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十話目

 鏡に映る自分の顔が、いつもと少しだけ違って見えた。

 月曜日の朝。

 洗面所に立ち、制服のブラウスの第一ボタンを留めながら、結城紬はふと手を止め、鏡の中の自分を見つめ直した。

 透き通るような白い肌や、少し色素の薄い茶色いボブヘア、華奢すぎる首筋や肩の線は、昨日までと何一つ変わっていない。相変わらず、病という消えない刻印を帯びた、頼りない身体だ。

 けれど、その瞳の奥には、これまで一度も見たことがないような、はっきりとした熱と光が宿っていた。

 土曜日の午後。

 雨上がりの湿った空気の中、汗と泥にまみれたジャージ姿で結城家の門の前に立っていた、瀬野陽向の姿。


『タイムの向こう側の景色。……最高に綺麗だったぜ』


 そう言って笑った彼の顔を思い出すだけで、胸の奥がキュッと締め付けられ、同時に、身体の奥底から温かい泉が湧き出してくるような不思議な感覚に包まれる。


 私は、あの人が好きだ。

 

 十六年間の人生で初めて自覚した、明確な恋心。

 これまでは、自分の命のリミットを冷静に受け止め、周囲に気を遣わせないことだけを考えて生きてきた。誰かを特別に想うことは、いずれ自分がこの世界から消えてしまう時の悲しみを増幅させるだけだと、心のどこかでブレーキをかけていた。

 しかし、彼が放つ圧倒的な生命力と、一直線に自分へ向けられた不器用な誠実さは、紬が何年もかけて築き上げてきたその防壁を、いともたやすく粉々に打ち砕いてしまった。

 好きになってしまった。

 その事実を噛み締めるたび、喜びと、そしてそれと同じくらいの恐ろしさが、波のように交互に押し寄せてくる。

 もし、この恋が彼に知られてしまったら。

 私が長くは生きられない病人だと知った時、彼の真っ直ぐな心は、どれほど深く傷つくのだろうか。


「……お姉ちゃん、洗面所長い。早く代わってよ」


 不意に背後から声がかかり、紬はビクッと肩を跳ねさせた。

 振り返ると、寝癖を少しだけつけたポニーテールの妹、糸が、不満そうに唇を尖らせて立っていた。


「あ、ごめんね、糸ちゃん。今退くから」


 紬が慌てて洗面台を譲ると、糸は鏡の前に立ち、ブラシで髪をとかし始めた。

 土曜日の玄関での出来事以来、糸は紬に対して少しだけ態度がぎこちない。姉の元へ突然押しかけてきた見知らぬ男子生徒。そして、彼を前にして今まで見たこともないような顔をして泣き笑っていた姉。

 糸の中で、何かが少しずつ変化していることは、紬にも伝わっていた。


「……ねえ」


 鏡越しに、糸がチラリと紬を見た。


「今日、学校行くんでしょ」


「うん。今日は体調も悪くないし、行くよ」


「ふーん。……まあ、無理しない程度にね。あと」


 糸は一度ブラシを止め、少しだけ視線を泳がせた後、小さな声で言った。


「その……あいつに、伝えといてよ。大会、お疲れ様って」


「えっ?」


「別に! 深い意味はないから! わざわざ報告に来るくらいなんだから、一応礼儀として言ってあげるだけ! 変な勘違いしないでよ!」


 耳まで真っ赤にして怒鳴るように言う妹の姿が可笑しくて、愛おしくて、紬は思わずふわりと微笑んだ。

 過保護で、姉を奪われることを誰よりも恐れている糸が、陽向という存在を、わずかばかりでも認めてくれたような気がしたのだ。


「うん。ちゃんと伝えておくね。ありがとう、糸ちゃん」


 紬は、カーディガンを羽織り、自分の部屋から鞄を手に取った。

 中には、新しく薬を詰めたかすみ草のポーチと、そして、あの日から少しだけ意味合いが変わってしまった、大切なノートが入っている。

 新しい一週間が、始まる。

 彼がいる、あの教室へ。



 月曜日の朝の教室は、ただでさえ週末の余韻を引きずって騒がしいものだが、今日の二年C組の熱狂は、その比ではなかった。

 紬が教室の引き戸を開けた瞬間、熱気のようなものが顔にぶつかってきた。


「だから言ったろ! あいつは本番に強い男なんだって!」


 教室の中央で、藤原樹が机の上に腰掛け、まるで自分が優勝したかのような得意げな顔でクラスメイトたちに語っていた。


「俺なんて、スタートの瞬間、心臓が口から飛び出るかと思ったぜ! でも陽向のやつ、全然ブレねえの! 最初から最後までトップギア! 自己ベスト大幅更新だぜ!? 今年のインターハイは、うちの陸上部がもらったようなもんだ!」


 樹の周りには男女問わず多くの生徒が集まり、感嘆の声を上げている。

 そして、その騒ぎの中心にいるはずの瀬野陽向はといえば、自分の席で頬杖をつき、ひどく居心地が悪そうに窓の外を眺めていた。


「おい樹、もういいだろ。大げさに言い過ぎだ」


「大げさじゃねえって! なぁ、みんなもそう思うだろ!?」


 陽向の照れ隠しの言葉も、樹のトークスキルによって見事にクラスの盛り上がりの燃料へと変換されていく。

 彼がどれほど凄いことを成し遂げたのかが、クラス中の反応から痛いほどに伝わってくる。

 陸上部のエース。インターハイ出場選手。

 誰もが憧れ、誰もがその光に集まってくる。

 紬は、教室の入り口で立ち止まったまま、その光景を見つめていた。

 彼が遠くに行ってしまうような、そんな寂しさが、一瞬だけ胸をよぎる。

 土曜日の夕方、私の家の前で汗だくになって笑っていた彼は、今この教室でスポットライトを浴びている彼と、本当に同じ人間なのだろうか。


 その時。

 窓の外を見ていた陽向が、不意に顔を向け、教室の入り口に立つ紬に気づいた。

 周囲の喧騒が、嘘のように遠のいていく。

 陽向の目が、一瞬だけ見開かれ、そして、いつもの少しだるそうな表情から、柔らかく、はにかむような笑顔へと変わった。

 彼は、周囲に気づかれないように、机の下で小さく右手を挙げた。


『おはよう』


 声には出さず、口の動きだけでそう言ったのがわかった。

 紬の胸の奥で、甘い痛みが弾けた。

 遠くなんてない。

 彼と私の間には、確かに、他の誰にも入り込めない秘密の糸が繋がっている。

 紬もまた、周囲に悟られないよう、胸元で小さく手を振り返し、最高の笑顔を作った。

 クラス中の誰も知らない、ほんの数秒間の、二人だけの内緒の挨拶。


「……おはよう、紬」


 隣から声がかかり、紬はハッと我に返った。

 いつの間にか、親友の三島栞が横に立っていた。彼女の銀縁眼鏡の奥の目は、紬と陽向の視線の交差を、完璧に計算し尽くしたように見据えている。


「し、栞ちゃん、おはよう!」


「顔が赤いけれど。また熱でも出たの?」


「ううん、違うよ! ちょっと、教室が暑くて……」


 栞は小さくため息をつき、「そう。ならいいけれど」とだけ言って、自分の席へと向かった。

 その背中から、「隠し事は無駄よ」という無言のメッセージがひしひしと伝わってきて、紬は苦笑いしながら自分の席へと急いだ。



 四時間目の授業が終わり、待ちに待った昼休みのチャイムが鳴り響く。

 いつものように、樹と陽向が机をくっつけてきて、四人での昼食の時間が始まった。

 今日の陽向の弁当箱は、先週の金曜日に手をつけずに残していた時とは打って変わって、ものすごい勢いで空になっていく。山盛りの白米も、鶏肉も、まるで何日も飢えていた獣のように彼の胃袋へと収まっていった。


「お前、食い過ぎだろ。いくら大会終わったからって」


 樹が、いちごミルクのストローを噛みながら呆れたように言う。


「うるせえ。土曜日は終わった後、なんも食う気しなかったから、その分だよ」


「あー、そういやそうだったな!」


 樹は、思い出したようにニヤリと笑い、身を乗り出した。


「お前さぁ、土曜日の決勝終わった後、どこ消えてたんだよ! 表彰式もすっぽかして。顧問の先生、めちゃくちゃ怒ってたぞ。『瀬野の野郎、優勝した途端に天狗になりやがって』って」


「げっ……マジか」


「マジだよ! 俺が適当に『急な腹痛でトイレから出られません!』って庇ってやったんだからな。感謝しろよ!」


 陽向はバツが悪そうに視線を泳がせ、「……わりぃ」と小さく呟いた。

 そのやり取りを聞いていた紬は、心臓が口から飛び出そうになるほど焦っていた。

 彼が表彰式をすっぽかしてまで、自分の家に来てくれていたなんて、知らなかった。

 あの汗だくのジャージ姿は、レース直後にそのまま駆けつけてくれた証だったのだ。

 嬉しさと、申し訳なさと、そして彼の大胆な行動への驚きで、紬の顔はみるみるうちに赤く染まっていった。


「で、結局どこ行ってたんだよ? 彼女でもできたのか?」


 樹の無遠慮な追及に、陽向はむせ返りそうになりながら、慌ててお茶を飲み込んだ。


「ち、ちげーよ! ちょっと……外せない急用があったんだよ!」


「急用ってなんだよ。大会以上に大事な急用なんて……」


 樹がさらに踏み込もうとしたその時だった。


「藤原くん」


 それまで黙々と上品に卵焼きを食べていた栞が、氷のような声で遮った。


「あまり人のプライバシーに踏み込むのは、品性下劣というものよ。瀬野くんにだって、他人には言えない事情の一つや二つ、あるでしょう。例えば、急に便意を催して、本当にトイレに籠っていたとか」


「俺は籠ってねえ!」


「どちらにせよ、過ぎたことを蒸し返すのはやめなさい。お弁当の味が落ちるわ」


 栞の絶対零度の言葉に、樹は「うぐっ……」と言葉を詰まらせ、しゅんとして焼きそばパンにかぶりついた。

 陽向は、助かったというように小さく息を吐き出し、そして、向かいに座る紬と一瞬だけ視線を合わせた。

『ごめん』と『ありがとう』が混ざったような、不器用な視線。

 紬も、小さく頷き返す。

 隣に座る栞が、そんな二人のやり取りを眼鏡の奥で静かに見守りながら、誰にも気づかれないように小さく息を漏らした。

 四人の机の上には、以前にも増して、深く、温かい空気が流れていた。

 それぞれがそれぞれを思いやり、不器用ながらも守り合っている。

 結城紬にとって、この四角い机は、世界で一番安全で、世界で一番幸せな場所になりつつあった。


「あ、そうだ、瀬野くん」


 紬は、思い出したように口を開いた。


「うちの妹から、伝言預かってたの。『大会、お疲れ様』だって」


「えっ」


 陽向は驚いたように目を瞬かせた。


「あの、土曜日に玄関にいた、ポニーテールの子か? なんかめちゃくちゃ睨まれてた気がしたけど……」


「ふふっ、糸ちゃんはああ見えて、すごく心配性で優しい子だから。きっと、瀬野くんが一生懸命走ってるって知って、応援してたんだと思うよ」


 それを聞いた陽向は、少しだけ照れくさそうに頭を掻き、「……そっか。妹さんにも、ありがとうって伝えといてくれ」と笑った。

 家族に彼を受け入れてもらえたような気がして、紬の胸の奥がじんわりと温かくなる。

 この眩しい日常が、一日でも長く、一秒でも長く続いてほしい。

 今はただ、それだけを祈っていた。



 放課後。

 今日は部活動のない日で、学校全体が少しだけ早く静寂を取り戻しつつあった。

 初夏の風が吹き抜ける、中庭のベンチ。

 去年の春、陽向がスパイクを握りしめて絶望に沈んでいたあの場所に、今日は二人が並んで座っていた。

 栞は「図書室の仕事があるから」と早々に気を利かせて席を外し、樹も「今日は駅前で路上ライブだから!」とギターケースを背負って帰っていった。

 二人きりの時間。

 周囲の木々からは、初夏の訪れを告げる鳥のさえずりが聞こえ、葉の間から漏れる木漏れ日が、足元でチカチカと揺れている。


「……なんか、ここ、懐かしいな」


 陽向が、少しだけ足を投げ出して座りながら、ぽつりと呟いた。


「去年の春、俺がここで腐ってた時、お前が声かけてくれたんだよな」


「うん。……あの時の瀬野くん、本当に怖いくらい思い詰めた顔してたから」


「わりぃ。あの時は周りが見えてなくてさ。……でも、あの時お前が『長い助走だ』って言ってくれなかったら、俺、絶対に今日まで走れてなかったと思う」


 陽向は、ベンチの背もたれに腕を回し、真っ直ぐに紬の横顔を見つめた。


「土曜日の朝、お前が机に入れてくれた手紙。……あれ読んで、俺、自分のこと恥ずかしくなったわ。タイムばっかり気にして、自分がなんで走りたいのか、誰に走りを見せたいのか、全部忘れてた」


 陽向の言葉は、飾る気のない、純粋な本音だった。


「俺さ、ずっと、走ることでしか自分を証明できないって思ってた。でも、違ったんだよな」


 陽向は、視線を自分の大きな手のひらへと落とした。


「お前が、俺の走りを『綺麗だ』って言ってくれた。俺が壁にぶつかって泥臭くもがいてる姿を、それでも『光だ』って言ってくれた。……その言葉があったから、俺は、俺の走りに自信を持てたんだ。俺が走る意味を、お前が作ってくれたんだよ」


 その言葉の重みに、紬は息を飲んだ。

 私が、彼が走る意味を作った。

 いずれ消えてなくなる運命にある私が、この世界に、こんなにも強く美しいものを生み出す手助けをできたなんて。


「瀬野くん……。私ね、ずっと、自分の命は誰かに迷惑をかけるためのものだって思ってたの」


 紬は、膝の上のノートをギュッと握りしめながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 陽向に病気の詳細を話すつもりはない。それでも、自分の心の中にある本当の気持ちだけは、嘘偽りなく伝えたかった。


「体が弱くて、みんなと同じようにできなくて。お母さんや妹にずっと心配ばかりかけて……。私が生きていることで、誰かの時間を奪っているんじゃないかって、ずっと怖かった」


 紬の震える声に、陽向は黙って耳を傾けていた。


「でもね。瀬野くんがグラウンドを走っている姿を見た時、私、本当に世界が変わったみたいに感じたの。瀬野くんが前へ進むたびに、止まっていた私の時計の針が、一緒に動いてくれるような気がして。……瀬野くんが限界を超えていく姿が、私に、明日も生きたいって思わせてくれたの」


 紬は、顔を上げ、涙で滲みそうになる瞳で、真っ直ぐに陽向を見た。


「だから、私にとっての『光』は、間違いなく瀬野くんなんだよ。……瀬野くんが走ってくれるから、私は、強く息を吸うことができるの」


 木漏れ日が、二人の間を静かに落ちていく。

 陽向は、しばらくの間、何も言わずに紬の目を見つめ返していた。

 その瞳の奥には、彼の中で何かが確信へと変わっていく、静かで強い決意の色が浮かんでいた。

 やがて、陽向はゆっくりと身を乗り出し、紬の膝の上で強く握りしめられていた小さな右手に、自分の大きな手をそっと重ねた。


「……っ」


 紬の肩がビクッと跳ねた。

 陽向の手は、厚みがあって、少し硬くて、そして、信じられないほどに温かかった。

 自分の冷たい体温が、彼の熱によって溶かされていくような感覚。


「……結城」


 陽向の声は、低く、優しかった。


「俺はお前にとっての光かもしれない。でもな、俺にとっても、お前は間違いなく『光』なんだよ」


 重なった手から、彼の鼓動が伝わってくる。


「俺が暗闇の中で立ち止まりそうになった時、お前が言葉をくれた。俺が進むべき道を、お前がいつも照らしてくれた。……お前がいなかったら、俺は今、あのグラウンドには立ってない」


 陽向は、紬の小さな手を、壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。


「だからさ。……これからも、俺の走りを見ててくれ。俺がどこまで行けるか、お前のその目で、ずっと見届けてほしい。俺は、お前のためにもっと速くなるから」


 それは、ただのクラスメイトとしての言葉ではなかった。

 一人の少年が、自分が持てるすべての力を懸けて、一人の少女に未来を誓う言葉だった。

 ずっと、見届けてほしい。

 その言葉が、どれほど残酷で、どれほど幸福な響きを持っているか。

 紬は、涙がこぼれ落ちるのを止めることができなかった。


「……うん」


 紬は、涙でぐちゃぐちゃになりながらも、心からの笑顔を浮かべた。


「見るよ。ずっと……ずっと、見ているからね。瀬野くんが走る軌跡を、一つ残らず、目に焼き付けるから」


 陽向も、少しだけ目元を赤くしながら、力強く頷いた。

 初夏の風が、二人の間を吹き抜け、中庭の桜の青葉をざわめかせた。


 陽向にとって紬が。

 紬にとって陽向が。

 互いの存在が、決して代わりのきかない、互いの命を照らす「光」であることを、二人はこの瞬間、明確に認識したのだった。

 言葉で「好き」と伝える以上の、深く、強固な魂の結びつき。

 結城紬の十六年の人生の中で、今が間違いなく、最も眩しく、最も幸せなピークだった。



「じゃあな、気をつけて帰れよ」


「うん。瀬野くんも、気をつけてね。また明日」


 校門の前で陽向と別れ、紬は一人、家への帰路についた。

 西日が、アスファルトに長い影を落としている。

 右手に残る、彼の大きな手の温もり。

 胸の奥底で、彼の言葉が何度も反復している。


『お前は間違いなく、光なんだよ』


 私は、彼に何かを与えることができている。

 私の存在が、彼の力になっている。

 その事実が、紬の足取りを軽くし、世界をこれまで見たこともないほどに美しく輝かせて見せた。


 しかし。

 幸福の絶頂にいる彼女の体内で、病魔は静かに、けれど確実に牙を剥き始めていた。


「……っ」


 家の近くの緩やかな坂道に差し掛かった時。

 突如として、胸の奥で、今まで経験したことのないような鋭い痛みが走った。

 まるで、肺を太い針で直接刺されたような、冷たい激痛。

 紬は反射的に立ち止まり、胸元を強く握りしめた。


「……はっ、あ……」


 息が、吸えない。

 いくら大きく口を開けても、酸素が肺に届かない。

 水の中で溺れているような、圧倒的な窒息感。

 視界の端が、急速に黒く塗りつぶされていく。

 立っていることができず、紬はその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。


 ――絶対に、無理はしないように。


 黒崎医師の冷酷な言葉が、脳裏に蘇る。

 わかっていた。

 心がどれほど満たされようとも、私の肉体は、健常者と同じだけの熱量に耐えられないように設計されているのだ。

 恋をして、心を動かし、彼と同じ目線で生きようとした代償が、今、確実に彼女の命を蝕もうとしている。


「……だめ……まだ……」


 紬は、震える手で鞄の中からかすみ草のポーチを取り出し、震える指で頓服薬を取り出した。

 水もないまま、それを無理やり喉の奥へと押し込む。

 冷たいアスファルトの上で、ただひたすらに呼吸が戻るのを待つ。


(まだ……終わりたくない)


 彼の光になりたいと願ってしまった。

 彼と同じ未来を見たいと、傲慢にも望んでしまった。

 その罰なのだろうか。


 やがて、薬が効いてきたのか、胸の鋭い痛みは徐々に鈍い重さへと変わり、浅く短い呼吸がなんとか肺に届くようになってきた。

 視界の黒いモヤが晴れ、夕焼け空が再び目に入る。

 紬は、壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。

 全身から冷や汗が吹き出し、立っているだけで足が震える。

 それでも、帰らなければ。

 誰も見ていないこの場所で倒れるわけにはいかない。

 彼に、私のこの惨めな姿を見せるわけにはいかないのだ。


 結城紬の「眩しい日常」は、今、明瞭な終わりへのカウントダウンを始めようとしていた。

 互いを照らす光の輝きが強ければ強いほど、その足元に落ちる影は、より濃く、より深い暗闇となって彼女を飲み込もうとしている。

 沈みゆく夕日を見つめながら、紬は痛む胸を抱え、ただ一歩、また一歩と、家に向かって足を前に出し続けた。

読んでくれてありがとうございます。

これにて、一章完結です。

一話が約7000字程度と長々しい中、ここまで見てくださり、本当にありがとうございます。

これからも完結させるまで全力で頑張っていくので、引き続き読んでくれると嬉しいです。

コメントやブックマークなんかしてくれると、とても励みになります。

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