信じて疑わなかった。
「オン・ユア・マークス」
スターターの低く響く声が、競技場の空気を一瞬にして凍りつかせた。
八人のファイナリストたちが、一斉にスタートブロックへと足をかけ、ゆっくりと腰を下ろす。
陽向もまた、タータンに両手をつき、スパイクのピンがしっかりとトラックを噛んでいる感覚を確かめた。
視線を上げる。
真っ直ぐに伸びた百メートルのレーン。その先にあるゴールテープだけが、陽向の視界に鮮明に映し出されていた。
「セット」
腰が上がる。全身の筋肉が、弓の弦のように限界まで引き絞られる。
世界から、完全に音が消えた。
自分自身の心音だけが、ドクン、ドクンと、静かに、力強く時を刻む。
――パーンッ!!
乾いたピストルの音が、静寂を切り裂いた。
同時に、陽向の体が弾け飛んだ。
完璧なスタートだった。
反応速度、地面を蹴り出す角度、腕の振り。そのすべてが、これまでの陸上人生の中で最も無駄がなく、美しい軌道を描いていた。
頭を低く保ったまま、最初の三十メートルを一気に加速する。
地面を蹴るたびに、恐ろしいほどの推進力が体へと返ってくるのがわかる。重力という概念が、陽向の体から剥がれ落ちていく。
(進む。前へ。もっと前へ……!)
中盤。上体が起き上がり、トップスピードへとギアが切り替わる。
隣のレーンを走るライバルたちの息遣いが、一瞬だけ聞こえた気がしたが、すぐにそれも後ろへと置き去りにした。
風が、頬を切り裂く。
いや、自分が風そのものになって、この空間を支配しているのだ。
苦しくない。
あんなに重かった足が、あんなに酸素を求めて悲鳴を上げていた肺が、今は信じられないほどに軽く、澄み切っている。
ただ走ることが、ただ前へ進むことが、こんなにも純粋な喜びであったことを、彼は何年ぶりかに思い出していた。
ラスト二十メートル。
いつもなら、ここで乳酸が溜まり、筋肉が硬直し、タイムの壁が物理的な重みとなってのしかかってくる。
しかし、今日の陽向は違った。
胸に留めた手紙が、熱く燃えている。
彼女の言葉が、背中を力強く押し出してくれる。
――壁なんか、ない。
陽向は、さらに腕の振りを速め、足の回転数を限界まで引き上げた。
視界が、白く発光する。
ゴールテープが、スローモーションのように目の前に迫ってくる。
タイムの向こう側の景色。
それは、記録という数字の羅列ではなく、己の限界という硬い殻を打ち破った者にしか見えない、圧倒的に自由で、透明な世界だった。
陽向は、その透明な世界の中へ、自らの体を思い切り投げ出した。
ゴールラインを駆け抜ける。
その瞬間、スタンドから爆発的な歓声と悲鳴が巻き起こり、競技場全体を揺るがした。
陽向は徐々にスピードを落とし、トラックの端まで駆け抜けてから、ゆっくりと振り返った。
電光掲示板に、各レーンのタイムが表示されていく。
第4レーン、瀬野陽向。
そこには、彼が中学時代からどうしても超えられなかった壁を、零点一秒どころか、零点三秒も縮める、圧倒的な自己ベストのタイムが輝いていた。
「……っっっっしゃあぁぁぁぁぁっ!!!」
陽向は、両手を高く天に突き上げ、心の底からの雄叫びを上げた。
それは、スランプという長い長い暗闇を抜け出した獣の、魂の咆哮だった。
チームメイトたちが、スタンドからなだれ込むようにして駆け寄ってくる。
藤原樹が誰よりも早く陽向に飛びつき、その首に思い切り腕を回した。
「お前っ……! 陽向、お前、すげえよ! なんだよあの走り! バケモンかよ!!」
樹の声は、興奮と涙でぐちゃぐちゃになっていた。
陽向は、樹の腕を乱暴に振りほどきながらも、満面の笑みで親友の背中をバンバンと叩き返した。
「見たか、樹! 俺、壁、ぶっ壊したぞ!」
「ああ、見た! 最高にカッコよかったぜ! インターハイ決定だ!!」
もみくちゃにされながら、陽向は電光掲示板の数字をもう一度見上げた。
薄日が差し込む青空の下で、その赤いデジタル文字は、彼が今日、この場所で確かに生まれ変わったことを証明していた。
(結城……)
陽向は、胸に留めた手紙を、ユニフォーム越しにそっと握りしめた。
この走りは、お前のおかげだ。
お前が俺を見つけてくれて、俺に言葉をくれて、俺の光になってくれたから。
早く、伝えたい。
他の誰でもない、お前に、真っ先にこの結果を報告したい。
その衝動が、陽向の心を激しく突き動かした。
同じ頃。
結城紬は、自宅の自室のベッドに正座し、壁掛け時計の秒針をじっと見つめていた。
時刻は、午後一時十五分。
地区大会の男子百メートル決勝の予定時刻は、一時ちょうど。
今頃、彼は走り終えているはずだ。
結果はどうだったのだろうか。無事に走り切れたのだろうか。壁を壊すことはできたのだろうか。
様々な想像が頭を巡り、紬の心臓は、まるで自分が走った直後のように早鐘を打っていた。
息が少しだけ苦しい。湿度を含んだ空気が、重く肺にのしかかる。しかし、そんな身体的な苦痛など気にならないほど、彼女の意識は遠く離れた競技場へと飛んでいた。
「お姉ちゃん、紅茶淹れたよ」
ドアが開き、妹の糸がマグカップを二つお盆に乗せて入ってきた。
糸はベッドに座る紬のただならぬ緊張感を感じ取ったのか、少しだけ眉をひそめて机にマグカップを置いた。
「どうしたの? なんだかソワソワして。顔も少し赤いし、熱あるんじゃない?」
「ううん、熱はないよ。ただ……」
紬は、手元に置かれたスマートフォンをチラリと見た。
画面は真っ暗なままだ。
親友の栞に、「もしよかったら、瀬野くんの結果を教えてほしい」と頼もうか何度も迷ったが、結局メッセージは送れなかった。自分が会場に行かないと言った手前、結果だけを気にするのは虫が良すぎるような気がしたのだ。
「……誰かからの連絡、待ってるの?」
糸が、マグカップを両手で包み込みながら、探るような目で紬を見た。
「えっと……うん。今日ね、学校の陸上部の地区大会があって。クラスの男の子が、大事なレースに出てるから、どうなったかなって気になって……」
紬が正直に答えると、糸は「ふーん」とだけ言って、視線を逸らした。
その「男の子」が、先日紬が涙を浮かべながら話していた瀬野陽向であることは、糸には完全に筒抜けだった。
糸の心の中には、姉を外の世界へと連れ出そうとするその得体の知れない男子に対する警戒心と、しかし姉がこれほどまでに生き生きと誰かのことを気にかけていることへの、複雑な喜びが入り混じっていた。
「……受かるといいね。その、インターハイとかいうやつに」
ぽつりと、糸が不器用なエールをこぼした。
紬は驚いて妹の顔を見たが、糸は耳を赤くして「冷めるから早く飲みなよ!」と乱暴に言い放った。
「ふふっ。うん、ありがとう、糸ちゃん」
紬が温かい紅茶に口をつけようとした、その時だった。
――ブブッ、ブブッ。
机の上のスマートフォンが、短くバイブレーションを鳴らした。
紬は弾かれたようにマグカップを置き、スマホの画面をタップした。
ロック画面に表示されたのは、LINEの通知。
送り主は、藤原樹だった。
先日、四人で弁当を食べた時に「グループLINE作ろうぜ!」という樹の強引な提案で交換したばかりの連絡先だった。
『結城さん! 陽向、やったぞ!!』
短いメッセージ。
その後に続く、写真。
電光掲示板の前で、チームメイトにもみくちゃにされながら、信じられないほどの満面の笑みを浮かべて両手でピースサインを作っている瀬野陽向の姿だった。
画面越しのその笑顔から、彼がどれほどのプレッシャーを跳ね除け、どれほどの歓喜に包まれているかが、痛いほどに伝わってきた。
『自己ベスト大幅更新! ぶっちぎりの1位! インターハイ出場決定!!』
立て続けに送られてくる樹からのメッセージの連続に、紬の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
よかった。
本当によかった。
彼が、自分自身の壁を壊し、新しい景色を見つけることができて。
私の言葉が、彼にとってほんの少しでも力になれたのなら、こんなに嬉しいことはない。
「……お姉ちゃん、泣いてるの? どうしたの、ダメだったの?」
糸が慌てて身を乗り出してくる。
「ううん、違うの。逆だよ。……勝ったって。すごく良い結果だったって」
紬は、涙で滲んだ視界の中で、陽向の笑顔の写真を指先でそっと撫でた。
この眩しい光を、私はこれからも遠くから見守っていこう。
彼がこれから先、どんな高みへと登っていくのか。それを特等席で見つめることだけが、私に許された唯一の、そして最高の贅沢なのだから。
紬は、涙を袖で拭い、樹への返信を打ち始めた。
『本当におめでとう。藤原くん、教えてくれてありがとう。瀬野くんによろしく伝えてね』
送信ボタンを押す。
これでいい。私からの関わりは、ここまでだ。
これ以上彼に踏み込めば、私はきっと、彼という光に焦がれて燃え尽きてしまうから・
競技場は、まだ全日程を終えておらず、熱狂の渦の中にあった。
しかし、瀬野陽向は、自分のレースが終わった直後のクールダウンもそこそこに、着替えもせずに部室のテントへと駆け込んでいた。
スパイクを脱ぎ捨て、ランニングシューズに履き替える。
ユニフォームの上に、学校指定のジャージを乱暴に羽織り、スポーツバッグを肩にひっかける。
「おい、陽向! お前どこ行くんだよ! まだ表彰式も閉会式もあるんだぞ!」
異変に気付いた樹が、慌ててテントに飛び込んできた。
「わりぃ、樹! あと頼む! 顧問には適当に体調不良だとでも言っといてくれ!」
「はあ!? お前、優勝した本人が体調不良ってなんだよ! どこ行くつもりだ!」
陽向は、テントの出口で振り返り、樹を真っ直ぐに見た。
その目は、インターハイを決めた喜びに満ちていながらも、それ以上に、抑えきれない焦燥感と熱意で燃え盛っていた。
「結城のとこだよ」
陽向のその一言に、樹は一瞬言葉を失った。
「は? 結城さん? ……お前、結城さんの家知ってんのかよ!」
「ああ。この前、クラスの連絡網の名簿で見た。駅から遠い住宅街だろ」
「だからって……今から行くのか? 大会すっぽかして!?」
「今、伝えたいんだよ。他の誰でもない、あいつに。俺が壁を壊せたのは、あいつのおかげなんだから。……俺、行ってくる!」
陽向は、樹の制止を振り切って、テントを飛び出した。
競技場の外へ向かって、彼は再び走り出した。
先ほどの百メートル全力疾走の疲労が、筋肉に重くのしかかっているはずなのに、彼の足は信じられないほど軽く、まるで羽が生えたように地面を蹴っていた。
最寄りの駅まで走り、電車に飛び乗る。
休日の車内は適度に混雑しており、汗だくでジャージ姿の陽向は奇異の目で見られたが、今の彼にはそんなことは全く気にならなかった。
早く。一秒でも早く。
彼女の顔が見たい。彼女のあの澄んだ声で、「おめでとう」と言ってほしい。
用事があって来られないと言っていた彼女だが、家にいるかどうかもわからない。それでも、体が勝手に動いていた。
電車を降りてから、結城家までの道のり。
陽向は、迷うことなく住宅街の緩やかな坂道を駆け上がっていった。
雨上がりの湿った空気が肺を満たすが、百メートルを走った時の苦しさに比べれば、なんてことはない。
俺は、どこまででも走れる。
お前という光が、俺の向かう先を照らしてくれている限り。
息を切らしながら、陽向はついに結城家の門の前に到着した。
立派な一軒家。表札には、確かに「結城」の文字がある。
陽向は、肩で激しく息をしながら、門柱のインターホンを見つめた。
急に、自分の行動の異常さに気づいて、少しだけ尻込みしそうになる。
休日の昼下がりに、汗だくのジャージ姿で女子の家に突然押しかけるなんて、非常識極まりない。親が出てきたらどう言い訳すればいいのか。彼女が本当に用事で不在だったらどうするのか。
しかし、ここまで来て引き返す選択肢はなかった。
陽向は、震える指で、インターホンのボタンを押した。
――ピンポーン。
電子音が、静かな住宅街に響く。
数十秒の沈黙。陽向の心臓が、耳の奥でうるさいほどに鳴っている。
『……はい』
スピーカーから聞こえてきたのは、少し不機嫌そうな、紬よりも少し幼い声だった。
「あっ、えっと……瀬野陽向と申します。結城紬さんの、同じクラスの者ですが……」
陽向が名乗ると、スピーカーの向こうで「えっ!?」という驚きの声が漏れた。
そして、ガチャリと通話が切れる音がし、間もなくして玄関のドアが勢いよく開いた。
出てきたのは、紬とよく似た顔立ちだが、目つきが少し鋭い、ポニーテールの少女だった。妹の糸だ。
糸は、門の前に立つ陽向の姿を見るなり、目を見開いて硬直した。
汗と泥にまみれたジャージ。荒い呼吸。そして、獲物を狙う鷹のようにギラギラと光る、真っ直ぐな瞳。
「……あなたが、瀬野くん?」
糸が、警戒心も露わに低い声で尋ねる。
「はい。結城、いますか。どうしても、伝えたいことがあって……」
陽向が答えたその時だった。
「……瀬野くん?」
玄関の奥から、信じられないものを見るような、震える声が聞こえた。
糸の後ろから、薄手のカーディガンを羽織った紬が、ゆっくりと姿を現した。
彼女の目は、大きく見開かれ、門の前に立つ陽向を、まるで幻影でも見ているかのように見つめていた。
「結城……!」
陽向は、門を押し開け、数歩だけ紬の方へ近づいた。
糸が咄嗟に両手を広げて姉を庇うように前に出たが、陽向はそれ以上は近づかず、その場で深く息を吸い込んだ。
「瀬野くん、どうして……大会は? 藤原くんから、1位だったって……」
紬の声は、ひどく震えていた。
自分が「家の用事」と嘘をついたことがバレてしまった気まずさと、彼が本当に自分のためだけにここまで走ってきてくれたという信じられない事実が、彼女の感情を限界まで揺さぶっていた。
「……報告に来た」
陽向は、まだ少し息を切らしながら、真っ直ぐに紬の目を見た。
「お前が来られないって言うから。……どうしても、俺の口から、お前に一番に伝えたくて」
「……」
紬は、言葉を失った。
彼が纏う圧倒的な熱量。
その熱が、雨上がりの湿った空気を通じて、紬の肌にビリビリと伝わってくる。
「自己ベスト、零点三秒更新。ぶっちぎりの1位。……インターハイ、決めたぞ」
陽向の口から放たれたその報告は、藤原樹のLINEで知っていたはずなのに、彼の声で直接聞くと、全く違う重みと温度を持って紬の心に響いた。
「……おめでとう。本当に、おめでとう、瀬野くん」
紬の目から、再び涙がこぼれ落ちた。
今度は、悲しみの涙でも、無力感の涙でもない。純粋な、喜びと祝福の涙だった。
「お前のおかげだ」
陽向は、一歩だけ前に進み出た。糸が微かに後ずさる。
「お前の手紙が、お前の言葉が、俺の壁をぶっ壊してくれた。……お前が俺の足元を照らしてくれたから、俺は迷わずに走り切れたんだ」
陽向の真っ直ぐな言葉が、紬の心の奥底にある、分厚いガラスの壁を粉々に砕いていく。
近づいてはいけない。
彼を傷つけてしまうから。
そう思っていたはずなのに、彼の方から、そんな壁など存在しないかのように、全力で飛び込んできたのだ。
「私なんて……ただ、手紙を書いただけなのに……」
紬が涙声で呟くと、陽向は少しだけ怒ったように眉をひそめた。
「俺にとっては、それがすべてだったんだよ。……だから」
陽向は、少しだけ照れくさそうに首の後ろを掻き、そして、世界で一番優しい笑顔を浮かべた。
「タイムの向こう側の景色。……最高に綺麗だったぜ。お前にも、見せてやりたかったな……」
その言葉を聞いた瞬間、紬の胸の奥で、何かが激しく音を立てて崩れ落ちた。
病気のこと。寿命のこと。家族への罪悪感。
それらのすべてのしがらみが、彼が放つ圧倒的な光の前に、一瞬だけ意味を持たなくなったのだ。
――私は、この人が好きだ。
結城紬は、十六年の人生で初めて、誤魔化しようのない明確な「恋」という感情を、自覚した。
ただの憧れでも、自分が生きられない未来の代償でもない。
瀬野陽向という、不器用で真っ直ぐな一人の人間を、心の底から愛おしいと思う感情。
「……うん。いつか、私にも見せてね」
紬は、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、今日一番の、とびきりの笑顔を彼に向けた。
玄関先で繰り広げられる二人の劇的なやり取りを、妹の糸は、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
彼女は、初めて姉が「自分の知らない世界」の顔をしているのを見た。
姉を縛り付けていた病気という呪いが、この汗だくの少年の言葉一つで、いともたやすく解き放たれていくのを見た。
それは、糸にとって恐怖でもあり、しかし同時に、姉が本当の意味で「生きている」瞬間を目の当たりにしたような、不思議な感動でもあった。
「……お邪魔しました。じゃあな、結城。また月曜日、学校で」
陽向は、満足そうに深く一礼すると、踵を返し、再び駅の方へと走っていった。
彼の背中が、雨上がりの住宅街の角を曲がって見えなくなるまで、紬はずっと、玄関のドアにしがみつくようにして見送っていた。
初夏の夕暮れが、近づきつつあった。
結城紬の時間は、確実に削り取られていく。
しかし、彼女の魂は今、この十六年の人生で最も明るく、最も激しく、確かな炎を上げて燃え盛っていた。
命の終わりが、どれほど残酷なものであろうとも。
私には、この光があれば、最後まで歩いていける。
紬は、胸の奥にあるかすみ草のポーチをそっと握りしめ、静かに目を閉じた。




