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八話目

 雨は、夜通し降り続いていた。

 朝になってもその勢いは衰えず、窓ガラスを叩く規則的な雨音が、結城紬の部屋を薄暗く、重苦しい空気で満たしている。

 梅雨の本格的な到来。それは紬にとって、一年で最も厄介で、体力を削られる季節の幕開けだった。

 ベッドから身を起こすだけで、胸の奥に鉛が詰まっているような鈍い重さを感じる。空気中に飽和した湿気が、呼吸を浅くさせ、心臓の働きに目に見えない負荷をかけ続けているのだ。

 紬は、ベッドの横に置かれた酸素吸入器のチューブを少しだけ迷った末に手に取り、鼻の下に当てた。

 シューという微かな音とともに、高濃度の酸素が肺の奥底へと送り込まれる。その冷たく乾いた空気を何度か深く吸い込むと、視界の端でチカチカと明滅していた白い光が、すっと消えていった。


「……よし」


 紬は小さく呟き、チューブを外してベッドから立ち上がった。

 今日は、休むわけにはいかないのだ。

 机の上には、昨夜遅くまでかかって書いた、あの小さなノートが開かれたまま置かれている。

 いつもは自分の感情や風景を書き留めるためだけに使っていたそのノートに、紬は初めて、明確な「宛先」を持って言葉を紡いだ。


 ――瀬野陽向へ。


 彼が今、どれほど深い暗闇の中で壁と戦っているのか。その苦しみを代わってあげることはできないけれど、せめてその足元を照らす、小さな光の欠片になりたい。

 そんな祈るような気持ちで、何度も何度も書き直した。

 自分の病気のことは、もちろん書いていない。同情を引くような言葉も、押し付けがましい「頑張れ」も避けた。

 ただ純粋に、彼がこれまでグラウンドで刻んできた足跡がどれほど美しいものか、そして、今立ち止まっているその時間が、決して無駄ではないということを、紬なりの言葉で表現したつもりだった。

 これを、どうやって彼に渡すか。

 直接手渡すのは、さすがに恥ずかしすぎる。それに、彼もクラスメイトの目がある前で、女子からノートを渡されるのは気まずいだろう。

 紬は、ノートの該当ページを綺麗に切り離し、それを丁寧に三つ折りにすると、制服のブラウスの胸ポケットにそっと忍ばせた。


「お姉ちゃん、朝ごはんできたよ。……って、顔色悪いじゃん」


 部屋に入ってきた糸が、紬の顔を見るなり眉をひそめた。


「今日は雨だし、湿度も高いから休んだら? お母さんも心配してるよ」


「ううん、大丈夫。少し息が上がりやすいだけだから、ゆっくり歩けば平気だよ。それに、今日はどうしても学校に行きたいの」


「どうしてもって……なにさ、それ……」


 糸は不満げに唇を尖らせたが、紬の強い意志を感じ取ったのか、それ以上は引き留めようとはしなかった。

 結城家の朝の食卓は、いつも通りの過保護な優しさに満ちていた。母の咲良は、消化の良い温かい煮麺(にゅうめん)を作ってくれており、「もし途中で苦しくなったら、すぐにお母さんに電話するのよ」と何度も念を押した。



 通学路は、色とりどりの傘で埋め尽くされていた。

 雨の日の登校は、晴れの日以上に体力を消耗する。傘を差しながらバランスを取る筋肉、水たまりを避けるための不規則な歩幅、そして何より、重くのしかかる湿気。

 紬は、息が切れないように、いつもよりさらにゆっくりとしたペースで歩き続けた。時折、胸ポケットに忍ばせた手紙の上から、自分の心臓の鼓動を確かめるように手を当てる。

 ドクン、ドクンという規則的なリズムが、手紙の存在感とともに、紬に奇妙な勇気を与えてくれていた。


 教室に着くと、すでに多くの生徒が登校しており、雨の日の特有の少し鬱屈とした、けれど賑やかな空気が充満していた。

 紬は自分の席に向かいながら、さりげなく陽向の席を一瞥(いちべつ)した。

 彼はまだ来ていない。

 いつもなら、樹と一緒にギリギリの時間に駆け込んでくることが多いから、当然といえば当然だ。

 紬は鞄を机の下に置き、カーディガンを脱ぐふりをしながら、周囲の様子を素早く確認した。

 親友の栞は、まだ図書室の朝の当番で教室にはいない。他のクラスメイトたちも、それぞれ自分のグループでのおしゃべりに夢中になっている。


(……今だ)


 紬は、胸ポケットから三つ折りにした手紙を取り出すと、息を止め、すばやい動作で陽向の机の引き出しの奥へとそれを滑り込ませた。

 見られていない。誰にも気づかれなかった。

 心臓が、早鐘のように打ち鳴らされている。悪いことをしているわけではないのに、手の中がじんわりと汗ばんでいた。


「おはよう、紬」


 不意に背後から声をかけられ、紬はビクッと肩を跳ねさせた。

 振り返ると、図書室の当番を終えたらしい栞が、冷ややかな視線でこちらを見下ろしていた。


「し、栞ちゃん! おはよう」


「……何か、慌てていたように見えたけれど?」


「ううん、何でもないよ! ただ、少し雨に濡れちゃったから、ハンカチを探してて……」


 嘘をつくのが下手な紬の顔は、おそらく今、真っ赤になっているはずだ。

 栞は、銀縁眼鏡をスッと押し上げ、紬の顔と、その斜め前にある陽向の空席を交互に見つめ、やがて小さく息を吐き出した。


「そう。ならいいけれど。……今日の紬、顔色はあまり良くないわね。湿度のせい? 息は苦しくない?」


「うん、大丈夫。ゆっくり歩いてきたから」


 栞の鋭い観察眼と、的確な心配に救われながら、紬は自分の席に腰を下ろした。

 あと十分もすれば、予鈴が鳴る。

 彼が登校してきて、引き出しに手を入れた時、あの手紙に気づいてくれるだろうか。

 読んで、何かを感じてくれるだろうか。

 期待と不安が入り混じった感情が、紬の胸の中でぐるぐると渦を巻いていた。


「ういーっす! ギリギリセーフ!」


 予鈴が鳴る直前、教室の前のドアが勢いよく開き、雨に濡れた髪を振り乱した藤原樹が飛び込んできた。その後ろから、少し気怠そうに瀬野陽向が続く。

 陽向の顔には、昨日の放課後にグラウンドで見せたような絶望的な暗さはなかったが、それでもまだ、いつものフラットな余裕は戻っていなかった。

 彼は自分の席に着くと、鞄を机の横にかけ、だるそうに引き出しの中に手を入れた。教科書を取り出すための、無意識の動作。

 紬は、息を飲んでその様子を斜め後ろから見つめていた。

 陽向の手が、引き出しの中でピタリと止まる。

 何か違和感に気づいたように、彼は不思議そうな顔をして、引き出しの中からそれを取り出した。

 三つ折りにされた、ノートの切れ端。

 宛名も何も書かれていないその紙を、陽向はいぶかしげに見つめ、やがてゆっくりとその折り目を開いた。


 紬の心臓が、大きくドクンと跳ねた。

 彼が、文字を目で追っている。

 ほんの数十秒の出来事だったはずなのに、紬にとってはそれが何時間にも感じられた。

 陽向の視線が、紙の上を往復する。

 やがて、彼はハッとしたように顔を上げ、振り返った。

 そして、真っ直ぐに、紬の目を見た。


 その瞳の奥には、強い驚きと、そして、胸の奥底の何かを激しく揺さぶられたような、抑えきれない熱い光が宿っていた。

 紬は、思わず視線を逸らしてしまいそうになるのを必死に堪え、小さく、本当に小さく、コクリと頷いた。

 私が書いたものです、という合図。

 陽向は、一瞬だけ言葉を失ったように口を半開きにし、それから、手の中の紙をもう一度見つめ、丁寧に、折れ目がつかないように三つ折りに戻すと、自分の制服の胸ポケットの奥深くに大切にしまった。

 そして、紬に向かって、不器用な、けれど確かな決意に満ちた笑顔を向けてみせた。

 それは、「ありがとう」という声なき声だった。


 ホームルームを知らせるチャイムが鳴り響く。

 担任の教師が教室に入ってきて、ざわめきが静まる。

 紬は、前を向き直った陽向の背中を見つめながら、大きく息を吐き出した。

 胸の奥にあった鉛のような重さが、少しだけ軽くなったような気がした。



 放課後。

 雨は小降りになっていたが、空は相変わらずどんよりと曇り、空気は水分を含んで重たかった。

 陸上部は、グラウンドが使えないため、校舎内の廊下や階段を使った地味で過酷なフィジカルトレーニングを行っていた。

 紬は、図書室の窓際の指定席に座りながら、遠くの階段の方から聞こえてくる、部員たちの規則的な足音を聞いていた。

 ノートを開き、今日一日を振り返る。

 朝、手紙を渡した時の、あの陽向の顔。

 昼休みに四人で弁当を食べた時、彼は昨日とは打って変わって、樹の冗談に呆れながらも笑い返し、残さず弁当を平らげていた。

 何かが、確実に変わったのだ。

 私の拙い言葉が、彼の厚い壁に、ほんの少しだけ亀裂を入れることができたのだろうか。



『言葉には、温度がある。誰かを励ましたいと願う時、その言葉は体温を持ち、相手の心の奥底へと届くのだと知った。私には、彼と一緒に走ることはできないけれど、私の言葉が、彼の背中を少しでも押す風になれたのなら、私がこの世界に存在する意味は、確かにあったのだと思える。』



 ペンを置き、図書室の静けさに身を委ねる。

 と、その時。

 ギィッ、と図書室の重い扉が開く音がした。

 振り返ると、そこに立っていたのは、練習着姿で汗だくになった瀬野陽向だった。

 彼は息を弾ませながら、カウンターの奥にいる栞に軽く会釈をし、迷うことなく紬のいる窓際の席へと歩いてきた。

 その顔には、朝の不器用な笑顔以上の、真っ直ぐで力強い光が宿っていた。


「……瀬野くん。部活中じゃないの?」


 紬が驚いて尋ねると、陽向は息を整えながら、紬の向かいの席にドカッと腰を下ろした。


「休憩時間だ。……ちょっと、顔見たくなってさ」


「私の?」


「おう」


 陽向のあまりにもストレートな言葉に、紬は顔が熱くなるのを感じた。


「朝のあれ。……サンキューな」


 陽向は、自分の胸ポケットをポンと叩いた。そこには、紬の手紙がしまわれているはずだ。


「俺、あの手紙読んで……なんか、すげえ目が覚めたっていうか。俺、タイムのことばっかり気にして、自分が何のために走ってんのか、見失ってたわ」


 陽向の言葉は、熱を帯びていた。


「お前が手紙に書いてくれただろ。『タイムの向こう側にある景色を見せてほしい』って。俺、それに気づいたんだよ。俺はただ、記録を作るために走ってるんじゃない。走ることで、自分の限界を超えていく、その景色を見たいから走ってんだって」


「瀬野くん……」


「だからさ」


 陽向は、机の上に身を乗り出すようにして、真っ直ぐに紬の目を見た。


「明後日の地区大会。絶対に見に来いよ」


「えっ……」


 予想外の誘いに、紬は言葉を詰まらせた。

 地区大会。それは、陽向がインターハイへの切符をかけて戦う、最も重要な舞台だ。

 しかし、それは休日に行われる。学校とは違う、遠くの競技場まで足を運ばなければならない。

 今の紬の体調で、梅雨の湿気の中、人混みの多い競技場まで行くことは、黒崎が激怒するレベルの「無理」だった。


「俺、絶対にお前に、俺の最高の走りを見せるから。壁なんか、ぶっ壊してやる。だから、その瞬間を、お前のその目で見ててほしいんだ」


 陽向の目は、嘘偽りのない、純粋な熱情に溢れていた。

 彼にとって、紬の存在が「ただのクラスメイト」から、「自分の走りを捧げたい特別な誰か」へと昇華していることが、痛いほどに伝わってくる。

 嬉しかった。

 涙が出るほど、彼にそう言ってもらえたことが嬉しかった。

 しかし。

 残酷な現実が、紬の喉元に冷たい刃を突きつける。


(……行けないよ)


 心の中で、悲鳴のような声が響いた。

 もし競技場で発作を起こせば、彼に自分の病気の深刻さを知られてしまう。

 ただの「体の弱い子」ではなく、いずれ死んでしまう「病人」であることを、彼に突きつけてしまう。

 それは、今まさに壁を壊そうとしている彼に、別の重い十字架を背負わせることになる。


「……瀬野くん、ごめんなさい」


 紬は、震えそうになる声を必死に抑え、膝の上のスカートを強く握りしめた。


「私、明後日は……用事があって、行けないの」


「……え?」


 陽向の顔から、パッと光が消えた。


「用事って……外せないのか? 俺の出番、午後からだから、少しだけでも……」


「ごめんなさい。……家の用事で、どうしても外せないの。だから、応援に行けない」


 紬は、彼の目を見ることができず、うつむいて嘘をついた。

 嘘をついている時の自分の顔が、どれほど醜いものかを知っているから。


「……そっか」


 陽向の、失望を含んだ小さな声が、図書室の空気に溶けていく。

 痛い。胸が、張り裂けそうだ。

 彼を励ましたくて、彼の光になりたくて手紙を書いたのに、結局はこうして、彼を失望させてしまう。

 自分の体の限界が、彼との間に引かれた残酷な境界線が、たまらなく憎かった。


「……わりぃ、無理言ったな。気にすんな」


 陽向は、少しだけ空元気を含んだ声で立ち上がった。


「応援に来れなくても、お前の手紙があれば十分だわ。俺、絶対やってやるから」


「……うん。頑張ってね。応援してる」


 紬は、顔を上げず、ただ小さく頷くことしかできなかった。

 陽向の足音が、遠ざかっていく。

 図書室の扉が閉まる音が、まるで二人の世界を隔てる絶望の音のように響いた。


「……紬」


 いつの間にか、カウンターから出てきた栞が、紬の隣に立っていた。

 彼女の目には、すべてを見透かしたような、深く静かな悲しみが湛えられている。


「嘘、ついたわね」


「……栞ちゃん」


「どうして? 行きたいなら、行けばいいじゃない。私が付き添うわ。黒崎先生には内緒にして、タクシーで行けば、負担も少ないはずよ」


 論理的で冷静な栞が、紬の体を第一に考える栞が、そんな無茶な提案をしてくれる。

 それは、栞自身が、今の紬と陽向の間に流れる感情の重さを、誰よりも理解してくれているからだ。


「……ダメだよ」


 紬は、首を横に振った。


「私が競技場に行けば、瀬野くんは絶対に私を気遣う。彼が走ることに集中できなくなる。……それに」


 紬は、窓の外の灰色の空を見上げた。


「これ以上、彼に近づいちゃいけない。私が彼の光になれるのは、こうして遠くから見つめている時だけなんだよ。……本当の私を知ったら、彼はきっと、走れなくなってしまうから」


 それは、結城紬という少女が下した、残酷なまでの自己犠牲の決断だった。

 愛する人の未来を守るために、自ら暗闇へと退くこと――。


 

 地区大会当日。

 雨は上がり、空には薄日が差していた。

 紬は、自分の部屋のベッドの上で、静かに目を閉じていた。

 時計の針が、午後一時を指す。

 彼が、スタートラインに立つ時間だ。


(走って、瀬野くん)


 心の中で、祈る。


(壁を壊して。あなたの望む、あの美しい景色を、見つけて)


 遠く離れた競技場の空の下で、瀬野陽向は、胸ポケットに忍ばせた小さな手紙の感触を確かめながら、静かにスタートのピストルを待っていた。

 彼女は、ここにはいない。

 けれど、彼女の言葉が、確かに彼の中で熱く燃えている。


 二人の心は、離れた場所で、けれど同じ一つの光を目指して、強く結びついていた。

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