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十二話目

 秋の空は、どこまでも青く、そして残酷なまでに澄み渡っていた。

 放課後の誰もいなくなった二年C組の教室で、結城紬が起こした発作。

 それは、これまで「立ちくらみ」や「少し息が上がっただけ」という言い訳でごまかし続けてきた彼女の嘘を、親友の三島栞の目の前で決定的に暴くものだった。

 床に座り込み、冷や汗を流しながら荒い呼吸を繰り返す紬の背中を、栞はただ無言で、震える手でさすり続けていた。

 彼女の銀縁眼鏡の奥からは、大粒の涙が音もなくこぼれ落ち、紬のカーディガンの肩口に濃い染みを作っていく。

 賢く、論理的な栞には、紬の今の状態が医学的にどのような意味を持つのか、痛いほどに理解できていた。限界を越えようとしている。いや、すでに限界は越えており、気力だけで無理やり肉体を動かしている状態なのだと。


「……栞ちゃん、ごめんね」


 やがて、薬が効いて呼吸が落ち着いてきた紬が、掠れた声で謝った。


「私が……嘘ついてたから。栞ちゃんのこと、悲しませちゃった」


「謝らないで」


 栞の声は、いつもの冷静なトーンを取り戻そうと必死に努めているのがわかったが、それでも微かな震えを隠しきれていなかった。


「謝るのは私の方よ。紬が無理をしていることなんて、とっくに気づいていたのに……。あなたが、瀬野くんたちと笑っているのがあまりにも楽しそうだったから、私、その時間を奪うのが怖くて……目を逸らしていたの。親友失格ね」


「そんなことない! 栞ちゃんがいてくれたから、私、ここまで頑張れたんだよ。……栞ちゃんが、私のお弁当の時間も、係のことも、全部守ってくれてたから」


 紬は、栞の手を両手で握りしめた。

 二人の体温が、秋の冷たい風が吹き込む教室の中で、静かに混ざり合う。


「ねえ、栞ちゃん」


 紬は、真っ直ぐに栞の目を見た。

 その瞳には、絶望ではなく、ある種の覚悟を秘めた、静かな光が宿っていた。


「私ね、やっぱり……文化祭まで、みんなと一緒にいたい」


 その言葉を聞いた瞬間、栞はハッと息を飲んだ。


「ダメよ! 今のあなたの体で、これ以上学校に通い続けるなんて……最悪の場合、命に関わるわ! 黒崎先生に連絡して、すぐに入院するべきよ!」


「入院したら、もう二度と、ここには戻って来られない」


 紬の言葉は、恐ろしいほどの静けさと確信に満ちていた。


「私の体は、私が一番よくわかってるの。……もう、引き返すことはできない。どっちみち、私の時間は長くはないんだよ。……だったら、病院の白い天井を見つめて時間を数えるよりも、最後まで……この教室で、みんなと星空を作りたい。瀬野くんと、藤原くんと、栞ちゃんと一緒に」


 それは、結城紬という一人の少女の、生への執着であり、同時に死への受容でもあった。

 限られた命を、どこで、どのように燃やし尽くすのか。

 彼女は、その選択権を自分の意志で握りしめているのだ。

 栞は、強く唇を噛み締め、俯いた。

 論理で考えれば、紬の選択は狂気の沙汰だ。自ら死期を早めるような行為を、親友として止めるのが当然の義務である。

 しかし、紬のあの真っ直ぐな瞳を見てしまうと、彼女の「生き切る」という覚悟を、誰にも奪う権利などないのだと思い知らされる。


「……わかったわ」


 長い沈黙の後、栞は顔を上げ、眼鏡のブリッジを中指でスッと押し上げた。

 その目には、いつもの冷徹な、しかし最高に頼もしい光が戻っていた。


「ただし、条件があるわ。一つ、これからは学校への行き帰りは必ずお母様の車で送迎してもらうこと。二つ、文化祭の準備作業は、一日一時間まで。それ以上は私が強制的に帰らせる。三つ、少しでも体調に異変を感じたら、隠さずにすぐ私に言うこと。……これが守れないなら、今すぐ黒崎先生に電話するわ」


「……うん。約束する。ありがとう、栞ちゃん」


 紬は、心からの笑顔で頷いた。

 こうして、結城紬の「命を懸けた文化祭準備」が、親友という最強の協力者を得て、静かに幕を開けたのだった。



 翌日から、紬の学校生活は、栞の徹底した管理の下に置かれることとなった。

 朝は母の咲良の車で校門ギリギリまで送ってもらい、そこから教室までは栞が荷物を持ち、紬のペースに合わせてゆっくりと階段を上る。

 放課後の文化祭準備も、栞がタイマーをセットし、一時間が経過した瞬間に「はい、結城さんは今日はここまでよ。これ以上は埃が舞うから帰ってちょうだい」と、周囲に怪しまれない絶妙な口実で紬を帰宅させた。

 藤原樹は「えー! もう帰んのかよ! 結城さんいないと星の切り抜きがヒトデになっちゃうのに!」と不満げに騒いだが、栞の「あなたのその大雑把な性格が問題なのよ」という一言で黙らせられた。

 そんな中、瀬野陽向だけは、いつも少しだけ心配そうな目で紬の帰り際を見つめていた。

 彼は、紬が「文化祭を一緒に回る」という誘いを断って以来、どこか踏み込みきれないような、見えない距離を保って接してくるようになっていた。

 もちろん、挨拶もするし、お弁当の時間には他愛のない話もする。

 しかし、あの土曜日の玄関先で彼がぶつけてきたような、圧倒的な熱量と「光」の交歓は、そこにはなかった。

 紬が自ら引いた境界線。

 彼を傷つけないための、冷たい防壁。

 それが確実に機能していることに安堵しつつも、紬の胸の奥は、彼の少し寂しそうな視線を感じるたびに、ギリギリと締め付けられるように痛んだ。


 文化祭まで、あと一週間と迫ったある日のこと。

 その日は、朝から紬の体調がひどく優れなかった。

 熱はないものの、ベッドから起き上がるだけで息が切れ、視界の端が白くチカチカと明滅している。朝食のにゅうめんも半分も食べられず、見かねた咲良が「今日は休みなさい」と何度も止めたが、紬は首を縦に振らなかった。

 どうしても、行かなければならない理由があったのだ。

 今日は、二年C組の『星空カフェ』の、プラネタリウムの試写テストが行われる日だった。

 暗幕を完全に張り巡らせた教室で、手作りの星たちとプロジェクターの光がどのように交差するのか。自分たちが少しずつ作り上げてきたあの空間が、ついに一つの形になる瞬間。

 それだけは、なんとしても自分の目で見たかった。


 母の車で学校に到着し、栞のサポートを受けながらなんとか教室の席にたどり着いた紬だったが、その顔色は誰の目から見ても明らかなほどに青ざめていた。

 額にはじっとりと冷や汗が浮かび、呼吸は浅く、小刻みに肩が上下している。


「……結城。お前、顔色やばいぞ。熱あんじゃねえのか?」


 斜め前の席に座る陽向が、振り返って顔をしかめた。

 彼の目には、遠慮や距離感を飛び越えた、純粋な焦りと心配が浮かんでいる。


「ううん……大丈夫。少しだけ、寝不足なだけだから」


 紬は必死に笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉が強張ってうまく笑えなかった。

 隣の席の栞が、机の下で紬の手をギュッと握りしめる。栞の手は氷のように冷たかった。彼女もまた、紬の限界がすぐそこまで来ていることを悟り、恐怖と戦っているのだ。


「大丈夫なわけねえだろ。三島、結城を保健室に……」


「瀬野くん、静かにして。私が様子を見るから」


 栞が陽向の言葉を遮った。

 陽向は何か言いたげに口を開いたが、栞の鬼気迫る表情に圧倒され、不満げに舌打ちをして前を向き直った。

 午前中の授業は、紬にとって地獄のような時間だった。

 教師の声は水の中の反響音のように遠く聞こえ、黒板の文字は二重にも三重にもぶれて見える。意識が遠のきそうになるのを、机の下で自分の太ももを強くつねることで必死に引き留めていた。

 昼休みの弁当も、樹と陽向が気を使って話しかけてくれたが、紬はほとんど声を発することができず、ゼリー飲料を数口流し込むのが精一杯だった。


 そして、放課後。

 いよいよ、プラネタリウムの試写テストの時間がやってきた。


「よし! みんな、窓の暗幕全部閉めろ! 隙間から光が漏れないようにガムテープで完璧に塞げよ!」


 担任の指示が飛び、クラスメイトたちが一斉に動き出す。

 教室の照明が消され、分厚い黒い暗幕が窓を覆い尽くしていく。

 昼間だというのに、教室の中は完全な暗闇へと包まれた。

 紬は、最後列の自分の席に座ったまま、その暗闇の中で静かに息を整えていた。

 暗闇は、彼女の呼吸の乱れや顔色の悪さを周囲から隠してくれる。そのことに少しだけ安堵しながら、胸の奥のかすみ草のポーチの上から、そっと自分の心臓に触れる。

 ドクン、ドクンという、頼りない、けれど必死に生きようとしている鼓動。


(……もう少しだけ。もう少しだけ、動いて)


「プロジェクター、準備完了! 星の装飾も全部吊るし終わったぜ!」


 樹の明るい声が、暗闇の向こうから響いた。


「よし、じゃあ行くぞ! 点灯!」


 担任の合図とともに。

 パッと、教室の中央に置かれたプロジェクターから、強烈な光が放たれた。

 同時に。


「……うわぁ」


 クラス中から、感嘆の吐息が漏れた。

 真っ暗な教室の天井、壁、そして暗幕の至る所に、無数の無数の星たちが浮かび上がったのだ。

 プロジェクターが映し出す本物の星座の映像と、紬たちが何百個も手作業で切り抜き、天井からテグスで吊るした金色の星の装飾。

 それらが光を複雑に反射し合い、小さな教室の中に、果てしなく広がる銀河の空間を作り出していた。

 ゆっくりと回転する光の粒。

 まるで、宇宙の海の中を漂っているかのような、圧倒的で幻想的な景色。


「……綺麗」


 紬の口から、無意識に言葉がこぼれ落ちた。

 涙が、込み上げてくる。

 私が、みんなと一緒に作った星空。

 私の指先が、私の時間が、確かにこの空間の一部になって、こんなにも美しい光を放っている。

 病室のベッドから四角く切り取られた空しか見られなかった私が、こんなにも広くて、眩しい星空の下にいる。


 生きていて、よかった。


 今日まで、命を繋いでこられて、本当によかった。


 紬は、頬を伝う涙を拭うことも忘れ、ただひたすらに天井の星たちを見つめていた。


 その時。

 暗闇の中で、不意に隣の席の椅子が引かれる音がした。

 栞ではない。彼女は今、プロジェクターの横で映像の調整を行っているはずだ。

 誰かが、紬の隣に座った気配がする。

 そして。

 そっと、机の上に置かれていた紬の右手に、大きくて、少し硬い、温かい手が重なった。


「……っ」


 紬は、息を飲んで横を向いた。

 星の光の乱反射に照らされて、うっすらと浮かび上がったその横顔。

 瀬野陽向だった。

 彼は、前を見たまま、天井の星空を見上げながら、紬の手に自分の手をしっかりと重ね合わせている。


「……瀬野、くん」


「……お前が切った星も、やっぱヒトデ混じってんな」


 陽向の口から出たのは、そんな冗談めかした、けれどひどく優しい声だった。


「……私のやつは、ヒトデじゃないってば」


「嘘つけ。あそこの隅っこで回ってるやつ、完全に海の生き物だろ」


 陽向が、重なっていない方の手で、天井の隅を指差す。

 紬もそれにつられて見上げる。

 確かに、少し形がいびつな星が、プロジェクターの光を受けてクルクルと回っていた。


「……ふふっ、ほんとだ」


 紬が小さく笑うと、陽向は重ねた手に、ギュッと少しだけ力を込めた。

 彼の熱が、冷え切っていた紬の指先から、ゆっくりと体全体へと広がっていく。


「結城」


 陽向が、横を向き、暗闇の中で真っ直ぐに紬の目を見た。

 プロジェクターの微かな光を反射する彼の瞳は、どんな星よりも強く、美しく輝いていた。


「俺さ。お前に断られてから、ずっと考えてたんだ」


 彼の声は、静かだが、決意に満ちていた。


「お前がどうして、文化祭一緒に回れないって言ったのか。……お前が、毎日顔色悪くしながら、それでも必死に笑ってる理由」


「……えっ」


 紬の心臓が、恐怖で凍りつきそうになった。


 ――気づかれた?


 私の病気が、もう限界に近いことを。私が長くは生きられないことを。


「俺、バカだからさ。難しいことはよくわかんねえけど」


 陽向は、紬の震える手を、両手で優しく包み込んだ。


「お前が、何かを隠してて、一人で苦しんでるってことくらいは、わかるんだよ」


「……っ」


「だからさ。……文化祭、一緒に回らなくていい」


 その言葉に、紬の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 拒絶されたわけではない。彼が、私のために、私が一番傷つかない方法を選んでくれようとしているのだと、痛いほどに伝わってきたから。


「その代わり」


 陽向は、さらに紬へと顔を近づけた。

 彼の息遣いが、星空の光の中で、微かに頬に触れる。


「当日は、俺がずっと、お前のそばにいる」


 それは、ただのクラスメイトの域を完全に超えた、絶対的な「守護」の誓いだった。


「お前が装飾係の椅子に座ってるなら、俺もずっとそこにいる。お前が苦しくなったら、俺が誰よりも早く気づく。……だから、もう、一人で無理して笑うなよ」


「瀬野くん……だめだよ、そんなの」


 紬は、必死に首を横に振った。


「瀬野くんは、みんなと文化祭を楽しまなきゃ。私のために、そんな……時間を無駄にしちゃだめ……」


「無駄じゃねえよ……」


 陽向の静かで、それでも強い声が、紬の言葉を遮った。


「俺にとっての時間は、お前といる時間が一番意味があんだよ……お前が俺の光になってくれたみたいに、俺だって……お前が苦しい時、お前の光になりたいんだよ……!」


 暗闇の中で響いた、彼からの、不器用で真っ直ぐすぎる告白。

 光になりたい。

 その言葉が、紬の心に張り巡らされていた最後の防壁を、木端微塵に打ち砕いた。

 もう、我慢できなかった。

 彼の優しさに、彼の熱に、すべてを委ねてしまいたかった。


「……っ、うあぁぁっ……!」


 紬は、陽向の手を強く握り返し、声を殺して泣き崩れた。

 怖かった。

 本当は、死ぬのが怖かった。

 みんなと違う世界に落ちていくのが、怖くて仕方なかった。

 誰かに助けてほしかった。

 この冷たい孤独の暗闇から、誰かに連れ出してほしかったのだ。


 陽向は、泣きじゃくる紬の背中にそっと腕を回し、自分の胸に引き寄せた。

 彼のジャージから、少しだけ汗の匂いと、太陽のような温かい匂いがした。

 星空がゆっくりと回転する教室の中で。

 二人の影は、一つの塊となって、静かに震え続けていた。



「……よし、テスト終了! 電気つけるぞー!」


 担任の合図とともに、蛍光灯の眩しい光が教室を照らし出し、暗幕が開かれて夕日が差し込んできた。

 紬と陽向は、すでに体を離し、何事もなかったかのようにそれぞれの席に座っていた。

 しかし、二人の間に流れる空気は、もう以前のものとは決定的に違っていた。

 秘密の共有。魂の共鳴。

 紬の目元は少し赤かったが、その顔には、朝の青ざめたような死の影はなく、不思議な安堵感と熱が宿っていた。


「紬」


 プロジェクターの片付けを終えた栞が、足早に紬の元へと歩み寄ってきた。

 彼女の目は、紬と、そしてその隣で少しバツが悪そうにしている陽向を交互に見つめ、すべてを悟ったように小さく息を吐き出した。


「……少しは、楽になった?」


 栞の静かな問いかけに、紬はコクリと頷いた。


「うん。……栞ちゃん、ごめんね。心配かけて」


「謝るのは禁止って言ったでしょ。……瀬野くん」


 栞は、クルリと陽向の方へ向き直り、銀縁眼鏡の奥から鋭い視線を放った。


「紬の体調は、あなたが想像している以上に深刻よ。あなたがそばにいると言ったのなら、その言葉に最後まで責任を持ちなさい。少しでも目を離して、紬に何かあったら……私、あなたを絶対に許さないから」


「……ああ。わかってる」


 陽向は、栞の絶対零度の脅しにも怯むことなく、真っ直ぐに頷き返した。

 その力強い目を見て、栞は「そう」とだけ言い、小さく口角を上げた。

 親友としての、最も信頼できるパートナーへの、無言の承認だった。


 文化祭まで、あと三日。

 結城紬の体内の時限爆弾は、確実に、その針を進めている。

 しかし、今の彼女はもう、孤独な暗闇の中にはいない。

 論理と優しさを持つ親友。

 音と空気で場を和ませる天才。

 そして、暗闇を照らす、眩しすぎる光。

 彼らとともに、結城紬は、自らの命の最後にして最大の「輝き」を放つため、文化祭という嵐の中へ足を踏み入れようとしていた。

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