十一話目
季節は、残酷なほどに美しいグラデーションを描いて移ろっていく。
肌をじっとりと濡らしていた梅雨の湿気が去り、暴力的なまでの熱と光を放つ真夏が世界を支配したかと思えば、その盛夏もまた、ヒグラシの物悲しい鳴き声とともに足早に通り過ぎていった。
――九月。
朝夕の風には、すでに明確な秋の気配が混じり始めている。空はどこまでも高く澄み渡り、入道雲の代わりに刷毛で掃いたような薄い雲がたなびくようになった。
結城紬にとって、この高校二年の夏休みは、これまでの人生の中で最も長く、そして最ももどかしい時間だった。
一学期の終業式を目前に控えたあの初夏の日、帰宅途中の坂道で強烈な発作に襲われて以来、紬の体調は明らかに一段階、下降線を辿っていた。
肺の奥に張り付いた鉛のような重さは、日を追うごとにその存在感を増し、少し動くだけで息が上がり、ひどい時には横になっていても呼吸が浅くなることがあった。
当然、過保護な母の咲良や、鋭い観察眼を持つ妹の糸、そして冷徹な主治医である黒崎の監視の目は極限まで厳しくなった。夏休みの間、紬に許された外出は、冷房の効いた車での病院への通院のみ。それ以外の時間は、自室のベッドの上か、リビングのソファで静かに本を読んで過ごすことしか許されなかった。
ガラスの箱に閉じ込められたような、無菌室の夏。
かつての紬であれば、それを「自分の体なのだから仕方がない」と、静かな諦めとともに受け入れていただろう。本を読み、窓の外の雲の形を観察し、ノートに言葉を紡ぐだけで、十分に世界は美しかったからだ。
しかし、瀬野陽向という強烈な「光」を知ってしまった今の紬にとって、彼らのいない日常は、色が抜け落ちたモノクロームの映画のように退屈で、それでいて息苦しいものだった。
『陽向のやつ、インターハイ準決勝で敗退! でも自己ベストまた更新したぜ! あいつマジでバケモン!』
夏休みの半ば、藤原樹からグループLINEに送られてきたそのメッセージと、真っ青な夏の空の下、悔しそうに、けれどどこか清々しい笑顔で汗を拭う陽向の写真。
それを見た時、紬はベッドの上で、自分の無力さに声を上げて泣きたくなった。
彼の、高校生活で一番輝いていたであろうその瞬間を、同じ場所の空気を吸って、同じ温度を感じて、この目で見届けることができなかった。
彼が限界を超えていくその時に、私はただ、冷房の効いた部屋で、薬を飲んで横たわっていることしかできなかったのだ。
自分が長くは生きられない病人であることを、これほどまでに呪わしく、悔しく思ったことはなかった。
――それでも。
新学期が始まれば、また彼に会える。
あの騒がしくも温かい教室で、四人で机をくっつけて、他愛のない話をして笑い合うことができる。
その希望だけが、紬の細く途切れそうな命の糸を、今日という日までどうにか繋ぎ止めていた。
「おはよう、紬」
九月の第一週。二学期が始まって数日後の朝。
通学路の最後の坂道を上りきり、息を整えながら下駄箱へ向かおうとした紬に、涼やかな声が降ってきた。
親友の三島栞だった。彼女は相変わらず、夏休み前と何一つ変わらない、シワ一つない制服と文句なしな姿勢でそこに立っていた。
いや、ただ一つ違うのは、彼女の銀縁眼鏡の奥の瞳が、以前にも増して鋭く、紬の全身をスキャンするように見つめていることだった。
「栞ちゃん、おはよう。朝の図書委員の当番、お疲れ様」
「ええ。……紬、顔色が少し白すぎるわ。それに、ここまで歩いてくるペースも、一学期より随分と落ちているように見えたけれど」
隠し事など一切通用しない、氷のように的確な指摘。
紬は、心臓の鼓動が早くなるのを必死に抑え、いつもの「周囲を安心させるための完璧な笑顔」を浮かべた。
「そうかな? 夏休みの間、ずっと家の中で涼んでたから、まだ外の空気に体が慣れてないだけだと思う。歩くペースも、少し涼しくなってきたから、景色を見ながらゆっくり歩いてきたの」
「……」
栞は何も言わず、ただじっと紬の目を見つめ返した。
その瞳の奥には、親友の嘘を見抜いている悲しみと、それでも本人が隠そうとしている以上は踏み込まないという、彼女なりの痛みを伴う優しさが滲んでいた。
「……ならいいけれど。鞄、貸しなさい。教室まで私が持つわ」
「えっ、いいよ、これくらい……」
「ダメよ。夏休みでなまった体には、教科書の重さも負担になるわ。私の筋力トレーニングに付き合ってちょうだい」
有無を言わさぬ口調で鞄をひったくられ、紬は苦笑いしながら「ありがとう」と頭を下げた。
二人は並んで、朝の喧騒に包まれた廊下を歩く。
教室のドアを開けると、そこには夏休みという期間を経て、少しだけ大人びた、あるいは日焼けして真っ黒になったクラスメイトたちの熱気が充満していた。
「あ、結城さん、三島さん! おはよう!」
真っ先に声をかけてきたのは、夏休みの間に海にでも行ったのか、見事なまでに肌を焼き、髪の色も少しだけ明るくなった藤原樹だった。
「藤原くん、おはよう。随分と日焼けしたね」
「だろ!? 夏休み、駅前の路上ライブだけじゃなくて、海沿いのフェスとかにも遊びに行ってさー。もう、最高だったぜ!」
「紫外線は皮膚細胞を破壊し、将来的なシミやシワの直接的な原因になるわ。あなたのその肌、医学的に見れば軽度の火傷状態よ。将来後悔しても知らないわよ」
栞の容赦ない絶対零度のツッコミに、樹は「うわっ、二学期も三島さんの言葉のナイフはキレッキレだな!」と大げさに胸を押さえてのけぞった。
その変わらない二人のやり取りに、紬が思わずクスッと笑い声を漏らした、その時だった。
「……おい樹、朝からうるせえよ。廊下までお前の声響いてたぞ」
教室の後ろのドアから、少しだけ気怠そうな、低くハスキーな声が聞こえた。
紬の心臓が、大きく、ドクンと跳ねた。
振り返ると、そこには瀬野陽向が立っていた。
夏休みの過酷な練習とインターハイという大舞台を経験した彼は、一学期の頃よりもさらに無駄な脂肪が落ち、顎のラインがシャープになっていた。日焼けした肌はたくましく、少し伸びた黒髪が、彼の持つストイックな雰囲気をより一層引き立てている。
ただ立っているだけで、周囲の空気を自分の方へと引き寄せてしまうような、圧倒的な存在感。
彼と目が合った瞬間、紬は世界から音が消え去ったような錯覚に陥った。
一ヶ月以上ぶりの、再会。
LINEで言葉は交わしていたけれど、こうして直接姿を見るのは、あの土曜日の夕方、玄関先で彼が「俺はお前にとっての光かもしれない。でもな、俺にとっても、お前は間違いなく『光』なんだよ」と告げてくれた、あの日以来だった。
「……っ」
陽向の目も、紬を捉えた瞬間、わずかに見開かれた。
彼の喉仏がゴクリと動き、何かを言おうと口を開きかけたが、周囲のクラスメイトの目を気にしたのか、すぐに口を閉じ、少しだけ照れくさそうに首の後ろを掻いた。
「……おはよ」
ぶっきらぼうな、けれど、その声の奥に隠しきれない熱と優しさを孕んだ挨拶。
「……おはよう、瀬野くん」
紬も、震えそうになる声を必死に抑え、ふわりと微笑み返した。
たったそれだけのやり取り。
それなのに、互いの間に流れる空気の密度は、他の誰にも入り込めないほどに濃密で、甘く、そして痛切だった。
彼が生きている。私が生きている。
こうしてまた、同じ空間で息を吸うことができている。
その奇跡に、紬はただただ感謝した。
「えー、席につけ。ホームルームを始めるぞ」
予鈴が鳴り、担任の教師が教壇に立つと、教室のざわめきが徐々に収まっていった。
黒板には、大きく『文化祭について』という文字が書かれている。
九月の終わりに行われる、高校生活最大のイベント、文化祭。
一学期からすでにクラスの出し物については大まかな議論が交わされていたが、今日はいよいよ、その具体的な内容と、それぞれの役割分担を決める日だった。
「夏休み前に行われたアンケートの結果、我が二年C組の出し物は、『星空カフェ』に決定した。教室を暗幕で覆って、プラネタリウムみたいに星を投影しながら、飲み物とちょっとしたお菓子を提供するやつだな。……で、今日はそのための係決めを行う」
担任の言葉に、クラス中から「おーっ!」という歓声と拍手が湧き起こる。
非日常の空間を作り上げ、クラスが一体となって何かに取り組む。これぞ青春、これぞ高校生活の醍醐味だ。
紬も、胸が高鳴るのを感じていた。
幼い頃から入退院を繰り返していた彼女にとって、学校行事というものは常に「見学」か「欠席」のどちらかでしかなかった。みんなが準備に追われ、笑い合い、時にはぶつかり合って絆を深めていくその輪の中に、自分が入ることなど決して許されなかった。
でも、今の私なら。
少しずつ悪くなっている体でも、無理のない範囲でなら、みんなと一緒に何かを作り上げることができるかもしれない。
「それじゃあ、係は大きく分けて三つだ。『内装・装飾係』、『買い出し・調理係』、それから当日の『接客係』だ。それぞれ希望のところに名前を書きに来い。人数が偏ったらジャンケンな」
担任が黒板に表を書き終えるなり、生徒たちは一斉に立ち上がり、黒板の前に群がった。
「俺絶対接客! メイド服着てもいいぜ!」
「お前が着たら客が逃げるわ! 樹は黙って裏で焼きそばでも焼いてろ!」
「星空カフェで焼きそば出す気かよ!」
樹の軽口に、クラス中がドッと沸く。
紬は席に座ったまま、その光景を微笑ましく見つめていた。
自分がどの係をやるべきか。
心の中では、当日の賑やかな接客係や、みんなでワイワイと買い出しに行く係をやってみたいという憧れがある。
しかし、現実問題としてそれは不可能だ。
接客で一日中立ちっぱなしになれば、確実に心臓が悲鳴を上げる。買い出しで重い荷物を持てば、その場で倒れてしまうかもしれない。
私の限界のライン。それを越えれば、この幸せな日常は一瞬にして崩れ去る。
「……紬」
隣の席から、栞がそっと声をかけてきた。
「装飾係、一緒にやりましょう。細かい作業なら座ってできるし、自分のペースで進められるわ。私、こういう緻密な作業は得意だから、力仕事は全部私がやるわよ」
栞の提案は、紬の体調を完璧に考慮した、最も安全で、かつ紬が「参加している」という実感を得られる最善の選択肢だった。
「うん……。ありがとう、栞ちゃん。私、装飾係にする」
紬が頷くと、栞は満足そうに眼鏡を押し上げ、二人の名前を『内装・装飾係』の欄に書きに行った。
その帰り際、栞は黒板の前で樹と陽向に声をかけた。
「藤原くん、瀬野くん。あなたたちは無駄に体力を持て余しているのだから、当然、教室全体を覆う暗幕の設置や、木材を運んだりする力仕事、つまり装飾係の『重労働部門』を担ってくれるのよね?」
「えっ!? 俺、接客でイケメンスマイル振りまく予定だったんだけど!」
「あなたのスマイルに需要はないわ。……勿論瀬野くんもよ、いいわね?」
「あ? ……まあ、力仕事なら俺らが得意だし、別にいいけど」
陽向はあっさりと承諾し、樹の首根っこを掴んで装飾係の欄に自分たちの名前を書き込んだ。
これで、いつもの四人が、同じ係として文化祭の準備に取り組むことになったのだ。
偶然を装った、栞の完璧な根回し。
紬は、親友の不器用で深すぎる愛情に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
文化祭の準備期間に入ると、放課後の学校は一種の「お祭り前夜」の特異な熱狂に包まれた。
各教室から漏れ聞こえる音楽、廊下に無造作に積まれた段ボールの山、ペンキの匂いと、どこからか漂ってくるお菓子の甘い香り。
二年C組の教室もまた、凄まじい混沌の真っ只中にあった。
机はすべて教室の後ろに固めて積まれ、床にはブルーシートが敷き詰められている。
紬は、ブルーシートの隅に置かれた小さなパイプ椅子に座り、膝の上にカッティングマットを置いて、金色の折り紙をハサミで星の形に切り抜く作業を担当していた。
チョキ、チョキ、という小気味良い音が、教室の喧騒の中に吸い込まれていく。
単純な作業だが、この星たちを天井から何百個も吊るし、プラネタリウムの光を反射させることで、教室を幻想的な空間にするのだ。
「……ふう」
数十個の星を切り抜いたところで、紬は小さく息を吐き出し、ハサミを持っていた右手をプラプラと振った。
ただ紙を切っているだけなのに、指先から腕にかけて、鉛のような疲労感が溜まっている。深く呼吸をしようとしても、肺が半分しか膨らまないような、あの嫌な息苦しさが常に胸の奥に張り付いていた。
夏休み前に比べて、確実に体力が落ちている。
日常生活を送るためのエネルギーのタンクが、ひどく小さくなってしまったような感覚。
(……大丈夫。まだ、やれる。みんなと一緒に、この空間を作りたいから)
紬は、痛む胸を気付かれないようにそっと押さえ、再びハサミを握り直そうとした。
その時。
「おい、結城」
不意に頭上から声が降り注ぎ、視界が大きな影に覆われた。
見上げると、脚立に乗って天井に暗幕を貼り付ける作業をしていた瀬野陽向が、額に汗を浮かべながらこちらを見下ろしていた。
彼は脚立から軽やかに飛び降りると、紬の座るパイプ椅子の前にしゃがみ込んだ。
「……ちょっと休憩しろよ。さっきからずっと同じ姿勢で、顔色悪いぞ」
陽向の目は、紬の手元にある大量の星の切り抜きと、彼女の少し青ざめた顔色を、心配そうに行ったり来たりしている。
「ううん、大丈夫だよ。座ってやってるから、全然疲れないし。それに、星、もっとたくさん作らないと……」
「嘘つけ」
陽向は、少しだけ低い、咎めるような声で言った。
そして、紬の手からハサミと折り紙を、まるで壊れ物を扱うように優しく取り上げた。
「お前、無理して笑う時の癖、出てんぞ。……ちょっと唇の端が引き攣ってる」
その指摘に、紬はハッと息を飲んだ。
親友の栞でさえ、あるいは妹の糸でさえ気づかないような、私自身の微細な表情の変化。
彼が、それを知っている。
彼がどれほど私のことを見ていてくれているのか、その事実が、紬の心臓を物理的な痛みとは別の、甘く切ない熱で締め付けた。
「……ごめんね。少しだけ、休むね」
「おう。俺が代わってやるから、お前はそれ飲んでろ」
陽向は、自分のジャージのポケットから、冷たく冷えたペットボトルの麦茶を取り出し、紬の膝の上に置いた。
そして、紬から奪ったハサミを自分の大きな手で不器用に握り、小さな金色の折り紙を切り始めた。
「ちょっ、瀬野くん! 星の角が丸くなってるよ! それじゃヒトデみたい!」
「うるせえ! 俺の指にはこのハサミは小さすぎるんだよ! それに、遠くから見りゃヒトデも星も一緒だろ!」
「全然違うよー。……ふふっ、あははっ」
陽向のあまりにも不器用な手つきと、真剣な顔でヒトデを量産していく姿に、紬はたまらず声を上げて笑い出した。
笑うと、少しだけ胸が苦しく、締め付けられる。
けれど、そんな苦しさなどどうでもよくなるくらい、この時間が愛おしかった。
教室の向こう側では、樹が暗幕に絡まって騒いでおり、栞が冷ややかな目でそれを解いている。
私の周りには、こんなにも温かくて、眩しい光が溢れている。
しばらくして、陽向が切り抜いた「ヒトデのような星」が机の上に山積みになった頃。
「……なぁ、結城」
陽向が、ハサミを動かす手を止めず、顔を俯かせたまま、ぽつりと呟いた。
「ん?」
「文化祭の当日。……一緒に、回らねえか」
ハサミの音が、ピタリと止まった。
教室の喧騒が、遠くの波音のように後退していく。
紬の心臓が、今までにないほどの激しい音を立てて跳ね上がった。
「えっ……」
それは、紛れもなく「誘い」だった。
ただのクラスメイトとしてではなく、特別な誰かとして、文化祭を一緒に回ろうという、彼からの不器用な、けれど真っ直ぐなアプローチ。
陽向は、依然として顔を俯かせたままだったが、その耳の裏は、見ているこちらが心配になるほど真っ赤に染まっていた。
「俺、接客のシフト入ってないし。お前も装飾係だから、当日は自由だろ? ……他のクラスの出し物とか、体育館のライブとか、もしお前が疲れない範囲でいいなら……一緒に、見て回りたいなって、思って」
彼の言葉が、一文字一文字、紬の魂の奥深くに刻み込まれていく。
一緒に、回りたい。
それは、普通の高校生の女の子であれば、飛び上がって喜ぶほどの夢のような提案だった。
好きな人と、二人きりで文化祭を回る。
そんな少女漫画のような青春のワンシーンが、この私に、死の影を引きずって生きている私に、差し出されているのだ。
「……瀬野、くん」
紬の口から、掠れた声が漏れた。
(行きたい……)
心の底から、そう叫んでいた。
彼と一緒に、学校中を歩き回りたい。彼の隣で笑い、彼が何を見て、何を感じるのかを、一番近くで共有したい。
――しかし。
現実という名の重く冷たい鎖が、紬の感情を力ずくで地上へと引きずり下ろす。
文化祭当日の、人混み。熱気。階段の上り下り。
今の私の体が、それに耐えられるはずがない。
途中で息が上がり、動けなくなり、最悪の場合は彼の目の前で発作を起こして倒れてしまう。
彼に、私のこの惨めな真実を、命の終わりが迫っているという残酷な現実を、突きつけてしまうことになる。
それは、絶対に避けなければならない。
彼を、これ以上深く私の人生に巻き込んではいけない。
「……ごめんなさい」
紬は、膝の上でギュッと両手を握りしめ、震える声で言った。
陽向が、弾かれたように顔を上げた。
その瞳に浮かんだ戸惑いと、拒絶されたことによる微かな傷つきの色が、紬の胸を刃物のようにえぐった。
「私、当日は……体調のこともあるし、あまり人混みの中を歩き回れないかもしれないから。……だから、二人で回るのは、難しいと思う」
それは嘘ではなかった。
しかし、一番の理由を隠した、卑怯な言葉だった。
「……そっか」
陽向は、一瞬だけ言葉を失った後、無理に口角を上げて笑ってみせた。
「わりぃ! 俺、お前の体調のこと、ちゃんと考えてなかった。そうだよな、人多いし、疲れるよな。……忘れてくれ。変なこと言ってごめん」
彼が気を使えば使うほど、紬の罪悪感は増していく。
――違うの。
――本当は、這ってでも行きたいの。あなたの隣を、ずっと歩いていたい。
――でも、私にはその未来を選ぶ資格がない。
「ううん。……誘ってくれて、すごく嬉しかった。ありがとう、瀬野くん」
紬が必死に作り上げた笑顔を見て、陽向は小さく頷き、再び立ち上がった。
「じゃあ、俺、あっちの作業戻るわ。……お前、本当に無理すんなよ。しんどくなったら、すぐに栞か俺に言え」
陽向の背中が、離れていく。
その背中を見つめながら、紬は、自分の胸の奥で、何かが決定的に壊れていく音を聞いたような気がした。
放課後の準備が終わり、生徒たちが帰り支度を始める頃。
西日が、教室の窓から長く差し込み、散らかった床のブルーシートをオレンジ色に染め上げていた。
紬は、切り抜いた星たちを箱に片付け、パイプ椅子から立ち上がろうとした。
「……っ」
その瞬間。
視界が、ぐらりと大きく揺れた。
まるで、足元の床が急に傾いたような感覚。
同時に、胸の奥から、冷たく重い塊がせり上がってくる。
――息が、吸えない。
一学期の終わりに感じたあの発作よりも、さらに深く、鋭い痛みが肺を貫いた。
紬は、声も出せずにその場にうずくまり、胸を強く掻きむしった。
「……はっ、ひゅっ……」
喉の奥から、渇いた嫌な音が鳴る。
酸素が、脳に行き渡らない。
目の前が白く明滅し、指先の感覚が急速に失われていく。
(……だめ。ここで、倒れたら)
紬は、薄れゆく意識の中で、必死に自分の鞄に手を伸ばした。
かすみ草のポーチ。頓服薬。
震える指でジッパーを開け、薬を取り出し、また水もないまま無理やり飲み込む。
――苦しい。苦しい。
――誰か、助けて。
いや、だめだ。誰にも気づかれてはいけない。
彼に、見られてはいけない。
紬は、机の影に隠れるようにして身を小さく丸め、必死に呼吸を整えようとした。
薬が効き始めるまでの数分間が、永遠のように長く感じられる。
やがて、少しずつ肺に酸素が戻り始め、激しい動悸が落ち着いてきた。
全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、立っている気力は一滴も残っていなかった。
「……紬?」
頭上から、静かな、けれど微かに震える声が降ってきた。
顔を上げると、そこには、血の気を引かせた顔でこちらを見下ろす、親友の栞が立っていた。
「……し、栞ちゃん」
「あなた……今、発作が起きていたわね」
栞の言葉は、疑問形ではなく、確信を持った断定だった。
彼女の鋭い目は、紬の顔色、乱れた呼吸、そして握りしめられたポーチから、すべてを瞬時に悟っていた。
「……ううん、違うよ。ちょっと、貧血みたいになっちゃって。立ちくらみが……」
「嘘をつかないで!」
栞の、悲鳴のような強い声が、誰もいなくなった放課後の教室に響き渡った。
紬は、言葉を失った。
いつも冷静沈着な栞が、眼鏡の奥の瞳に涙をいっぱいに溜めて、肩を震わせていた。
「もう……限界なんでしょう? 数値が横ばいなんて嘘。あなたの体は、もう、普通の学校生活を送れる状態じゃない。……そうでしょ?」
親友の涙を前に、紬はもう、嘘を突き通すことはできなかった。
「……ごめんね、栞ちゃん」
紬の目からも、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
「……もう、無理かもしれない。私、みんなと一緒に、文化祭まで……いられないかもしれない」
その言葉を口にした瞬間、紬の中で、張り詰めていた最後の糸がプツリと切れた。
生き切るのだと。
彼の光になるのだと。
そう誓ったはずなのに、私の肉体は、残酷なまでにその限界を告げている。
秋の冷たい風が、窓の隙間から吹き込み、切り抜かれた金色の星たちを虚しく床に散らばらせた。
翳りゆく季節の中で、結城紬の時間は、音を立てて崩れ去ろうとしていた。




